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奇説 今昔物語集 vol.009 -高陽親王のイノベーション-篇

1.職人、高陽親王

 今は昔、高陽親王(かやのみこ)という人がいた。桓武天皇の第七皇子で、歴史的には賀陽親王(かやしんのう)と称される。この人は天皇の皇子でありながら、実に優秀な職人であったという。

 高陽親王の邸宅は「高陽院(かやのいん)、賀陽院(かやのいん)」とも呼ばれ、藤原 頼通がたいへんに気に入って、後に邸宅を接収すると、その敷地を倍に広げて四方を池に囲まれた寝殿造の建物に増築した。

 頼通は、この高陽院をほぼ官邸として長期政権を築き上げたが、宇治の平等院に引退した後は、その所有権は藤原摂家の当主に継承させた。鳥羽上皇の皇后となった藤原 泰子に「高陽院」の女院号が与えられたのも、ここに居住していたことに由来している。その後、鎌倉時代に入ると後鳥羽上皇が院御所として院政の拠点とし、承久3年(1221年)に承久の乱につながる謀議を行ったのもこの高陽院だった。承久の乱後の貞応2年(1223年)放火によって消失したが、それ以後は再建されることはなかった。 

 高陽親王は、後に大破した東大寺大仏の修復作業を担当し、貞観3年(861年)には東大寺大仏修理落成供養会を監修している。

 職人、というと料理人や大工の風情があるが、現代風に言えば、彼の実態は「プロダクト・デザインもできる建築家」であっただろう。

2.京極寺と干ばつ

 今昔物語集では、この高陽親王が紫明通の南に京極寺を建立したと伝えているが、京極寺は奈良時代に桓武天皇の兄にあたる僧 開成(かいじょう)によって建立され、高陽皇子がこの寺領を有していたのは二世ということになる。

 「京極」とは京都の東西の果てを意味し、西京極と東京極とがあったが、京極寺は西京極、三条の北にあった。天台宗に属し、源平合戦前夜、若き日の武蔵坊弁慶がこの寺で石を持ち上げて身体を鍛えたともいわれ、今も弁慶石町という地名が残っている。

 京極寺の前の河原にある田は、この寺の領地、すなわち高陽親王の田であったが、ある年、国中でひどい日照りが続いた。

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