ケアニューディール(JABI会誌掲載版)


こちらは、2020年9月の下記 https://note.com/taomorohoshi/n/ncafb6c2774f1 の加筆修正版です。
2021年度の日本ベーシックインカム学会誌への寄稿内容です。

ケアニューディール

諸星たお


要旨

グリーンニューディール、防災減災ニューディールなど、政府から民間への分配論に加え、ケアニューディールを提示する。
民間部門の信用創造は金融資産と金融負債が同額なので純貯蓄は不可能だが、現に純貯蓄があるのは次の理由による。
G>T   政府の赤字支出である。
S≡(G−T)  民間貯蓄≡(政府支出−税)
政府部門の赤字分、民間に純金融資産が生じる。ゆえに財源は税や国債ではなく、政府支出が金融財の発生の源であり、政府は予算に困らない。
介護など社会的課題に政府支出を直接向けると、家計は大量生産大量消費、大量廃棄を伴う企業内労働以外に、生命再生産に資する働きで生活所得が得られる。
ケアの低賃金は財源論に囚われて公定価格を抑えた為なので、その引上げでケア労働の賃金が平均以上となれば、利潤優先から生命再生産優先へと社会を変え得る。
エッセンシャルワーク×MMT=ケアニューディールとしての、「人々をケアする政府の新たな分配」が、様々な課題の処方箋となり得る事を示す。

キーワード
ケアニューディール。MMT。公定価格、社会的課題。ベーシックサービス。


Care New Deal
Morohoshi Tao

Abstract
Wisdom to bridge different horizons is needed to unite the dividing world.
Our hearts are full of love,caring for each other and helping each other.
Most central banks have the right to issue currency for their government to spend.
Love and money.Both are full of the world,but how few things reach people.
Love and money.A theory that integrates the two seemingly contradictory is essential for our solidarity.
We need a fusion of social security to realize love and modern monetary theory to make the economy work.
One of the things that MMT Modern Monetary Theory can do to care for people is the Care New Deal.
Love and money for peace.

Key word
MMT.Care New Deal.Official price.Social challenges.Basic Service.

ケアニューディール

諸星たお

1.ALS等、重度訪問ヘルパーの立場から、ケアニューディールを提示する

[GND≒自然再生産の議論では、ケア労働の扱いが不十分。生命再生産事業であるケア労働の役割と、新自由主義下での生命再生産の不可能性]

自然環境は、再生、再生産するが、co2の循環や植物の生育、放射能の半減には時間経過が必要である。自然再生産にかかる時間的、量的負荷の低減を目指して、グリーンニューディールが叫ばれて久しい。
「経済活動」と混同された「利潤を獲得する為の運動」を、自然資源を消費せざるを得ない領域からいかに移転させるかと、人々の暮らしを成り立たせる、本来の経済との峻別が必要であり、そこに財政がどう関わり得るのかを問う。
介護・医療・保育・教育等を含むケア労働は、生活の実現に不可欠であり、人間の生命を再生産する機能がある。
新自由主義に至るまで先鋭化された、資本家的な生産様式に沿った貨幣や資源や人の使い方により、人間が生きる為の働き(仕事・生産・労働)、という状態から、働く為に生かされる状態へと後退し、今では利潤の為に消費され使い捨てられる存在者として扱われ、ロボットで置き換えられるまでの中継ぎとして消耗されるかのようです。個体の生活、生存、生殖により子孫を残す事も困難となり、生命再生産の不可能性が増している。生活を犠牲にするとは、生存を犠牲にするのと同義である。
生活には、可処分所得と、可処分時間が必要だが、しかし賃金は伸びず、増税等で可処分所得は減少傾向にある。
近年はサービス残業で可処分時間も減り、働き方改革で残業が減っても、解禁された兼業による副業の時給が本業の残業代より低い場合、傾向はむしろ悪化する。
単身者は24時間の中で就業と家政の両方を行い、同居でも、男女共働きでなければ生活所得の維持が困難であり、それぞれが労働時間を費やすため、生活時間(衣食住に費やす諸々の作業時間と、関係構築の種々の時間)の分業や確保は困難となり、家庭の可処分時間も減少した。可処分所得の減少は、外食やクリーニング等、代行での可処分時間の確保も困難とする。
生活には、個人や家族が利用する私的な可処分空間が必要だが、リモート化で、その生活空間が労働空間に置き換わりつつある。都市部においては、可処分所得の減少は賃料への支出余地の減少による可処分空間の減少につながる。
なお、可処分時間の少なさは、消費活動の、とくにサービス消費を低下させる。遊びに行く時間と体力が残っているのかと言う事である。可処分空間の少なさは、物の消費を低迷させる。アパートのどこにこれ以上物を置くのかという事である。これは都市部ほど限界が早く訪れる。そもそも可処分所得がなければ、時間も空間も増やしようもない。
以上の様に、可処分領域の減少による生活の不可能性が、生殖の不可能性のみならず、生存の不可能性を強め、早死にせずとも健康寿命を短縮させる為、ケア労働とそれに必要な人的、財政的な余地を、より一層必要としてしまう。
高度成長期の陰には、旦那の両親の世話に人生を費やしながら、自身の両親は姥捨同然にせざるを得なかった、妻達の犠牲とシャドウワークがあった事は疑いない。単に財政拡大と言って、同じ事を繰り返す意味は無い。


2.ケア労働への政府支出による労働移動は、環境負荷を減らし持続可能性を高めるか
[エッセンシャルワーカーに政府からの価値付けは可能か、適正か。ブルシットジョブは実在するか。介護で消費されるものと生産されるもの]

介護・医療・保育や、治水治山・警察消防・国防等の、公益性の高い分野は、そもそも政府の支出が組み込まれており、その支出の増減を通じて、既に価値付けされている。
それらエッセンシャルワーカーが人手不足であるという事は、政府による価値付けの低さ、つまり対象となる職業の賃金が適正値を下回っている事も大きな要因である。
エッセンシャルワークが概して低賃金であるとは、政府がその様な価値づけを許容、もしくは肯定している為である。
一方、Graeber.2020.によれば、ブルシットジョブは実在し(個人的体験からもそう断言する)、概して中・高所得よりである。社会的資源、環境資源、人的資源を浪費し、社会を再生産ではなく、消費する。ブルシットジョブは、お役所的仕事や、成果の読めない研究等の意味では全く無く、欺瞞や詐術的で、当人すら内心正当化しにくいと感じる仕事であり、無意味さはそれに耐える個人の苦行として、崇高な行いと肯定されさえし、生産や配慮でなく、苦しむ事に仕事の価値が見出す傾向すらある。自己犠牲の崇高さに脚色され、供された犠牲で肥え太る者が生き残るかのような構造だが、これは持続不可能である。
介護等は移動含めて人力が主であり、省力化の為の機器導入や、排泄処理にかかる部分に環境資源の消費は今後も見込まれる。
既存設備の座礁化などの環境負荷は他の産業と比較せねばならないが、一方で、食事や運動など予防介護や、社会参加への公的な支援ができれば、そもそも介護の必要自体が遅らせられ、人手や資源の必要を減らせる。
インフラが事後保全より予防保全の方が費用も人手も掛からないように、生体も壊れる前にメンテナンスする方が、コストは低くなる。
介護は生命再生産事業であり、社会の再生産に関わる。介護離職による企業の損失と、当人の失業や、家族介護で時に見られる不幸を回避する事は、ヘルパーの雇用で埋められる以上の財政スペースを広げる。
そもそも、老後の悲惨さを放置する事が財政の維持に必要とされる社会は、社会そのものを瓦解させる。
軍事において、一人の隊員を救出する為に、複数の隊員の命をリスクに晒してでも作戦を行うのは、助けられるものでも見捨てられると全体に認識された時に、部隊が機能しなくなるからである。
国土強靭化や生命安全保障から日用品の供給体制まで、やるべき事が多い中で、どれだけ人手を割けるかは、ブルシットジョブやそれを支える仕事に取られているリソースが膨大であろう点を踏まえれば、労働人口や設備投資を増やす以外に、単に賃金の水準、公定価格の増額で、これらエッセンシャルワークへの労動移動は実現可能である。
政府による支出の如何で、労働の価値づけが可能ということは、工員によるのであれロボットによるのであれ、自然を消費する工場生産や、人的資源をペーパーワークに消耗させる事だけが生産として重要視される経済から、生命再生産にこそ価値を認める経済への転換も、財政政策で可能という事である。
なお、介護への支出は事業費として行われる為、GDPに含まれる。ケアエコノミーの経済的、社会的な意味は、それだけで膨大であり、且つ論じ尽くされているためここでは深入りせず、その実現性としての財源をどう考えるかを次に考える。
本論考のケアニューディールとは、社会的課題に関する先行する様々な提言を、いかに実行し得るかを、財政的裏付けを元に語るものでもある。


3.応益であれ応能であれ、負担を税の納付で語る事への異議
[生存の為の万人による支え合いを納税で語る事の弊害。負担とは生産活動であり、基準の設定としての税に、支え合いの意味は無い]

 前提として、民間部門の純貯蓄の源泉は G>T すなわち、税で回収されるより多い政府の支出である。
財源と誤認される税であるが、そもそも通貨は、政府の赤字支出を通じて民間に供給されたので、財源は政府の赤字支出である。
外貨も円との両替の必要から、先に円の発行が伴う。貿易で得られる外貨という金融財は、実物財の放出が先にある。
銀行の信用創造は、民間部門内部では金融負債と金融資産が同額であるので、0であり、純貯蓄はできない。政府の債務残高が、民間の純金融資産となる。
自国通貨による課税は、政府支出の結果として可能になるので、因果関係として財源ではあり得ず、先に支出された通貨の回収である。
次に、国債も税も民間の金融資産の回収であるので、同じ事という誤解がある。
税は民間の家計と金融部門と非金融部門の企業などを合わせた民間部門全体からの金融資産の回収である。
一方国債は、殆どが準備預金で買われるが、これは民間の金融部門の資産である。家計や非金融部門の企業の金融資産で買われるのは僅かである。
したがって、税による支出と国債による支出は別物である。
また、そこで用いられるのは中央銀行当座預金であり、家計と非金融企業は持ち得ない。これらが国債を買うには、銀行預金を中央銀行券に交換する工程を銀行内で代行してからであろう。つまり、結局は銀行の準備預金で買われている。
銀行の準備預金は、紙幣の入金によって預金と同時に発生するので、あたかも国民の金融資産が準備預金の原資かの様に見えるが、その紙幣は準備預金を取り崩して、預金残高を減らして現出するので、発生順からすると、紙幣は結果であり、端緒は政府支出である。国債は政府支出の財源ではなく、政府支出の後に、準備預金が増えすぎて、下がったインターバンクレートをプラスに調整する為に発行される。なお、銀行間金利が国債金利に与える影響や貸出金利の独立性については割愛する。

政府支出から国債での回収までの機序をモデル的に示す。

① 政府が支出を決定 

② 政府は国庫短期証券を日銀の資産に、日銀は国庫に政府預金を発行し、日銀の負債に計上

③ 政府は給付や事業費を、国民や企業の口座に振り込む様、銀行に指示 

④ 銀行は各口座に銀行の負債である銀行預金を発行し、民間純金融資産が発生 

⑤ 政府は資産の政府預金を銀行に振替えて決済し、銀行の資産に準備預金が発生 

⑥ 政府は国債を発行し、銀行が準備預金で購入。国庫に公債金が移り、日銀保有の短期証券と相殺

なお⑦として、⑥で政府預金と日銀保有債を相殺せずに、日銀保有債を公債金で現金化し、その現金で残存する市中保有債を日銀が買い上げるプロセスも存在する。
すると、最終的には日銀の資産の短期証券が市中保有だった国債に置き換わり、市中は資産の国債が日銀に買い上げられて再び準備預金となる。
このプロセスが続くと、日銀の満期保有債が市中保有債を政府に代わって事実上償還することになるので、国債の自食作用とも呼ばれる。桂木.2016.
以上から分かるように、国債購入の原資は、政府支出に伴い発行される政府預金それ自体で有り、銀行預金はその結果であって、原資ではない。
政府の支出先となる様々な事業が実施され、社会や生活の必要が満たされている以上、支えているのは労働であり、納税自体に社会保障を支える機能は無い。
社会保障制度は、社会保障費の問題で破綻するのではなく、社会保障事業の従業者の不足で破綻している。
税は、「国定通貨の定着」「格差の是正」「望ましからざる事業の抑制」「物価変動要因」として機能する。税が支えているのは、社会保障制度ではなく、通貨制度である。
MMTの租税貨幣論が示す通り、政府が必ず受け取る、徴収するモノとして、自国通貨が設定されている限り、自国通貨に対する自国民からの需要は保たれる。
貨幣の名目価値は、100円の課税を100円硬貨一枚で、1万円の課税を一万円札一枚で弁済出来る限り確実に保たれる。その為の租税は支出を賄う額でなくともよく、逆進的である必要もない。
貨幣の実質価値としての物価や為替は、税率や課税方式だけでは決まらない。それは人件費が大きく影響するが、人件費は需給で決まるというより、権力関係で決まる要素が強いだろう。
納税を支え合い、それも消費税を痛みの分かち合いとして肯定する論があるが、労働分配率を下げた結果として生じた配当や報酬で消費された時に支払われる消費税は、痛みの分かち合いではなく、労働者、低所得者への二重の痛みの押しつけである。
消費税等の逆進性の強い、ビルトインスタビライザーを欠いた課税方式とセットで行われるBIやBSもまた、所得を貯蓄や投資に回して運用益を持てる層との格差を助長する。
更に債券価格が、年金や日銀による買い支えにより、維持、上昇している眼下では、所得を消費せざるを得ない低所得者と、貯蓄・運用に回せる高所得者の格差は一層広がる。
政府の支出能力に制限が無くとも、どこに支出するかは、制限されるべきである。


4.財政制約と供給制約による命の線引きの不真面目さ
[MMT視点からの、財政制約・財政再建論の否定。供給制約の上限を上げる為の支出の在り方として、JGP、BI、BS、負の所得税等の制度との比較と、現状の最適解]

Wray.2019.などの、MMTによれば、政府は通貨の発行者であり、自国内での決済手段に不足することがない。
決済手段である通貨(政府資産としての硬貨と、政府債務を資産として見合いに発行される中央銀行負債)を国内に受領させるのは、政府に対する民間の債務(租税)を措定し、弁済する手段に自国通貨を措定し認めさせる、権威(法)と権力(執行力)による。
租税支払いの目的により、通貨に対する最低限の需要が確立すれば、通貨の名目価値は保たれる。実質価値は、通貨で購入出来る財・サービス(商品)の供給と、販売者と購入者との権力関係に左右されるが、商品の供給は、決済手段が不足すれば滞る。
財政の累積赤字は、通貨の実質価値、特に物価上昇が亢進しない限り、問題とならない。為替は変動相場制なら貿易や経常収支で調整される。インフレは自国通貨で買うことのできる商品が生産されていれば、亢進しないし、国内生産の価格は、通信費の値下げや公定価格の抑制に見られるように、政府が差配できる。
利払いの問題は、あえて国債の市中消化を通貨発行手続きとする為に発生するが、これは制約を自身で課したに過ぎない。
その場合も、利払い分の通貨は全体では不足せず、不足するかに見えるのは、貯蓄された分の通貨である(民間の信用創造も、政府の通貨供給も無くとも、ある経済圏で発生する利子は、利子の受領者である銀行が、自行の資産に貯蓄しない限り支出されて借り手に還流する。利子は元本返済後でなく、前に支払われるので、銀行が支出すれば、借り手の元本返済資金になり、利子分の通貨は不足しない)。
したがって、政府の債務残高は、民間の純金融資産の発生源であり、政府の債務残高を縮小するとは、民間の純金融資産の縮小である。
マクロ恒等式、ストック・フロー一貫モデルから、政府部門の黒字化は、民間部門(企業か家計のいずれか、又は両方)の債務超過と、海外部門の赤字のいずれか、又は両方を作り出し、不安定化させる。経常収支は、日本程度の経済規模で、長期に渡る不均衡を期待することはできず、早晩外交課題となる。
輸入超過による為替安は輸出の拡大で均衡し得るが、日本の場合は対外投資や米国債の金利による外貨収入などもあり、輸入超過による外貨不足から外貨建て債務を立てる懸念は少ない。
以上から、債務が自国通貨建て且つ、変動相場制で、国内の供給能力が不足していない日本には、政府の支払い能力に制約はなく、支払い能力をフル活用した結果としてのインフレ懸念も小さい。

財政再建は好況に伴う民間の過剰投資等による債務超過や大幅な海外部門の赤字が続いた際に、達成される。これは売りオペや利上げ、各種規制や税制での抑制や、給与水準の引き上げが予防的に実行された上で起こる場合は、不安定化を幾分抑えられるかも知れないが、そうした調整無く民間の過剰投資と民間債務膨張により達成されると、続いて金融崩壊と、その煽りを受ける実体経済へのリスクが高まる。
こうした事から、財政再建が達成される事は、好況期でも特に低所得者へのリスクが付きまとう(アメリカが好況期に財政黒字化しつつも、国内の貧困が解決されず、一方で日本が好況期にも財政黒字化せず、アメリカほど格差がひどく無いのは、好況期に税収を債務償還に費やしたか、再分配に費やしたかの差ではないか)。
不況期の財政再建は、今ではIMFも認める通り、国民の健康を損ない、倒産を招き、社会資本を毀損する為、確実に有害無益である。したがって、政府は赤字が通常である。しかし呼び水効果で過剰投資を引き起こすと不安定化させる。
徒らに経済成長を求めて政府の赤字支出を増やすだけでは、過剰投資と民間債務膨張による不安定化と、座礁化など環境負荷の拡大で、環境と経済の持続可能性を損いかねない。
財政政策の制約は、財源では無く供給能力であるので、国民の生命と財産を守り、供給能力の維持向上に資する分野への非裁量的、恒常的な支出は、支出の余地そのものを引き上げ、財政を持続可能とする。国民の健康寿命や住環境の保全は、自然環境と生命の再生産の持続可能性を両立させ得る。
国民の生命と財産を守り、供給能力の維持拡大に資する支出のあり方として、インフラなどの国土安全保障、エネルギー安全保障、防衛などの国防安全保障、医療福祉などの生命安全保障など多岐にわたるが、安全に自死や餓死する事があってはならない為、安全保障とは生活保障でもある。
生活保障とは家計への支出であり、政府から人々へのケアである。

家計への支出、生活保障の制度案として、4つ挙げる。
(1)JGP雇用保障プログラム(2)BIベーシックインカム(3)BSベーシックサービス(4)NIT負の所得税(給付付き税額控除)
前提として、MMTによりこれらの政策の財源は政府の赤字支出により賄われ、税だけを財源とする必要はない。

(1)JGPでは、好況期は市場の賃金水準が上がり、JGの利用が減り、政府支出も減る。不況期は失業者のJGの利用が増え、政府支出も増える。ビルトインスタビライザーの機能と共に、労働者の技能の維持拡張が可能ゆえ、供給能力をも維持する。ただし、仕事の内容を定めるのが困難。
サーファーをライフセーバーと認める例に見られるように、家庭のシャドウワークやケアリング労働への再評価や、自治体の公益が優先される点で、生産の意味の拡張の効果があるが、実装に至る過程で様々な認定作業とペーパーワークが発生し、ブルシット化する可能性はある。
また、民間の就業者が、他のJG利用者と同等の活動をしていた場合、例えば、失業者による家庭内介護をJGPと認められた場合と、民間就業者が勤務後に家族介護をしていた場合など、副業としてJGPに認めるかなど議論が足りない。
なお、JGPには貨幣の実質価値のアンカーとしての機能がある。
貨幣の名目価値100円が100円である事は、税により保たれるが、100円で何が買えるかは、商品の価格の根にある人件費が大きく影響する。人件費が失業を創り出す事によってゼロに設定してしまえるなら、物価はゼロに近づけたり、額を維持して利潤を優先させる事が出来てしまう。
失業者の最低賃金は無、ゼロであるので、政府が失業者を雇用して、労働所得の床をゼロではなく、一定水準に設定する事は、物価に占める人件費を過剰に圧縮(一人当たりの労働強度を無理矢理あげる)させる事への抑止となる。
労働の価値を搾取する事が避けられ、物価の、つまり貨幣の実質価値の安定化に寄与する。
また、JGPに採用される職種にJGPがつける賃金は、民間のその職種の賃金に対し、それより下回る事を抑止するとともに、それより過度に高騰することへも抑止的となる。
我が国においては、憲法27条により、国民は勤労の権利を有し、義務を負うとある。この点からも、勤労の意志がある者については、単にハローワークで民間の仕事を提示するのみならず、雇用する責務が国にはあると言える。これは納税の義務を課す以上、納税された通貨は受領する責務が政府にある事と同じと言える。
義務は課すが、受領はしないなどと言うことは、仕組みとして破綻している。

(2)BIはブルシットジョブを減らす可能性があり、労働と結びつかない所得保障は、人々の多様な活動を喚起する可能性がある。
貨幣制経済との整合性を考えると、例えば、政府が戸籍制度を定める以上は、戸籍は獲得するのではなく、政府から与えられなければならないのと同様に、貨幣制度を定める以上は、貨幣は稼ぐのではなく、まず政府から与えられなければならないと言える。
これはMMTのスペンディングファーストの、支出は政府部門から民間部門へ先立って行われるという視点と共通する。
それが個人に対しても継続して長期に行われるべきかは争点となるが、少なくとも、貨幣が勤労とある程度結びつかざるを得ないなら、政府は失業者の申請に応じて仕事を与え、生活所得として貨幣を得られるようにしなければならない。
国家が私有財産制と国定の貨幣制経済体制を敷き、納税と勤労の義務を課しながら、個人が仕事と貨幣を獲得しなければならず、ともすれば勤労が許されない事もある現状は、あたかも仕事も貨幣も、国家の外から持ち込まれねばならないかのようであり、矛盾がある。
BIが無い現状において存在する格差の再生産構造は、BI自体では解消せず存在し続ける為、企業の労働分配率の低下や、分離課税や逆進的な税制など、ビルトインスタビライザーを欠いた制度によっては、格差の拡大が加速する。
労働所得とBIを合わせても貯蓄不可能な低所得層は、BI分の金額も支出するので、企業の売上は増えるが、これが労働者の所得に反映するかは定かでなく、配当や役員報酬に消える可能性もあり、この場合所得格差の拡大は加速する。これが投資に回る場合は、更に運用益で資産格差が拡大するが、その運用益が年金や日銀の買い支えによる、事実上の政府の資金供給で成されているなら、政府と中央銀行によって選別的に格差が作られる事になる。
こうした政府支出が投機的に用いられてインフレした場合、低所得者への恩恵は目減りする。インフレ抑制の為に支給額が減らされる場合も同様である為、別途裁量的な、したがって決議に時間のかかる対策が必要となるだろう。
貯蓄が可能な程の支給額の場合は、それが支出された場合の物価変動の予想が難しい。BIだけで格差構造をキャンセルしようとすると、流石に為替含めて貨幣の実質価値の大幅な毀損を伴いかねない。
BIが既存の社会保障と引き換えに行われる場合は、事実上、政府から国民への手切れ金となる。雇用についての責任はもとより、安全保障も人権も、BIで完結させる自己責任社会となる。
憲法27条から問えるであろう政府による雇用保障の責任すら問わないままでは、例え一旦BIが実施されたとしても、BIを継続する責任を問い得るのかは、憲法25条から導き得るか疑問であり、実施の継続性ではJGPとはまた違う不安定さを拭えない。
BIにより家計の可処分所得が増えても、供給能力が減衰していては、インフレで購買力は落ちてしまう為、BIの実施に先んじて供給能力の増強と、公共部門の従業者の確保、すなわちベーシックサービスとベーシックインフラの充足が必須であろう。
船後靖彦参議院の想定の下での参議院調査情報担当室の試算や、日本経済復活の会小野盛司博士らによって2020年に行われた日経NEEDSの試算からは、毎月10万円程度であれば、数年間はインフレの懸念は薄い。
既に行われた特別給付金の継続なので、実施のハードルは低く、恒久化の影響は不明だが、2〜3年の時限的な措置ならば、直ぐにも可能であろう。
ただし、インフレ率は目安の一つに過ぎず、たとえスーパーでの買い物の値段が安定していても、ケア労働の従業者不足で、必要な介護や保育が受けられず、高額な自費利用を余儀なくされるなら、かえって家計の負担が増えかねない。この事は、単純なGDP成長が国民の幸福とは必ずしも一致しないことと似る。

(3)NITはビルトインスタビライザーを内包しており、格差の是正と低所得者への生活保障を両立する。労働所得と逆に連動するので、供給能力の毀損にはなり難いが、BI程には、脱ブルシットの作用は働きにくい。
また、実施には正確な所得の把握の為のシステムの刷新が必要。失業対策や既存の社会保障も並行して必要とされる。BIが厳格な累進課税とセットで行われた場合と、民間に供給される純金融資産の額は同値になる。

(4)BSは、生活必需サービスを公共サービスと看做して、基本的には無料で利用可能とする、サービス給付と言える。現金給付ですら、その現金給付を行う行政サービスが必須である。
医療、介護、障害福祉、育児、教育の無料化と、住宅補助などがあげられているが、公共交通機関や光熱費や通信費まで無料化に含めるかは議論に幅がある。
子ども食堂や大人食堂も範囲に含まれるかは、自治体の実情に応じるところがあり、どの様なサービスが必要かをコミュニティから決定するJGPと親和性がある。
該当するサービス分野で利用者が増える為、その需要に応じられるよう、追加的な雇用や公共投資が見込まれるが、直接的にはBSのサービス分野に限定される。該当分野への民間の支出が浮く為、波及は見込まれる。
BIなどの現金給付ではないので、個人の月単位の資産管理能力は必要でない。
残念ながら日本における主な提唱者(井出.2018)は、財源を消費増税とセットで論じている。
税は痛みの分かち合いとの事だが、労働分配率を抑えられた結果の低賃金労働者の上に成り立つ、配当や高額報酬による高所得者の、それぞれが消費に対して支払う消費税率が、対等な分かち合いとは言えない。
消費税とセットの場合、ビルトインスタビライザーが弱まる為、低所得者と高所得者、不労所得者との、運用益の差が発生し、痛みの分かち合いではなく、労働者への痛みの押し付けに終わる。
なお、消費税が全て福祉目的に使われる場合はどう考えるのか。
まず、政府が行う事業や調達への支払いを、民間から徴収しなければならない訳ではない。徴税は、社会保障を支えているのではなく、貨幣制度を支えている。社会保障を支えるのは、労働者である。社会福祉そのものは、税や保険料という貨幣が直接実現する事ではなく、例えば介護は従業者のケア労働でしか実現し得ない。
その労働者、ヘルパーが、自身の給与を全額、生存に要する消費行為に用いるとして、その消費に際して支払った税からヘルパー自身の人件費が支払われるなら、給与は消費税分割り引かれるのとほぼ同じ事である。
仮に消費税が100%なら、自身の給与を全額自分で支払うのと同じ事である。つまり、税額分のタダ働きを、社会保障従業者に強いていることになる。
消費税を全額社会保障に使うとは、社会保障サービスの拠出と、自身の賃金の拠出との、二つを従業者に求めている事になる。
福祉の一形態である給付金も、ネットやスーパーで買える商品が生産されていなければ、使い道がない。消費税が給付金(年金、生活保護費、介護保険点数など)になり、それで商品が購入されるのだとしても、労働者の生産する物である以上、その労働は生産者にとっては消費税分、つまり使われた給付金と同額、購入者から値引きされた事になる。何故ならばその給付金は、労働者の支払う税から出される事になるので。労働者は商品の拠出と労働の値引きの、やはり二つを強いられる事になる。
したがって、消費税であろうと無かろうと、社会福祉目的であろうと無かろうと、財やサービスを供給する労働主体、特にエッセンシャルワーカーから徴収するのは、公益となる事業への労働力の拠出と、労働の値引きの二つを強いることは変わりない。
一方で、当人の労働や生産量と、所得が結び付かない層、より不労所得の額が多いと見做せる層への課税は、課税の額が大きくても、労働が値引きされたと見做し得る割合が小さい。
所得が100%不労所得である者への課税が100%だとしても、労働の値引きは0であるし、当人による実物財やサービスの拠出も強いていない。金融財を回収する事で投機的運用によるインフレを回避させるならば、運用の選択の限定は強いる事になる。
エッセンシャルワーカー以外への課税、特にブルシットジョブへの課税は、社会を維持するのに必須な商品の拠出をしているとは言えないので、労働の値引きという一つを強いている事となる。
当然ながら、上記を理由として、あらゆる税が不要と言うことではない。国定貨幣を需要させ、定着させ続けるには、何らかの税は必要である。おそらくそれは、所得への累進課税や、転売や投機への課税の強化と言う事になろうが、ここではその詳細に踏み込まない。ただ、社会保障制度の維持のために、消費税や社会保険料の負担が国民に必須な訳ではないし、現在の徴収の仕方は、社会を現場で支える者により多くを負担させる構造だと言うことである。
もちろん、何がエッセンシャルワークであるのか、何をもって不労所得と言えるかはグラデーションがあり、不労所得にも障害や高齢による福祉給付と、株の配当や不当な役員報酬など、性格の違いがあり、一概に区別できるものではないが、少なくともマネーゲームとケアワークについては、十分に区別できるだろう。

以上四つを比較すると、財源論を別とすれば、社会への影響や制度変更の見通しと、供給能力を損なわない点のバランスから、NITとBSのセットが安定していると考える。


5.最小限の変更で最大限の変化を起こす方法としての、公定価格の再設定
[政府の価格設定が社会的公正を実現し、社会的課題の解消にいかに寄与するか。エッセンシャルワーカーの価値の見直し]

上記の四つ以外でも、直ぐに始められることはある。既存の制度の対象や支給額の拡大。適用条件の緩和や期間の延長である。
生活保護や年金、失業手当の需給要件の緩和や期間の延長は、広義のBI化と捉えられる。
介護や保育の報酬を規定する公定価格の増額は、労働移動を促して従業者が増えれば、利用者の限度額を増やす事も可能になる。
国全体の賃金水準を高め、労働、生産の意味を、物の生産の為の機械的労働力の拠出から、生命体への配慮へと転換させる。
その為に必要な制度変更は殆ど無く、単に報酬と公費負担の数値を改定するだけである。
介護給付費は現在11兆円ほどであるが、例えば倍の22兆円にしたところで、追加予算はコロナ禍で行われた一律10万円の特別定額給付金の13兆円にも満たない。事業所の人件費率は凡そ7割なので、7兆円あればヘルパーの所得を倍にできる。
介護の平均月額が30万円であるので、倍で額面60万円とすれば、ブルシットジョブと感じる職場に残り続ける意味は薄くなり、介護部門の従業者は増え、予算の額も増えるだろうが、利用者とその家族と、引いてはその地域社会と地域経済に寄与する。介護需要は都市部に限るものではない為、東京都一極集中の是正にも寄与する。こうしたケア労働への支出の便益は多いが、ここではこれ以上扱わない。
ケアと言うと介護に限定されて考えがちだが、国民の安全な暮らしを可能たらしめる配慮を行う主体として考えれば、自衛隊すらケア労働者に含み得るし、行政の窓口は言うに及ばない。
したがって、非正規公務員の正規化なども、ケアニューディールの範疇である。
様々な理論はあるが、最適な理論の実装の前に、既存の制度の枠組みで出来ることは多い一方で、それらの制度やサービスを実行する従業者が居なければ、従業者不足によるサービス給付の抑制で結果的に黒字運営されている介護保険の轍を踏む。
財政において危惧される事の多い債務不履行であるが、社会保障は既に介護保険のサービス給付支払いの不足という形で、政府の債務の不履行が横行している。
既存制度の枠内で、運用と予算の規模を変えるだけで、新たな制度の創設をせずとも、人々へのケアの足らなさに起因する様々な社会的課題を解決し、利潤より生活を優先する価値の転換すら起こし得るが、それにはまず、利用者と従業者双方へのケアの視点が根底に無ければならず、その起点がエッセンシャルワーカーへの公定価格の引き上げであり、それを置き去りにするようでは、如何なる理論も社会的課題を解決し得ないだろう。
自殺率の増加と、個人と社会の経済状況の相関が語られるとき、当然、現金給付で助かる命はあるが、より自殺に向かわせる背景にあるのは、国民へのネグレクトとも言うべき人々への暮らしに無関心な、政府というより社会の態度である。
この、人々への態度は、個々の関係を除けば、企業から個人へは通常は賃金や福利厚生で、行政から個人へは、権利の保証に対してどれだけ予算や人員を付けるかで示される。
そもそも賃金とは、その事業と従業者の市場価値を示すと言えるなら、従業者の市場価値が低いとは、そのサービスへの利用者の需要、必要性も低く見られている事になる。介護ヘルパーと金融ディーラーの所得に差がある場合、介護事業は証券業務と比べれば、社会的に必要度が低いという事になるだろう。果たしてそうだろうか。
政府支出の余地があるならば、今足りてないものを足らせる。壊れているものを直す。困っている人を助ける。こうした社会的課題に政府が直接支出する事になんの支障もなく、注意すべきは財政余地の有無であり、それはインフレ率が目安となるが、ここまで示してきたように、供給制約を引き上げられる限り、財政制約を人命の線引きの理由には出来ないし、供給制約は財政政策によって引き上げられるので、供給制約を理由に生命の線引きをする理由もない。
線引きされている現状はあるが、固定化すべきものでは無く、財政政策によって改善出来る事である。財政制約で財政を考える必要は無く、何を改善すべき課題と措定するかにより、財政の振り向け方が変わります。
現在、SDGsが単語だけは認知され、グリーンニューディール等の地球環境の持続可能性を目指す政策への財政の役割も語られ始めています。
生命の再生産、人々の持続可能性への財政の役割として、ケアニューディールはすぐにも可能であり、その理解と実現が求められます。


おわりに

分断に向かう世界を繋ぎ止めるために、異なる地平に橋を架ける知恵が必要です。
世界中の、多くの人々の内面は、互いに慈しみ、共に助け合おうとする、愛で満ちています。
世界中の、多くの中央銀行は、自国政府が支払う通貨を、発行する能力を備えています。
愛と金。共に世界中に満ち満ちていながら、人々に届く事のなんと難しい事でしょう。
愛と金。相反するかに思える異質な二つを統合する理論が、我々の連帯に不可欠です。
愛を実現させるための社会保障と、経済を機能させるための現代貨幣理論の融合が必要です。
人々へのケアのために、MMT現代貨幣理論が出来る事の一つが、ケアニューディールです。
平和のための愛と金です。

(了)









参考文献

David Rolfe Graeber.酒井隆史 訳.芳賀達彦 訳.森田和樹 訳.2020.『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店

David Stuckler.Sanjay Basu.橘明美 訳.臼井美子 訳.『経済政策で人は死ぬか?公衆衛生学から見た不況対策』草思社

後藤澄江.2012.『ケア労働の配分と協同 高齢者介護と育児の福祉社会学』東京大学出版会

保田真希.2013.「ケアの社会化と代替をめぐる論点」『教育福祉研究』第19号37p.北海道大学
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/54009/1/AN10264662_19_5.pdf

井出英策.2018.『幸福の増税論:財政はだれのために』岩波新書

桂木健次.2016.「政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について」『富山大学紀要富大経済論集』第62巻第1号.富山大学経済学部
https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=13311&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

Larry Randall Wray.島倉原監訳.鈴木正徳訳.2019.『MMT現代貨幣理論入門』東洋経済新報社

Milton Friedman.村井章子 訳.2008『資本主義と自由』日経BP

小野盛司.2020.日経NEEDSを用いた試算は以下のサイトを参照
政府がお金を刷って国民に配った時の経済を日経のモデルで調べた(No.411): 日本経済復活の会
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-9b9dee.html
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-ad2ee1.html

建部正義.2014.「国債問題と内生的貨幣供給理論」『商学論纂』第55巻第3号597p.中央大学
https://chuou.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6134&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

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