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いま日本人が知っておくべき「儒教」のハナシ②

前回の続きです。

いま日本人が知っておくべき「儒教」のハナシとして、前回は

・次の社会のOSに必要なのは「儒教」である。
・「儒教」=「論語」はウソである。
・「儒教」の本義は「孔子の教え」であり、それは「儒家思想」である。

といったことを書きました。

この記事(シリーズ)の主張は『大転換期を迎えた世界がこれから向かうであろう、次の社会に必要なOSは「儒教」だと思う』ということなんですが、ここで言う「儒教」とはすなわち「儒家思想」のことです。

※だったら何で意図に反する「儒教」という表現をタイトルに使ってるのよ、と突っ込まれそうなので弁明しておきますと、やはり「儒家思想」という言葉は一般的には馴染みが薄く「仏教」「道教」「儒教」のように他の宗教と同じカテゴリとして並記される表現の方が分かりやすいかな~と思ったからです。でもよく考えたら「儒教」自体も言うほど市民権があるわけじゃないので、今思うとどっちでもよかったかも。そのうち変えるかも。

正確に言うと「儒家思想」を説いている書物は別に「論語」だけじゃないし、「儒家思想」を説いた人も別に孔子だけじゃないんですが、ここで言いたいことは、今を生きる我々が、これから次の社会を育てていく上で大いに参考にすべき考え方は「儒家思想」の方にあって、「儒教」の方ではないですよ!ってことです。

あ、誤解のないよう申し上げておきますが、別に「儒教を参考にしてはいけない」ということではありません💦ただ、そちらの「儒教」を見て「なるほど、これが儒教か」と捉えてしまうことで、本当に価値がある(と私は思っている)「儒家思想」の考え方を見過ごしてしまうのは勿体ないということです。

じゃあ「儒教」と「儒家思想」っていったい何が違うのよ?というのが今回の主旨です。

ちなみに今回の記事は以下の本を参考にしております。

儒教と儒家思想

先に「儒教」と「儒家思想」両者の線引きだけしておきます。
私はこうだと思っています👇。

「儒教」=「朱子学」&「礼教」
「儒家思想」=「朱子学以前の儒教」

つまり「朱子学」が境目です。「朱子学」が登場した以降の「儒教」と、それ以前の「儒教」で線引きしています。ただし、これはあくまで私個人の線引きです。(例えば参考書籍に挙げた本では、石平さんは異なる線引きをしています)

朱子学とはなにか

朱子学」が登場したのは中国の宋(南宋)の時代です。日本でいうと鎌倉時代の頃ですね。

朱子学」の歴史とか教義内容まで書こうとすると話が逸れてしまうので、ここでは概要をかいつまんで説明します。

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朱熹 (1130 - 1200)

朱子学は、南宋の時代に朱熹(シュキ)👆という人が、これまでの儒教を再構成・リニューアルして生まれた儒教の新しい学問体系です。ポイントはあくまで「学問」というところで、「朱子学」自体は「教え」ではありません。朱熹さんは学者であって宗教家じゃないですし。なので「朱子教」じゃなく「朱子学」といいます。アカデミックな「学び」の対象として、これまで儒教が説いてきた世界観に、朱熹さんオリジナルの要素と解釈をふんだんに盛り込み、理論的に説明できるよう作り上げたものです。

具体的には、儒教の世界で登場する「」とか「」とか「」といった諸概念を区別し、言葉を厳密に定義し、互いがどういう関係にあるか、その背後にどんなロジックがあるのか、矛盾や論理破綻がないように緻密に積み上げたもの、それが「朱子学」です。

いったいなぜ朱熹さんはそんなことをしたのか?

一言で言うと、競合である仏教道教(老荘思想)にシェアをすっかり奪われていたからです。孔子が生きた春秋戦国時代と異なり、宋の時代ともなれば中国の国内は安定していました。儒教が説く「現世における処世術」なんかよりも、輪廻転生による死後の世界をカバーし、宇宙や大自然との一体感を説く「仏教」や「老荘思想」の深遠な哲学の方が人気が出るのは当たり前といえば当たり前かもしれません。

そもそも儒教は漢の時代に「国教」に指定されて以来、ずっと権力の庇護を受けてきたので、それに胡坐をかいて理論の発展や教義のアップデートを怠ってきました。そのツケが仏教や老荘にシェアを奪われるという形で顕在化し「ヤバイよヤバイよ」と焦った儒学者たちが、仏教や老荘に負けないような、形而上学的な面もカバーした深遠な哲学を打ち出してリリースしたのが「朱子学」です。正確には朱熹さんだけでなく色んな儒学者が取り組んできたのですが、その集大成を担ったのが朱熹さんという感じです。

リニューアルされた「儒教」ということで「朱子学」のことを「新儒教」と呼んだりもします。

礼教とはなにか

で、問題は「礼教」です。

朱子学が「学問」であるのに対して、こちらは「教え」です。人々から「信仰」を集めるためのものです。

民衆の信仰を仏教や老荘から取り戻し、「朱子学(新儒教)」のシェアを広げるために朱子学者たちは何をしたのか。

本来であれば、精緻に組み上げた深遠な哲学や理論体系をしっかりと民衆に伝えて理解してもらって

「やっぱ儒教スゲェわ!!仏教・老荘よりこっちの方がよかったわ!」

という感じで信仰を取り戻したかったはずです。

でも、どう考えてもそれは無理でした。

なぜか?

朱子学の世界観が、理論的に高尚すぎて(意識高すぎて)、そのままストレートに伝えても理解してもらえないからです。

そもそも、中国は古来より民の知識格差が以下のように二極化していました。

・知識エリート層 (士大夫)
・百姓

世襲制だったので、士大夫の家柄はずっと士大夫だし、百姓の家柄はずっと百姓です。それが何世代もの間続いて固定化されていたわけです。

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士大夫の絵👆 (なんか偉そう😏)

そうなると、抽象論が多く形而上学的な言葉がわんさか出て来る「朱子学」の世界観を、知識強者の士大夫はともかく、日々の生活に追われている百姓が理解できるはずもありません。

その点、老荘思想はそもそも土着の信仰が起源にあり百姓にもすんなり受け入れられましたし、仏教も士大夫には「」、百姓には「念仏」と教義を使い分けることで、二極化した民衆の両方にうまく対応していました。

ちなみに、仏教が採用した

士大夫:「仏教の深遠な哲学へようこそ!」
 百姓:「とりま念仏を唱えとけばOKやで」

という「対象の知識レベルに応じた教義の伝え方」は日本における仏教普及でも受け継がれてます。日本では「士大夫=武士」ですね。抽象論に耐えられる知識エリートの武士には「禅仏教(禅宗)」が好まれ、具象論に生きる農民には「念仏仏教(浄土宗・日蓮宗)」が好まれたわけです。

話を戻して、朱子学はどうしたのか。

仏教と同様に、対象の知識レベルに応じて教義を使い分けたのです。

こんな感じで👇

士大夫:「朱子学の深遠な哲学へようこそ!」
 百姓:「とりま礼儀だけ守っておけばOKやで」

礼儀だけ守っておけばOK」という考え方から出たのが「礼教」です。

要するに
とにかく礼儀を厳密に確実に守っておけば、アナタも朱子学が説く深遠な世界観に通ずることができるよ」と謳って信者を増やしたわけですね。

これだけ聞くとなんか怪しい宗教みたいですね。

この水さえ飲んでおけばオールOK!」みたいな。(そんな宗教あるのか知りませんが)

でも実際のところ、礼教にはそういう危うい側面がなくはないです。

だって礼教が打ち出した根本教義がコレ👇ですもの。

「存天理、滅人欲」 (人欲を去りて、天理を存す)

人間として未熟な部分の発露である【欲】を完全に捨て去ることで、はじめて宇宙の哲理を体現できる」みたいなことを言ってるわけです。

つまりは『欲、ダメ!絶対!!』ってことです。

いわば完全な禁欲原理主義ですね。
(ストイックに禁欲を求めるところは上座部仏教に似てるかもしれません)

この禁欲原理主義が、宋→元→明→清と王朝が変わるにつれどんどん過激になり、いつしか「礼さえ守っていれば、私たちは救われる」という歪んだ信仰になりました。その最たるものが「節婦」や「烈婦」という因習です。

※石平さん著書から「節婦」や「烈婦」に関する記述を引用したAmazonレビューがまとまってて分かりやすいので引用

石平氏は北京大学生だった時、「節婦」と「烈婦」の存在を友人から聞かされて激しい衝撃を受ける。礼教(南宋時代以来の新儒教)が支配する明朝や清朝の時代、女性が結婚して夫に先立たれた場合、再婚が許されなかった。跡継ぎの息子がいる場合、嫁ぎ先の家に残って子供を育て上げなければならない。それが「節婦」である。跡継ぎがいない場合、未亡人は殉死を強要される。それが「烈婦」である。そんな残酷なことが、明清時代の500年以上に渡って中国全国のあちこちで起きていたと思うと、憤慨を覚えざるを得なかった。そして「礼教殺人」と言う言葉が戦慄するほどのリアリティーを持つようになったという。

男尊女卑もここまで来るとえげつないですね😨。「節婦」や「烈婦」になった人は「礼儀に生きた人」として国家から表彰されていたそうです。こんな因習が近代まで続いていたという事実も驚きですが、こんな歪んだ形で「礼儀を守ること」に固執して何の意味があるのか。手段が目的化してるあたりが「イデオロギー」って感じです。

また人間が愉快で健全な人生を送る上で「」は必要不可欠な要素です。孔子も論語の中で「欲」を否定していません。「欲」に呑まれて暴走することを戒めているだけです。

こうして中国では「朱子学」が成立して以来、儒教といえば「朱子学/礼教」がデフォルトであり、孔子は「シンボル」として祀り上げられてはいますが、その中身は「朱子学/礼教」です。(それすらも文化大革命によりほとんどなくなりましたが)

従って、現在の中国(おそらく韓国にも)に残る儒教の痕跡は「朱子学/礼教」にルーツがあり、それを見て「これが儒教というものか」と早合点するのは、ちょっと勿体ないと思うのです。

そして、日本には中国や韓国にはもう残っていない、オリジナルの儒教が残っています。しかも、アカデミックな世界や一部の知識人だけでなく、私たち庶民の隅々にまで。

まとめ

ということで、今回は

じゃない方の儒教」として「朱子学」と「礼教」を説明しました。

色々言っておいてアレですが、もちろん「朱子学」にも良いところはたくさんあります。

例えば、儒教の経典とされている「四書五経」を整備したのは「朱子学」の成立過程です。(それまでは「五経」しかなかった)。個人的には、よくぞここで「大学」を四書に独立させてくれた!というものです。また、孟子の思想を儒教の教義体系の中で整理したのも朱熹さん達の成果です。これによって「やっぱ孟子ってスゴかったわ」と再評価されたのであり、これがなければ後に吉田松陰が「孟子」を愛読して講義することもなかったかもしれないので、これも功績だと思います。

あと「科挙」というオープン試験制度は「朱子学」が体系的な学問として整備されたからこそ実現したものであり、能力さえあれば百姓でも士大夫に成り上がれるようになったという点において、格差を減らし社会の公正化を一歩進めることに貢献したとも言えます。

でも、やはり「朱子学」と「礼教」は、残念ながら次の社会のOSとしては相応しくないと思います。だってそんなガッチガチに武装された窮屈な理論と禁欲原理主義の教えが「持続可能な社会」に繋がるとは思えないですもん。やっぱ理論には余地(余白)が欲しいし、人間らしく生きるために【欲】は肯定されてほしい。

そこまで言うなら「朱子学」以前の儒教(儒家思想)ってどんなヤツなの?
そもそも、なんで「朱子学」の前後で線引きするの?
なぜ日本には「儒家思想」が残っているの?それは今どうなっているの?

といったあたりを次回以降で書いていければ😄

つづく。

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