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アイデンティティの問題①

『あなたは何屋さんですか?』

と聞かれたら、どう答えますか?


自営業やフリーランスをやっているなら、自分の生業そのままに「パン屋です」とか「コンサル屋です」とか言えるかもしれません。会社勤めの方なら「技術屋です」「企画屋です」という答え方ができると思います。

私はこの「○○屋」という表現が好きです。なぜなら「○○」という表現を使うと、その人の「肩書き」や「所属」といったノイズを吹き飛ばして、その人の「アイデンティティ」(の一部)を端的に知ることができるからです。

ここでいう「アイデンティティ」とは、その人が「どんな立ち位置でこの世界(この社会)に向き合っているのか?を特定するもの」という意味です。

たとえば

私は企画屋です」と称する人と知り合ったなら

「あぁ、この人は”企画”を世の中に生み出すという立ち位置でこの社会に参加している人なんだな」

と直感的に理解できます。

これがもし「私は経営企画管理部に所属しています」なんて言われてしまうと、実際にやってる仕事は企画を生み出すことではなく役員のプレゼン資料作り…なんてこともあったりするので、「所属」や「肩書き」ではその人の本当の立ち位置は分かりません。

でも。しかし。

企画屋」という表現をもって、それがその人の「アイデンティティ」そのものか?といわれればそれも違います。だって「企画屋」というのは、あくまでその人の「世界における立ち位置」の一つでしかないわけですから。ではほかにどんな「立ち位置」があり得るでしょうか?

例えば「父親/母親」という立ち位置。
例えば「日本人」という立ち位置。
例えば「××市民」という立ち位置。

あれ?

一般に、アイデンティティ(identity)って「身元」とか「特定する」って意味じゃなかった?こんなにコロコロと身元が変わっていいの?特定できなくない?「アイデンティティ」って一体何なの?

なんて思いながら、今回は「アイデンティティ」について色々考えてみました。というお話です。

「アイデンティティ」とは「同一性」

例えば実用日本語表現辞典によれば、

アイデンティティとは、同一性、すなわち「《他ならぬ》それそのものであって他のものではない」という状態や性質のこと、あるいは、そのような同一性の確立の拠り所となる要素のことである。

とあります。

三省堂大辞林でも

同一性

とあります。なるほど。

「アイデンティティ」とは則ち「同一性」というのが一般的な訳のようです。

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仮にA君とB君という2人の男の子がいた場合、A君はB君ではないし、B君もA君ではありません。当たり前ですね。物理的にも社会的にも全く別の人間です。

「A君のアイデンティティ」つまり「A君の同一性」を問うということは、A君をA君たらしめる「何か」を問うということです。

そのA君をA君たらしめる「何か」をどのようにモデリングするか?

例えば「名前」はどうでしょうか。「名前」は「アイデンティティ」になるか?残念ながら、よほど特異な名前でもない限り同姓同名はあり得るので、アイデンティティにはなりません。(裏を返せばキラキラネームは強力なアイデンティティになるとも言えます…本人が幸か不幸かはさておき(;^ω^))

外見」(顔、髪型、身長、体重)はどうでしょうか?ドラマや映画だと犯罪者が整形して誰かになりすますなんてストーリーがありますが、現代の進化した整形技術を考えると「外見」が「同一性」を確保するのは難しいのかもしれません。中身が別ものだけど見た目は全く同じ、、、あり得そうです。

では「特技」は?「趣味」は?「学歴」は?「出身地」は?単体では難しいですが、組み合わせればもしかしたら…というところですが、もっとズバっと、わかりやすく同一性を担保できるものはないでしょうか。

例えば「虹彩」や「静脈」は人によって違うとされていることから、個人認証の手段としても採用されているように「同一性」を担保しています。あとは行政が発行する国民ID(マイナンバー)やパスポート番号、免許証番号など、いわゆる身分証明書になるものも一応「同一性」をその発行機関が保証しています。もちろん偽造や捏造のリスクもありますが。

でも「アイデンティティ」ってそういうことじゃないですよね。

「A君をA君たらしめるものは、この虹彩です!」
「A君をA君たらしめるものは、このパスポート番号です!」

というのはあまりに無機質的だし「アイデンティティ」とは「世界における自分の立ち位置を示すもの」であると考えるなら、何の説明にもなってません。

「アイデンティティ」は「個性」とも訳されるように「自分らしさ」や「独自性」という意味合いも含んで使われることもあります。

「アイデンティティ」って、一体なんなんでしょう?

西洋における「アイデンティティ」の正体

西洋における「アイデンティティ」とは「神様との契約」です。

よく西洋は個人主義の国だと言われますが、その個人主義の背景にあるのがキリスト教やユダヤ教といった一神教の宗教的世界観です。

キリスト教徒やユダヤ教徒(イスラム教も元は同じか?)の世界観では、この世界は唯一絶対の神が創造したもので、神と結んだ契約に基づいて自分は人間としてこの世界にいるのだ、と考えます。

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例えば、アメリカ人のボブという男性がいるとすれば、彼は自分がこの世界のどこにいて何をしても常に「自分は神(イエス)と契約したボブである」という意識を忘れません。それがキリスト教徒(プロテスタント)としての彼の世界の捉え方であり、その契約の存在が強力な「アイデンティティ」になっています。

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上の図のように、ボブは「学生」である前にボブであり、「ビジネスマン」である前にボブであり、「父親」である前にボブなわけです。

西洋人の「アイデンティティ」つまり「世界における立ち位置」とは、「神と契約を交わした個人」として、契約を履行して生きることに尽きます。
従って、契約が有効である限り、ボブはこの世界のどこで何をしていても普遍的にボブであり続けるわけです。ボブ・イズ・ユニバーサル。

西洋の人はどこでどんな立場であっても「I ~」と一人称を使った自己主張をするそうですが、この自分を起点とした主張こそまさに「アイデンティティ」の自覚が顕在化したものと言えると思います。

東洋(日本)における「アイデンティティ」の正体

東洋・・・といっても定義によってはイスラムからインドまで広範囲を含んでしまうので、まずは自分たちがいる日本で考えてみます。

私たち日本人は、、、言うまでもなくボブの真逆ですね。

なんせ自己主張が弱いし、一人称を言わない(主語を明確にしない)し、立場が変わればコロコロと立ち位置も変わります。

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日本では、学生のときは「学生としての本分を全うして…」なんて言われて「たかし」である前に「学生」たることを求められ、社会人になると組織の歯車として「たかし」である前に「組織の一員」たることを求められ、家族を持てば「たかし」である前に「良き父親」であることが求められます。

このように、東洋(日本)では「世界における自分の立ち位置」は本人というよりも社会が決めているようにも見えます。

こうしてみると、冒頭の○○屋という表現は東洋固有(というか日本だけ)なのかもしれません。少なくとも、西洋のアイデンティティの考え方からすると○○屋というアイデンティティの捉え方は合わないように思います。

アイデンティティは誰が決めるべきか?

個人の「アイデンティティ」は誰が決めるべきなのでしょうか。

パターンとしては大きく以下の2つしかありません。

① 自分が自分のアイデンティティを決める
② 他者が自分のアイデンティティを決める

西洋は①ですね。本人が「自分の意志で神と契約したからこそ、今自分はここにいるのだ」と考えるわけですから、当然自分のアイデンティティは自分が決めたということになります。

②はいくつかパターンがありそうです。

日本の例を見ると、社会が個人のアイデンティティを決めているようにも見えます。でもそれって、言い換えるなら「同調圧力」や「価値観の押し付け」に繋がります。「出る杭は打たれる」ということです。それは多様性を殺すことになり、多様性を失った生物は滅亡にまっしぐらです。

滅亡の未来を避けるには、日本も①を狙うか、②の違う形を探った方がよさそうです。

次回は、日本が①を狙うとしたらどうアプローチすべきか?の予定。

つづく。

おまけ

タイトルの画像は、ポール・ゴーギャン作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」です。

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