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『言葉の本当の意味』

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誰でも知っている、誰でも使っている言葉でも、その本来の意味が存外知られていない言葉を、これから五つ上げて(挨拶・我慢・無念・成仏・合掌)その真なる意味を明らかにしましょう。
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「挨拶(あいさつ)」 (第1回)

「挨拶(あいさつ)」 (第1回)

誰でも知っている、誰でも使っている言葉でも、その本来の意味が存外知られていない言葉を、これから五つ上げて(挨拶・我慢・無念・成仏・合掌)その真なる意味を明らかにしましょう。

一回目はこの「挨拶」です。
「挨」とは軽く触れることです。
「拶」とは強く触れることです。
そもそもは禅で使用されている言葉です。

したがってその本来の意味は、「この世には他人はいない。出会う人は出会うべくして出会っている

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「成仏(じょうぶつ)」 (第4回)

「成仏(じょうぶつ)」 (第4回)

一般的には「仏に成ること」で死を意味しますが、本来の意味は「生きながら仏になる」ことこそが「悟る」ことだとしていますから、一定の修行の末に生きているうちに目指すべきが「成仏」なのです。

修行とは何かといえば、何を行うにも次のことを忘れないで行うことです。
「一つ一つを丁寧に。真心こめて!」

これを一日一日、日々の生き方として行っているうちに、気持が晴れる日、何か大きなことが了解したような心持に

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「無念(むねん)」(第3回) 

「無念(むねん)」(第3回) 

無念といえば、「無念残念」などと使い、心残りなことをいいますが、本来の意味ではありません。

元の意味は読んで字のごとしで「念(思いのこと)が無い」ことなのです。
仏教では、欲望を否定し、無欲を説いています。

したがって、そもそも「念」などは持ってはいけないと説きます。
「空」を求める心こそが正しい心なのです。

したがって、無念こそがあるべき正しい心といっても良いのです。
もっといえば、念を残

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「我慢(がまん)」(第2回)

「我慢(がまん)」(第2回)

「仏教」で使われて来た言葉です。

驕り高ぶりの心を表わした意味です。
何か欠けていること、そこにあるべ物がないこと等に対して、自分がいわゆる我慢をする。
よく我慢したと自分を褒める。
この心こそが驕り高ぶりの心だといっているのです。

ではどうしたら良いのか。
もし欠けていること、あるべき物がないこと等あったら、我慢してはいけない。
後に来る人のことを思ってちゃんと整えておく、正しておくことこそ

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「合掌(がっしょう)」(第5回)

「合掌(がっしょう)」(第5回)

仏や神など絶対的存在の前に立つ時は、当り前のこととして両手を合わせます。

そもそもは、「左右」といえば全体を構成している半分と半分を表わしています。
とかく対立しがちですが、いつもまったく違う左と右は、一体になっていることが大切なのだということを表わしています。

自分と立場も考え方も意見も違う人とこそ、手を合わせて対面すべきなのだ。
感情的にならずに手を合わせれば、いつしか心が一体化するといっ

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