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禅問答に見るポジショニングの本質

私が半年前から通っている近所の禅寺では、最後に住職から10分程の講話の時間があります。先日参加した際、その講話で有名な禅問答の1つを解説頂いたのですが、それを聞いて「スティーブ・ジョブズが禅から取り入れた思想って具体的にこういうトコなのね」と、繋がったところがあったので紹介します。

そもそも『禅問答』ってなに?

そもそも『禅問答』って何?という方もいるかもしれないので簡単に説明しますと、禅問答を一言で言うなら「禅における師匠と弟子の会話のやり取り」です。禅も仏教なので、最終目標は「悟りを得ること」です。(アプローチが他の宗派と違うだけ)。悟りを得るため、弟子は師匠の元で禅修行に入るわけですが、修行の一環として「師匠との対話」があります。
禅には基本思想として「言語・論理で表現できる範囲の内に真理はない」という考え方があり、私たちが思い浮かべるような先生と生徒による授業のような形式にはなりません。師匠から弟子へ口頭で教えを伝えるのですが、表現が非常に直接的・最小限のため、しばしば非言語的・非論理的(だと私たちには思える)なものが多くなります。禅問答のやり取りをハタから見ると論理的矛盾や不条理が多く含まれるため、転じて現代では「禅問答=意味不明な、噛み合ってない言葉のやり取り」という意味で使われるようにもなっています。

禅問答のうち、過去の偉大な禅僧による弟子と師匠の対話をまとめた、いわば「禅問答の問題集」を公案集と呼ぶのですが、現代においても禅修行者はこの公案を使って師匠と禅問答をされているそうです。
今回、私が住職から解説いただいた禅問答は、無門関という中国の宋時代に編集された有名な公案集に書かれた問答の1つです。

公案 「国師三喚」

この公案には、の時代の師匠と弟子の、こんな問答が書いてあります。

師匠が、「おい」と弟子を呼びました。
弟子は、「はい、なんでございましょう」と返事をします。
師匠はまた、「おい」と弟子を呼びました。
弟子は改めて、「はい、なんでございましょう」と返事をしました。
師匠はさらにもう一度、「おい」と弟子を呼んでみました。
弟子はやはり、「はい、なんでございましょう」と返事をしました。
すると師匠は「…なんだ、今までお前さんが悟りを得られないのは私のせいだとばかり思っていたのだが、なんのことはない。お前さんの方が、もとから私の期待に応えるつもりがなかっただけか」と言われました。

いやいやいや「おい」だけでそこまでわかるわけねーだろ、エスパーじゃないんだから!ちゃんと説明しろよ!

というツッコミを覚えた方は(現代人として)正常です。実際、現代のビジネスシーンで「師匠」を「上司」、「弟子」を「部下」に置き換えて上の問答をやろうものなら、即モラハラ認定されますよね笑

ここで重要なのは、コンテクストと関係性です。

ここはどこ?あなたは誰?

まず、師匠からの「おい」という呼びかけですが、実際に「おい」というフレーズを使っていたかどうかは重要ではありません。もしかしたら「おう」かもしれませんし「おーい」かもしれません。重要なのは、その呼びかけが出されたコンテクストです。それを踏まえた上で、その呼びかけが自分に投げられた意味を自分自身がどう見出すのか?ということです。

実際に原文に書かれているわけではありませんが、例えば、弟子が寺の廊下を清掃している最中、その様子を偶然見かけた師匠が弟子の清掃の所作に何かを感じ入って「おい(その動作はどういう意図でやっているのか?)」と呼びかけたのかもしれません。あるいは、師匠と弟子がどこかに出かけた際、偶然、気づきを得るためのシーンに出くわしたときに「おい(この光景を見て、何か思う所はないか?)」と行動を促したのかもしれません。

弟子は、自分が禅仏道を志し、師匠の元で修行中の弟子であるというコンテクストを一切無視するかのように

「え、単に呼ばれたから答えただけですけど何か?」

と、ある意味で思考停止した反応をしたので、師匠はガッカリしちゃったわけです。もし唐の時代にブログやTwitterがあったら、師匠はこの出来事を振り返って、こう書き残したかもしれません。

「弟子よ、お前は悟りを得るために俗世の生活を捨てて私の元に修行に来たのではなかったか?私は師匠としてお前さんを引き受けたからには、お前さんを一日でも早く一人前の禅僧に育てる責務がある。だから私もお前さんも、漫然と毎日を送ってはいけないのだよ。それなのに、どうもお前さんは修行僧として毎日雑務に追われる日々に浸りきって、ここにいる本来の目的を忘れていないか?お前さんが今いる場所はどこだ?なぜ自分がここにいるのか、本当に分かっているか?」と。

(弟子がそのポスト見ちゃったら禅修行にならないじゃん、というツッコミは置いといて)。

ジョブズの「問い」に見る禅問答

故スティーブ・ジョブズは、自らが創業したアップルコンピュータを一時追放(解任)されたものの、その後同社に復帰してアップルの劇的な再建を果たしたのですが、再建にあたってジョブズの思想の源泉となったのが禅だったという話はどこかで聞いたことがあるかもしれません。
(私の過去のポストにもちょっと書いてますのでよかったらご参考まで)

ジョブズがアップルに復帰した時点で、アップルの銀行口座に残っていた資金は90日分しかありませんでした。誰もが「いやもうムリっしょ・・・」と思うほど会社としては絶望的な状況でした。そんな状況で、ジョブズはある「問い」を立てることでアップルを再建し、やがて時価総額一兆円超企業にまで育てたわけです。そのときジョブズが立てた問いこそが

「アップルとはいったい何者なのか?」

でした。一見するとマーケティング理論でいうところ「ポジショニング戦略」に似ているようですが、この問いはそれとは別物です。(と私は思っています)

ジョブズはこの問いを自分自身に、そして従業員に投げかけ、アップルという企業は何者なのかを深く深く追求しました。その結果「シンプルであれ」というアップルをアップルたらしめる根源的な思想が生まれ、iMacやiTunes, iPodといったイノベーティブな製品・サービスを生み出し、今のアップルに至ったわけです。

ポジショニング戦略の本質

ポジショニング戦略とは、一般的には「客観的な世界における自分の立ち位置」を考えられがちですが、禅問答やジョブズが立てた問いからもわかるように、同時に「主観的な世界における自分の立ち位置」を考えることも大事なんだと思います。

「自分は自分を誰だと思っているのか?」
「自分の居場所はどこにあると思うのか?」

私も日々業務に追われて漫然と過ごしてしまい、師匠にガッカリされないよう意識せねば、と思ったりします(とくに師匠はいないけど)

おしまい。




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