魔女たちを見よ-負債と性差と資本主義

今年も日本ベーシックインカム学会に寄稿させていただきました。
下記はその下書きですが、会誌ももう出来てるので、出典はそこになるのか。2023年度の日本ベーシックインカム研究です(ISSN登録はまだで、今後の予定)。
毎度、査読に間に合わないのと、そもそも内容的に研究ノートや報告の類なので、論文ではないです。
とはいえ渾身です。
実は以前にイエスの借金というnoteもあるのだが、マイケルハドソンの著作を知って、あながち間違ってないなと確信するにいたり、そのテーマと絡めた。
読む時間も買う金も無い中で、他にもあれこれやりながら、よく書いた俺。
Watch the whiches!!


「魔女たちを見よー負債と性差と資本主義」


要旨

資本の本源的蓄積は土地や人々への収奪によって行われ、収奪は債務者への過剰な責任と、債権者への過剰な優遇を通じて正当化される。債務/債権の関係は、教会を経て、債務・負債を罪と誤訳する事で異端を作り出し、罪/罰という罪人と処刑人の関係に変異する。過剰な債務を負わされ、土地や家族を囲い込まれ、生存を危うくされた人々の抵抗が犯罪化され、抵抗する男女の分断が意図される。その過程で女性は魔女とされ、女性に対する恐怖政治が正当化される。女性の地位が切り下げられ、男性に与えられることで、債権者への抵抗は弱まり、企業内奉仕者としての男性と、家内奉仕者兼労働者再生産装置としての女性が定着する。こうして国内の土地と人々を収奪した資本は、さらなる利潤の拡大再生産という自己目的に突き動かされ、遂には地球を収奪する。空前の生産性を実現した現代は、極限まで収奪される世界であり、国毎の差はあれど全体として収奪は還元より大きく、人々の可処分領域は狭まり続け、実現された生産は次の利潤の為の生産に費やされる。資本主義という自食的生産様式が支配的な構造の中で、BIやジュビリー(ヨベルの年、債務の帳消し)はどの様に作用するか、オルタナティブはあり得るのかを問う。

ひとまずの結論として、BIはそれ単体では原理的に市場から貨幣で商品を購入する事への補助である限り、人々の必要事が商品化、貨幣化される事を妨げられず、資本蓄積を加速させ、ケア責任は分配されず女性に負わされ、資源と労働の収奪はBI未実装の周辺国に負わされると考える。収奪された土地とその産出の再分配として機能するには、そもそも収奪を正当化した、債務/債権の関係における、過剰な債権者優遇の制度変更が不可欠であり、債務の帳消し、ジュビリーが必須である。そうでなければ、収奪>再分配の構造は変わらない。

ここで帳消しされるべきは、債務者に課せられた金融的な責任と、女性に負わされたケアの責任である。ケア責任の分配は、ケアの公定価格の引き上げを通じて、ケアの担い手の男女格差が均される事で成し得るだろう。

Ⅰ.私的幼年期


幼い頃、絵本で見たイエスの切り絵に遠くまで続く道を感じつつ、、、ある所で道が断たれた。

罪を背負わせた、という所。子供心に立ち止まらせたある感覚。

「僕、なんかしたっけ?」

やがて、この社会では何をしてもしなくても、生きているだけで負わされるものがある事に気がつく。

税である。

Ⅱ.古代〜古典古代

この章は、マイケル・ハドソンの『… and forgive them their debts』(『、、、そして彼らの負債を許して下さい』未邦訳)を主に参考にしている。

1. ジュビリーの伝統


ギリシャの債務危機へのIMFの救済はギリシャ国民ではなく海外の金融機関や富裕層の為のものであり、その支払いは緊縮財政として国民に背負わされ、少なからなぬ命が奪われた。こうした事は世界中で今もなお行われている。これ程までに債務者に厳しく債権者を優遇する道徳観は絶対的で揺るぎないものなのだろうか。

マイケル・ハドソンの… and forgive them their debts(『、、、そして彼らの負債を許して下さい』未邦訳)によると、発掘される記録を遡れる限り、紀元前3000年の頃から王の交代、戦争期、神殿改築などの後に債務帳消しの勅令が定期的に出されている。こうした債務帳消しは市民の負債の帳消しであり事業者の債務は対象ではなかった。また、債権者に差し出された債務者の妻や娘、息子と、土地の返還が含まれており、市民は自給自足と生殖を立て直し得た。こうした措置は人や土地という実物リソースを国家の目的に用いる余地として確保する、現実的な方策であった。

個人の負債は浪費というより、王室や寺院による課税や地代、農営に関わる経費などであり、複利によって地域の有力者に資本が蓄積され、寡頭政治が定着する。寡頭制の下で人民に負債が課され、複利で支払不能となって奴隷となり、寡頭制支配は完成するかに見えるが、少数の有力者の私的な奴隷や兵士として人々が囲われる事で国家的な事業、国防の為の兵役やインフラ整備の人夫に徴用することが困難となって国内が自壊し、外部勢力に隙を突かれて攻め滅ぼされるか衰退した。

王によってなされる、非商業的な個人債務の帳消しや土地の再分配は、人的資源や土地という自然資源が少数の有力者に独占されて公的事業に割くリソースが枯渇するのを防ぐ機能があり、これを成せる国は国内の格差や貧困というアンバランスを回復できて経済が持続し得た。格差の拡大、不平等、債権者による寡頭制は社会を不安定化させる認識があり、社会と経済の安定に、王による債務免除の宣言などの関与は不可欠とされた。ロゼッタストーンは多国語で宣言された債務免除の記念碑であり、レビ記25章はハムラビ法典の男女同権的性質と負債の取り消し条項を反映した、古代から続く原状回復を権力の責務と定める一連の記録の一つであり、プラトンの国家でソクラテスが語ることでもある。

しかしこうした負債と複利に起因する金融寡頭制の独占、権力の増大を防ぐ債務帳消しの措置は、残念ながら有力な債権者達の反発を招き、そうした政策を取る王は徐々に暴君として描かれ暗殺の対象となった。その一つのクライマックス(または逆手に取った事件)がキリストになったイエスであろう。

2. イエスと借金


ルカによる福音書4章に描かれる、荒野から戻ったイエスの説教の場面で語られたのは、イザヤ書61章の内容の宣言であり、捕われ人の解放、主の恵みの年、すなわちレビ記に明記されたヨベルの年、ジュビリーイヤーの到来の宣言であった。このため既にその頃、債務者に債務免除の権利を放棄させる書類にサインをさせてジュビリーを形骸化させ、教会や債権者の利益を保護しようとしていたファリサイ派の不興を買ってローマに告げ口され、十字架への道が敷かれた。

主の祈りの「私たちに罪のある者を許しましたように、私たちの罪をもお許しください」における、罪を意味するアラム語の(חובא[khaba])は直訳すると負債であり「私たちに負債のある者を許しましたように、私たちの負債をもお許しください」などいくつかバリエーションがある。例えば長老教会訳によると以下のようになる。

天に在す我等の父よ

願くは御名の崇められんことを

御国の来らんことを

御意の、天の如く、地にも行はれんことを

我等の日用の糧を今日も與へ給へ

我等に負債ある者を我等の免したる如く、我等の負債をも免し給へ

我等を嘗試に遇はせず、悪より救ひ出し給へ

国と権と栄は窮り無く爾の有なればなり

アーメン

負債は罪と訳されることも多いが、他の部分との文脈をみると、国家の主権回復や国の理想、自主憲法の実現や食料自給の確立とも読める節が続くのだが、この文脈に個人の内面を問う罪の語は適切であろうか。ローマによる重税からの解放、つまり金融的経済的債務の意味こそ適切ではあるまいか。その後に続くのは警察権とも読め、最後の段は、ローマではなくユダヤの王による国権の復権と繁栄の祈願と読める。このような文脈でアダムの罪や個人的な罪を意味させるには違和感があり、特に性的な事柄を主に指し示す意味合いでこれを罪と定めて教会の管理する範疇とした事には、後述のように資本蓄積の口実と考える方が整合する。

イエスが明示的に自身に課した役割は人々の借金の帳消しではなかったか。道徳的な、神に対する罪の赦しではなく、金融的な債務の帳消しこそがジュビリーイヤーの到来というイエスに至る預言者達の預言の成就なら、十字架に架かる理由は何であろう。

3.憚る問い


このパートはあくまで私の空想の域を出ないが、いくつか断片的な要素と、そこからの推測を並べてみる。

イエスの誕生に際して外国の使節が訪れている。

ヘロデ王がイエスの王位継承権の正統性を恐れている。

カナの婚礼は王族や豪族が行うような豪華さである。

ピラトもユダヤの王と皮肉混じりであれ認めている。

つまり少なくともイエスは王族であり、その父も王族か王であっただろう。

この世の国ではないとイエスが言うのは現在の時間軸に存在する国ではなく、過去に存在し、可能性として今も存在したかも知れない国、つまり侵略されローマの属国となった国で、いずれは復活させたい国の意味ではないか。

カエサルのものはカエサルに、神のものは神の元にとは、外貨流入を嫌い、自国の通貨主権を取り戻す主張とも読める。

神殿前での怒りは、ユダヤの通貨とローマの通貨の交換レートに対するものも含まれていたのではないか。

人々を癒やして回ったイエスだが、病人だけでなく、罪人を救うために来たとも罪人の友とも言われる。

罪が負債のすり替えならば、罪人とは借金に苦しむ人と言う意味とも取れ、それを救って罪を背負うとは、負債を肩代わりする意味か。

イエスが王族であるならばローマに課せられた重税に苦しむユダヤの民の租税債務を肩代わりして、債務の名義を書き換えたとしてもローマの徴税人はその支払い能力を相当に高く見積もり、肩代わりする人数が相当数に上っても疑わないだろう。それが支払可能な額を超えていると判明するまでは。

イエス一行にはユダという会計係がいる。

債務者の名義変更手続きをユダが請け負っていたならば、公証人として署名もしていたかも知れず、イエスに次いで責任の重い立場かも知れない。最後の晩餐でユダはイエスからユダの役割の実行を促されている。

「裏切る」と訳されるパラディドーミは本来「引き渡す」という程度の意味であり、裏切り者としてのユダは本来は引き渡す係りのユダであろう。ユダが手引きをせずイエスがユダヤの民の負債を支払い可能な額を超えて肩代わりしている事が発覚するまで捕まらなかった場合、後に捕らえられても罪状は別のものになり、イエスが負った負債は名義が元の債務者に戻された可能性もありはすまいか。

イエスは大工とも言われ、おそらくはギリシャや中央アジア、エジプトやモロッコ辺りまで旅しており、極めて頑健な肉体であっただろう。

ピラトはイエスの処罰に消極的であり、失血死するほど鞭打ったとは考え難い。

十字架刑は凌遅刑の一種で絶命までに少なくとも半日、多くは数日かかるが、頑健であろうイエスが十字架に架けられていたのは3時間程である。

イエスの所属したと見られるエッセネ派は毒物と薬物の専門家であり、消毒や清潔の必要を認識しており、当時の最先端の医療集団と言える。

刑の場で苦いワインや酸っぱいワインなど、毒か薬物か何らかの混ぜ物がされた飲み物をイエスに飲ませる場面がある。

ローマ軍にもイエスの信奉者は存在し、それがロンギヌスかは不明だが槍がどれだけ刺さったのかは定かでない。

ここから導かれる可能性にはあえて具体的に言及しない。本論考はイエス・キリストの復活という教義の意味の再考を要するものではない。重要な推測は次の点である。

イエスについては妻と子の存在が隠されている節があり、当時から配偶者や相続人が居ない事にされていたならば、イエスが肩代わりした債務はイエスが十字架上で公式に亡くなったとされた事を以て(母親が相続放棄したならば)返済する者は居なくなり、事実上帳消しとなったであろう。

以上は聖書の福音書で語られる「罪」が「負債」である場合にそこから導かれる一つの推論である。

負債の帳消しを宣言するイエスは、他者に責を負わせて更に利息をつけて資本を蓄積した当時の寡占的権力構造にとっては排除すべき存在であろう。

推論から現実の記録に戻ると、イエスの頃には既に形骸化されつつあった債務帳消しの慣習はこれ以降本格的に形骸化していく。

Ⅲ.中世〜近代


この章と次の章は、シルヴィア・フェデリーチの『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』と、ナンシー・フレイザーの『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』を主に参考した。

1. 負債と罪のすり替え


上で見たように、債務帳消しは徐々に有名無実化し、庶民の債務は放置されて貴族や商業的債務の帳消しのみ行われるなど(現代日本の様に消費税は増税しつつ法人税は減税するかの様に)、債権者の権利が最優先されるようになる。現代のIMFのギリシャ国民と金融機関に対する態度に似ている。

パウロがイエスの磔刑を贖罪と結びつけて金融的債務免除の側面を排除し、アウグスティヌスが性交と原罪を結びつけて生殖の管理権限を権力に握らせて、人々に様々な債務を課してそれに反抗する人々への異端審問を行い、性的にも経済的にも自律しようとする女性への魔女裁判を正当化するレールが敷かれた。

彼らの負債を許したまえという、これ以上無いほど直接的に金融的な債務の帳消しを願う言葉は、彼らの罪を許したまえと置き換えられることで、人々は罪深い存在であることが所与となり、教会は罪を告白する場となり(罪には性的な事が含まれ、告解は教会の性規範の再確認の場として生殖のコントロールに寄与し、安定的な労働力の供給を実現して資本の蓄積に供される)人々は教会の教えに従うべき、免罪されるべき存在として免罪符を買わねばならない金融負債を新たに負わされるに至った。

こうした体制の中では高利貸しも認められていくことになるが、ユダヤ人が迫害されたのは中でも特に高利だからではなく、むしろより低金利で融資して他と競合するからであった。

2. 囲い込みと切り下げ


債務免除の伝統を廃して債務奴隷制を推し進め、戦争で得た土地を戦費の代わりに債権者への支払いに用い、奴隷が逃亡し不安定化し崩壊したローマへの反省として、封建領主は奴隷に土地使用の権利と家族を持つ権利を与え、農奴として囲い込んだ。農奴農民、男女の格差はあれど周辺地は共有地として活用され始める。農地や共有地での自給自足の為の労働には男女区別なく参加して、分業はあれど女性は共有地を用いて自立して生きており、家事が無賃労働として貶められた後々と比較すればまだ対等であった。その後、繰り返される農奴と領主の権利をめぐる闘争の中で様々な税が領主や教会から課せられてゆく。やがて賦役労働が貨幣の納付で代替されるようになり、不作の場合に納税を借金で行わざるを得ず、負債に金利がかけられ返済不可能となる耕作人は土地や妻を取られる一方、資本の蓄積も一段と進む。こうした収奪に対する農奴や都市商人職人らによる抗議活動は歴史的に何度も債務免除を公布させたが(そうした君主は時に暴君呼ばわりをされる。神殿前で暴れるイエスは債権者にとっては暴君かも知れない)、徐々に資本家や教会など債権者に有利なように、宗教裁判、異端審問や魔女裁判を通じて変えられてゆく。

都市の商人と周辺の農民の連帯は貴族らに重税(それは結婚を難しくし、人口を減らした)や格差の解消を求めて強力に抗議活動を行ったが、警戒した統治機構による骨抜き策として強姦が放置されて非犯罪化され、売春が公営化され、被害にあう女性や税と金利で貧困に追い込まれた女性をスケープゴートにして、性の享受はある意味で平等になった(女性の身体が労働者の共有地として与えられる)。こうして権力の統治技法としての男女の分断と資本の搾取による貧困によって、娼婦の選択肢しか残されなかった女性は次に教会によって罪人に貶められる。こうした女性の立場を切り下げる最大の仕掛けとして魔女狩りがある。

土地から追い出された男性は都市の賃金労働者になり、女性もしばらくは男性よりは低賃金ながら職を得るも、競合を恐れた男性の意向を受けたギルドにより労働からも追い出される。

土地という再生産装置を失った男性には子宮が土地の代わりにあてがわれ、女性は家に囲い込まれて男性労働者を無料でメンテナンスする家事(含む家内制手工業)と、出産育児を行う生命再生産装置として、資本主義が収奪する共有地として機能させられる。女性は土地と仕事を囲い込みで奪われた後、自身が囲い込まれる事で身体の自治すら奪われた。

3.魔女の誕生


魔女裁判とは、資本が安く酷使する男性労働者の心身のメンテナンスとしてのケアを女性に無料で行わせつつ労働者の企業や統治者への不満を逸らす為の娯楽としての性サービスの提供者として、また次の労働者を産み育てる装置として女性を家庭内に押し込める必要があったため、それまで女性が保有していた様々な知恵、薬草の見分け方、食べ合わせなどの食育、マッサージ、公衆衛生、安全な避妊や堕胎の技術など、生と性に関する医療的医術的知識や、共有地での狩猟採取や家畜の飼育や使役の技法など生活技術自体を魔術として禁じることであらゆる生活手段を奪い、更に共有地を囲い込んで村での自給自足を不可能化して都市に追いやって男性より安価に働かせ、やむを得ず行う売春や堕胎すら犯罪化する事で貨幣経済からも自給自足からも自己決定からも締め出し、企業内で賃金労働する男性労働者の家の中に依存的に居ざるを得ない状況を作り出し、家と資本の財産として共有地化される事で自身の心身の自由を失う従属する存在に過ぎない女性であるのだと、自由を求めて抵抗する女性達に対して社会的に再教育するシステムのクライマックスであった。今度の磔では灰になるまで降ろされなかった。

こうした資本の本源的蓄積のための収奪は女性こそが最も割りを食うため、最後まで抵抗せざるを得なかった女性への抑圧の口実に魔女裁判が行われ、魔女狩りの恐怖によって資本に従属させる調教が市井の全ての女性に浸透するのだが、その口実が貴族階級の女性にも降りかかる様になると、数十万の殺害と拷問(これもまた人体に関する知識の蓄積に利用された)が国を挙げて推進された事がまるで無かったかの様にたちどころに魔女は迷信であると片づけられ、消費される趣味として扱われさえした。迫害による止むを得ぬ避難状態がもはや迫害するまでもなく女性の当たり前の生き方として定着し、現代まで続く「ケア責任」という債務がごく自然のこととして女性に負わされる至る。

債務を帳消しせず、複利を認め、格差と差別を拡大する事で資本は加速的に蓄積されるが、国内に無限に土地や奴隷がいる訳ではない。資本主義社会は利潤の拡大再生産という自己目的のために周辺国や他人種への攻撃と収奪を繰り広げ、今や全地球を覆った。

Ⅳ.現代〜


この章は、筆者の活動や関わりを参考とした。

1. ホームヘルパー国賠訴訟


2019年よりホームヘルパー国賠訴訟が行われている。地裁では、被告の国は原告ヘルパーの訴えを原告女性三人の愚痴や不平不満であると表現し、地裁はそれを認めて訴えを退けた。

控訴後の高裁は現在(2023年8月時点)まで3回の審理を重ねている。国家に抗する3人のケアする女性は、生存の為の抵抗を犯罪と定義した魔女裁判が、今日再び世界中で再発している事例の、日本における隠しきれない当事者と言えまいか。ケア労働者はその多くが女性であり、尚且つ低賃金かつ不安定な待遇であり、ケアの負担はケアの供給者である女性に負わされている。国家の制度設計によって介護報酬という公定価格は低く抑えられ、出来高制でありながら利用時間は細切れにされているため、移動や待機時間が増えながらも未払いの状態があるが、これは雇用する企業の経営の問題とは言えない。現行制度下では低賃金であることで低年金となり、それゆえケア労働者は自身や家族がケア、公的介護保険制度を必要とした時に現行制度で支払わねばならない自己負担額を支払う経済的余裕が少なく制度を利用し難い。供給者負担を強いる制度によって搾取されつつ制度から排除されている。一方、自己負担という公的介護の利用者負担の仕組みが、経済的負担の可能な富裕層が商品としてのケアである自費サービスの購入と公的介護を組み合わせることでヘルパーを独占する事を可能としている。

歴史的に女性に過剰に課せられたケア責任という負債からのジュビリー無くば、BIは単に必要を商品化してその生産の責任をこれまで以上に女性や途上国に負わせるだけで、重荷から解放する力にはならないだろう。一律に配られるBIにケア責任を分配する機能は無い。ときおり街中ですれ違う腰を折って歩く老婆は何を背に負わされてきたのだろう。資本主義という十字架を背負っているのではなかろうか。BI、JGP、Jubileeはエグゾダス後の幕屋たり得るだろうか。共有地が奪われて労働のみが残される状況が現代であるが、BIが共有地足り得るかはケアが収奪される領域ではなく、ケア責任が公正に分配され、先ずはケアが共有地として機能するか否かに掛かるだろう。ケアの収奪とケア責任の女性への集中こそ問題であるが、自己と他者への配慮、ケアそれ自体は資本主義以前から、おそらく人類の曙から連綿と続いてあり(先史時代の遺骨には遺伝的に障害を抱えた成人の遺骨がある。万人の万人に対する闘争だけが自然状態ではなく、万人の万人に対するケアという自然状態が存在した可能性がある。債権者の保護より債務者を保護するジュビリーのように、オルタナティブを諦める事はない)、今は枯渇しつつあるが今後再び回復するならば、世界はまだ希望が持てる場所になるだろう。

BIが商品化を前提とした資本主義的な生産・生活様式の食い逃げ(とは言え逃げたい自身を喰い尽くすのだから逃げようもないのだが)と化すか、あるいは相互にケアする関係性の中での奢り合いと成るかは、BIを発想する前提となる価値観をもたらした根源をあたらねばならないだろう。

現代は国家の債務を利付の債券として発行して販売したのちに返済しなければならないという、ある種の強迫観念が支配している(インフレ恐怖症も債務/債権の関係の強制力が薄れる事への抵抗かも知れない)。言うまでもなくこれは金融機関に兆円単位のBIを配る事である。国民への緊縮と富裕層へのBIが両立している世界である。実のところ現行制度内でも債務はほぼ無効化できる。金利はゼロに誘導できるし日銀保有満期債は利の抜けた現金として国債整理基金特別会計に納付され、債務帳消しどころか財源化している。特会はそれを市中に借換債として売り出し、日銀は市中銀行に売り戻し約定付き買いオペ(売現先)を行い、準備預金を供給する(それゆえ市中は特会から借換債を買い続けられる)。こうして政府の債務は中央銀行を経る事で無効化されている。そもそも端的に中央銀行と財務省の当座借越で済む話である。国家/市場を債務者/債権者の関係に置く必然は全く無く、政府/中銀で政府支出は常に実行可能である。したがって現代の政府は民間の債務を単に帳消しではなく弁済する事も可能である(過剰な資本蓄積を防ぐ観点からは帳消しの方が分があるが)。例えば韓国は今世紀に入ってからも徳政令(個人の債務免除)を出しておりBIの実験も盛んで、その経済は日本を抜かんとしている。学生に奨学金という負債を負わせる一方で兆円単位の利払いを国債の転売で予算の中抜きとして許している現状は明らかにバランスを欠いている。秤の均衡をお金の収支ではなく生命再生産の収支に取り替えなければならない。

2. インボイスの二重の収奪


当報告は一人のケア労働者の立場から通勤や活動の合間に書きとめたメモをまとめたもので、査読された論文ではなく一会員の報告に過ぎない。ちょうどインボイス制度の実施が近づく中で、今年の初め頃より私が共同管理者を務めるMMTを知ってほしい会が、STOP!インボイスに協力して全国の自治体へのお手紙大作戦に参加し、私も近隣自治体議員や議会への請願や街頭デモに奔走する最中の報告である。そうした慌ただしさの中でまとめた文章であり、読み難くなっているとしたらお詫び申し上げたい。

STOP!インボイスの活動に関わる中で感じたことは、これもまた現代の囲い込みの一つと言うことである。そもそもフリーランスは不利な立場に置かれており、取引先企業のお気持ちに翻弄されやすい不安定な立場であり、その構造自体が資本に都合よく搾取されやすい仕組みと言える。その上で、赤字でも払わねばならない税をフリーランスという現代の自給自足生活者とも言える働き方に課し、廃業の困難に直面させつつ世間的にはメディアなどから預かり税(ではないのだが)を着服する犯罪的存在と示唆するかのような偏向した報道をされ、数十万の署名は不届き者の我儘と冷笑される世論が形成され、公平な課税で淘汰されるのは当然かの如き論調がSNSを飛び回り、フリーランスでなく企業に雇用されれば済む話と片付けられている。消費税の転嫁の押し付け合いは男女の分断のようであり、課税と不作による負債が複利で支払不能となる中で土地や共有地を囲い込まれ、生活手段を奪われ、企業や家の中での低賃金労働者として資本に収奪搾取される過程を再現しているかのようである。蛇は今、自身をどこまで呑み込んでいるのだろうか。自滅へ向かう複利的加速を、ひとまず帳消しにする事が急務だろう。

3.BI、Jubilee、ケア責任の分配


BIのメリットは様々あるが、既存制度の精度を上げれば代替できる事もある。安心の為のお金としてのBIは、申請即時支給で事後審査の様な使いやすい生活保護や、所得に関係ない一律の年金などの仕組みでもかなり代替できるだろう。出生時に口座を与えて現金引き出し枠を設定し、それが一定額を割り込んだり子供のうちに引き出されたり、同じ日に少額づつ何度も引き出されるなど不自然なパターンを感知すると行政の支援窓口を通知するなどしてアウトリーチの優先対象とする仕組みなども安心の為の仕組みとして考えられる。

使いたいお金としてのBIは労働(生産)と分離された所得が増える事で、それは生産以上の消費に結びつきかねないが、我々はどこから消費するのだろう。消費が欲望に関する分野で過剰になり、その分野のみでインフレして欲望が叶え難くなるだけならそれほど困りはすまい。欲望に応じるために人々が結局はこき使われるならBIでも労働負荷は減らない。様々な技術革新はこれまでもあったが必ずしも労働時間を減らしてはいない。化石燃料から原子力の時代になり、算盤からパソコンの時代になり半世紀以上経つが、未だに我々は人手不足と言っている。ブルシットジョブからエッセンシャルなニーズに対応するエッセンシャルワークへの労働移動がなされない限りBIで生活が豊かになるかは疑問符が付く。

各家庭の水汲みの時間を無くしたのは水道という「必要」を満たす為の技術であり、多くの家電も生活を成り立たせる必要事を省力化させた。冷やす事も炊く事も、基本的な機能は半世紀以上前と変わらず、利益を度外視すれば数十年耐用できるよう作る事は可能である。水道など生活インフラのメンテナンスの限界費用(貨幣のみならず人手などふくめたリソース)は逓減する。我々は今よりもっと水を消費したいとは思わないように、必要には中毒性が無い。一方家電の高機能化やデザインを追求する「欲望」による買い替えは都度の生産にかかるコストを含めると高性能化による省力と時短は全体としては時間や労力を短縮させるとは限らないし、家に居ながらレストランのランチを食べるという「欲望」を満たす宅配マッチング技術などは客の短縮された時間を他者が肩代わりするだけである。承認や顕示など快楽や欲望には中毒性があり際限がない。BIによって欲望に応じる為の生産に人々や資源が独占され(市場原理ではそうなるだろう)、必要に応じる生産(家事育児介護などのケアや、破壊されていない自然環境から得られる快適さ)に必要な時間が不足する場合、BIは国内的に持続不可能となろう。

欲望か必要か、何れかを輸入する場合、他国を搾取収奪することになりかねない。新しいが割安なスマホは途上国の資源を収奪し、その国の労働者を酷使し、環境を破壊したまま放置してきた。外国人ヘルパーやメイドによるケアの輸入は移民ヘルパーの親を母国で寝たきりにさせる事と引き換えになるだろう。彼らの口座の残高は増えても、ケアを国内で購入するには足りないだろう。

資本主義社会は例えば国内的には女性のケアや低学歴者や移民の労働力を搾取し、グローバルには途上国の労働力や資源を搾取収奪して成り立ってきた。搾取されているはずの企業内労働者の生命再生産が現に成されているのは家庭内でケアが無償で、すなわち企業に収奪される形で提供されているからである。有償の場合、そもそも搾取されているので労働者に支払い余地はなくてケアを購入出来ないが、ケアを自家生産するには可処分時間が足りず生命は再生産が追い付かずやがて倒れる。企業が支払う場合は資本の蓄積が不可能となる。本源的な資本の蓄積の一つの源泉は女性によるケアであるとはこうした事である。そのケアが家庭内では無償で、市場と準市場では低価格である為、ケア労働者≒女性は低所得で低年金であり構造的に貧困に陥り、自らがケアを受けたくとも現下の介護保険制度では自己負担が払えずケアを受けられない可能性が高い。BIで自己負担を払わせる方式は自費サービスでのヘルパー利用ができる程度の高所得な利用者を優先しないと経営が維持できない準市場、というよりはほとんど市場化した介護事業の構造上ヘルパーが富裕層に独占されるため、やはり相対的に低所得だと使えない制度設計であろう。

こうした構造の細かな部分も含めて配慮され修正されない限り、資本主義社会である先進国で始まるBIは国内や途上国の労働力や環境、文化資源を引き続き搾取収奪し続ける事に加担せざるを得ないが、そのBIは資本主義がその存立する土台を喰い潰して自滅する時か、それより先に終わる。資本主義の弊害を少なくとも相殺するBIでなければBIは持続不可能となる。

持続可能なBIとする為にBIができる事として、まずは途上国から始めるという開始の順番への配慮があろう。IMFの構造調整などの現代的囲い込みによる貧困が現代のアフリカに文字通りの魔女狩りを再発生させており、当事国の通貨主権に配慮した供給能力の増強と自国消費のサポートは急務である。その際、先進国がこれまで途上国を収奪する事で蓄積した資本を例えば技術や設備などを供給する形で還流する必要がある。企業の私有財産としての技術もある程度までは公共化して配らねばならないだろう。BI以外でできる事として様々な環境への規制や投資などと並行し、ケア領域に関してはケア労働の価値付けをし直し、枯渇するケア労働力を立て直し、ケア責任の分配をやり直す必要がある。ケアニューディールで述べた事と重なるがこれは公定価格を高く設定し直す事でも可能である。ケアへの参加の男女比についてはケア労働の賃金の引き上げによって縮めることが出来るだろう。

BIを実行する資本主義社会の政府と国民は、以上見てきたように資本主義は資本主義が依存している領域(ケア、自然環境、歴史文化。特にケア無くして自立出来ない赤子は死すよりなく、自然環境無くしては親もろとも生存する場が無い)なくして持続し得ないが、依存する領域の再生産の速度よりも早くその領域を消費して消耗させる傾向があることを認識しなければならない。ケアという日々眼前で繰り広げられていながらしかも現代の資本主義の本源的蓄積の巨大な財源と化している領域に関する詳細な分析を欠いたままでは、国家権力と商品化を前提としたBIという全体的な政策を進める事は目隠しをしたまま加速するバスに乗るようなことになるだろう。資本主義社会を継続させる気であるならば、資本主義が依存する領域を消費する以上のスピードで再生産させる事を、すなわち利潤の拡大再生産以上に生命・社会を再生産する事を資本主義社会の内に組み込まなければならない。公的権力が行う様々な価値付けや管理通貨制度を含めた法による支配はこれを補助し誘導する事ができる。

政府が税という債務を個人に負わせて支払わせ、可処分所得を減らす事で失業を作り出し(MMT的にはより直接的に、通貨とは税額控除として設計されたと考えるため定義的に課税が失業を作り出す。100円の課税に10円を納付すると10円分の税額が控除され、100円納付すれば100円控除される。この観点から見れば課税する事で税額控除=通貨を得ることを不可避とするが、如何なる企業も政府が設定した税を免除する権限は無く、その権限は政府にしか無い。つまり課税は返礼品でも感謝でもなく税額控除=通貨を得られる仕事を求める求職者=失業者を原理的に発生させる)、その穴埋めを民間の債務(民間企業の銀行借入や個人のローン)で行わせ、その債務にプラスの金利を設定する事を認め、時には(インフレという債務の減価償却を行わせないために)更に失業を作り出しつつ金利を引き上げ、とどめには債務の償還を人権よりも上位に置くが如くに絶対化する法制度で債権者を優遇する事で、例えば他国の港や山を収奪させ、あるいは個人の可処分時間を根こそぎ低賃金労働に駆り立てて自然の再生産と生命の再生産を不可能たらしめ、資本主義であれなんであれ如何なる社会も世界も持続不可能にさせつつある。税率のみならず金利すら政府の差配できる領域にある事はMMT現代貨幣理論からも明らかにされており(あるいは日本の非伝統的手法による実験からも傍証されていように)こうした制度を駆使する公権力を生命再生産を優先する社会のために用いることで、上記の誘導を逆方向に転換する事も可能であろう。エッセンシャルワーク×MMT=ケアニューディールの意味でもある。

政府が企業に対して環境費用を含めた税を課し、ゼロ金利を維持して景気変動を抑制し、個人や家計の可処分所得の最低限は厳に保障し、公的な雇用で失業を挽回させ、個人の支払い能力を超える債務を免除する事で人権を無視した過酷な労働や搾取を回避させる(他国間では例えばドル化を進めて外貨債務を負う国に債権国が租借地を求めたり、内政に関与して多国籍企業が入り込み、債務国の資源を囲い込んで環境を破壊しつつ原状回復費用を出さないなどの収奪に至る過程の最初の段階で債務を免除する)など、やれる事は少なくなく、またケアに関しても公定価格の引き上げや自己負担、保険料(これもまた、一つの債務である。保険料未納を理由として要介護者が差し押さえられる意味はあるだろうか。既に低所得という供給者負担を負うヘルパーにさらに介護費用を背負わせる構造でもある)の引き下げなど様々に手がある。

中でも債務免除jubilee(個人においては税や社会保険料や公的サービスを受ける際の自己負担の減免。課税で発生する失業で労働者が安価に誘導されたり失業に伴う借金と複利で支払不能に陥り犯罪的境遇で搾取される事を、税を含めた負債の減免で防ぐ。国家においては外貨建て債務の免除、あるいは債務国に対する債権国の立場を笠に着た内政干渉や民営化と市場開放という名で行われる債務国の資源収奪で過剰に果たされる債務取り立ての禁止など。外貨建て債務に依存する体質に堕とされた途上国はウォール街へのお小遣いのための利上げによる外貨建て債務の膨張と為替安と輸入価格の上昇、そして割安で輸出される資源という形で日々先進国の資本蓄積の贄として収奪されている)は、資本主義経済の中での商品の購入、消費可能性にかなりの程度依存するが故に途上国への収奪にも加担しかねないBIとは異なり、資本主義が収奪を開始する取っ掛かりを取り除く事になるため、資本主義の自滅速度(したがってBIの持続不可能性)を大幅にキャンセルするだろう。

現代はあらゆる事柄が絡み合って連動する全体的危機状況にある。ケアニューディールの冒頭で述べたことを改めて述べるなら、利潤の再生産より生命の再生産が優先される社会のために財政をフル活用すべき時である。しかし生命の再生産それ自体は誰が担ってきたのだろう?

―魔女たちを見よ!!

参考文献


シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』以文社

ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ちくま書房

Michael Hudson『… and forgive them their debts』ISLET-Verlag Dresden

ホームヘルパー国家賠償訴訟のサイト

https://helper-saiban.net/

STOP!インボイスのサイト

https://stopinvoice.org/



















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