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黒澤明『天国と地獄』:丘の上に住む人は私と同じく人間なのか?

1963年に公開された黒澤明の『天国と地獄』は題名通り、地理空間においても、階級構造においてもわかりやすい二項対立を提示している。町を一望できる丘の上の豪邸と、それを見上げるスラム街の中の窮屈で汚い一室。幸福な家庭生活を送り、仕事に熱意と理想を持つ資本家と、生まれてから貧困に呻いてきて、憎しみを生きがいに持つ若者。


しかし一見究極な二項対立だからこそ、それだけでは決して語りきれないものをほのめかしているように私は見えた。とりわけ注目したいのは、主人公権藤自身も低い階層の出自を持っており、その点において誘拐犯の竹内と大して変わらない点である。竹内は極悪人であるが、彼が罪を犯したまでの人生は、権藤と同じように自らの階級を脱して社会でのし上がることに成功し、研修医をしている彼には医者になるという輝かしい未来が保証されている。


運命の逆襲まで一歩しかないところでなぜそれまでの努力を諦めてしまうのか。似たような人生軌跡を描いた二人がなぜ互いに同情と理解ではなく憎しみで隔てられなければいけないのか。それは偶然ではなく、社会階級の固定化という必然性によるものだと私は主張したい。


二人はまず身体的特徴から極めて対照的に描かれている。最初から登場する権藤は、とりわけその男性的魅力とカリスマ性を強調するように描かれている。シャワーシーンでもわかるように、三船敏郎が演じる権藤の身体美は、健康的で力強いものとして映っており、それが香川京子の妻役の弱々しさと対照的に描かれている。しかし身体性に見られるその男性パワーは、横柄な家父長であることを意味しない。信念を曲げず、果敢な行動力と優れた知性で「悪勢力」と正面から戦う凛々しさと、自分の家庭と将来を犠牲にしても他人の子どもを救う情に脆いところから、彼はモラルの模範として描かれている。


一方で、竹内の登場は映画の中盤になるが、色白の細身で、白衣を着ている書生の外見は、医学生というアイデンティティと持ち合わせて、フランケンシュタイン博士を彷彿させるような変態気質が見て取れる。手の傷は、犯人特定のきもでありがなら、権藤の健康な身体美とは対照的に、精神的な欠陥まで連想させる。


しかしこの二人の対立自体は本質的なものではなく、むしろ非常にアンビバレントなものとして考えられる。権藤家は一見円満そうに見えるが、彼が妻に理解されていないことは二人の考え方の違いから読み取れる。

権藤伶子「大丈夫よ、あなたならまた最初から出直せるわ。」
権藤金吾「お前には一文なしとはどういうことなのかはわからんのだ。生まれた時から大きな立派な家や自動車、贅沢な着物や食べ物、そういったものに取り巻かれて生きてきた。私は出直せるにしても、お前には無理だよ。」

権藤は彼の今いる階級の中で孤立している。妻は貧乏を知らないがゆえにイノセントで慈悲深いであり、彼が家族を思うからこそ下した身代金を出さない決断を冷酷さに捉えてしまい、彼の現実的な計算を理解できない。一方で、ニューマネーの権藤は革命的な野心家であり、それにふさわしい能力と頭脳も備えているためオールドマネーであろう他の取締役に脅威としてみなされ、警戒される。運転手に尊敬され、感謝されながらも、怯えられている方がより伝わる。10年間付き添ってくれた部下には出世の踏み台にされ、利益の衝突が起きた途端裏切られる。

なぜこれほど立派な人間がこれほど孤立しているのか。


それは、彼の生き方自体が、すでに固定化した社会の階級構造の秩序を乱しているからではないか。低い階層の出自を持っていても、自身の努力によって運命を変え、より高い階級にのし上がることは、一種の理想であり神話に過ぎないからではないか。権藤の今までの成功は偶発的な事件であり、むしろその転落は必然的である。なぜかと言えば彼に致命傷を与えたのは、資本家を代表する取締役たちではなく、自分と同じ出自を持つ誘拐犯の竹内だからだ。他人の子どもなのに自分が身代金を払わなければならないという設定の不条理そのものに階級を越えられない必然性が宿っているように思われる。そうであれば、権藤の没落はごく自然なことであり、また一からやり直さなければいけないこと、またそれに成功できると夢見る彼自身が悲劇的に見えた。


本作の原作はアメリカの小説ということから、丘の上の屋敷という設定にもう一つの含意が含まれているように思われる。植民地時代のアメリカのピューリタンの指導者ジョン・ウィンスロップが新約聖書から引用した「丘の上の町」(City upon a Hill)という譬えは、丘の上にある町は下から仰ぎ見る視線が絶えず注がれるように、ニューイングランドのピューリタン社会への視線も絶えず他の世界から注がれ、この社会が全世界の社会のモデルになるべきであるという意味が含まれている。確かにこの文脈で考えると、権藤は丘の上に住んでいるご身分にふさわしい道徳的な行動を取った。それによって彼は世間の英雄になり、まさに「社会のモデル」とされた。


しかしそのような英雄伝は一種の自己満足にすぎず、「丘の上の町」がアメリカの文脈から外れた途端、その道徳的な暗示を失ってしまう。キューブリックの『シャイニング』に登場するホテルも同じように山の上に建ててあるが、これもまた道徳的どころかそれとは真逆なシナリオが上演されている。俯瞰する人としての社会的責任感という文脈を完全に無視し、「丘の上」は資本によって作られた享楽主義と自己顕示欲の象徴として機能する。


社会のモデルを仰向くはずの視線が、『天国と地獄』では嫉妬と憎しみに転換されている。下の人間に上にいる自分たちをモデルとして誇示するのは自惚れであり自己満足である前に、実現不可能な幻想である。なぜならあまりにも分断されている社会は、下の人間に上の人間の実態を想像させる可能性すら与えていないからだ。竹内のような頭の良い人に想像力がないわけではない。少しでも善意につながる想像の手がかりになるような連帯は、階級間の激しい分断によってその可能性すら抹消されているのだ。


ジェイムソンの『シャイニング』論ではジャックの狂気が次のように分析されている。

彼の場合、共同体どころか家族単位までもが、一種の完全孤立におちいっているからである。ばらばらな個人がただ3人、一緒にいるだけで、それ以上の意味は何もないし、お互いの関係からして(激しく)疑われている。一方、この特定の家族が都市という社会空間で、やはり周縁へ追い込まれたほかの人々と、集団としての連帯をはぐくんでいるなんらかの可能性も、冬の大ホテルがまるっきり隔離されているために閉め出されてしまう。子どものテレパシーによる仲間意識だけが、黒人社会のモチーフとつながることで、より大きな社会関係をまぼろしのように彷彿とさせるのみである。(ジェイムソン、147)

同じように、家庭とコミュニティの中で孤立している権藤と、おそらく心底から人間不信で孤独な竹内が、実は似ているように思われる。竹内を尾行する警察官の戸倉が、権藤にタバコの火を借りる竹内を見て、「正真正銘の鬼畜だ!」と驚く。しかし竹内の狂気には「気狂い」「鬼畜」では収まらない社会的必然性が宿っているに違いない。多大な努力で研修医までなった彼は、おそらく上に上がれば上がるほど分断の現実がわかるようになり、他者に対する不信感が深まったのだろう。「鬼畜」と罵ったことは、彼の生い立ちという文脈を無視し、理解できる範疇から追い出し、完全なる他者として定義してしまうことである。ジェイムソンがジャックの狂気を幽霊のようなものではなく、「アメリカの過去」そのものだと訴えたと同じく、竹内の狂気もまた、階級社会の歪みの象徴としてとらえられる。

五○年代の黄金期SF映画の内実は、宇宙船に乗る人間たちであれ、脳を喰う怪物であれ、ほんものの集団パラノイア、つまり冷戦時代の集団妄想であって、まわりのイデオロギーの風潮をモデルとしてなぞることで現実にこれを裏書きする、勢力と転覆のファンタジーだったのだ。こういう映画では「敵」の姿は、個々ではモンスターとして、集団では生物学的もしくは直感的に、人間より劣る組織、よくてせいぜいアリ塚なみの仕組みとして描かれていた(私たちの内部の敵は、逆に、私たちと「ちがわない」のが特徴だった。「共産主義者」は私たちとまったく同じような人々で、ただ目がうつろで動作も機械的であり、そこが異星人にからだを乗っ取られているしるし、というわけだ)。(ジェイムソン、150)

前文でも述べたように、あまりの分断によって我々が想像している敵は実は我々と同じようなものであることを知る術がない。それは共産主義者であれ、丘の上の豪邸に住む資本家であれ、想像しようのない敵を一層恐ろしいものとして、完全なる悪として想像の中で描き出してしまう。このように人間は実在しない敵との対決で自らの人格を形成していく。その過程においてもはやその敵の実体はどうなのかが重要でなくなる。重要なのは、憎しみ続けること、それによって自分の生きがいを保つことである。竹内にとっておそらく医者になる明るい未来自体は信頼できないようなものであろう。なぜならそのような未来は彼にとって想像し得ないものなのだ。


もう一つ私が注目したのは、権藤の会社の権力闘争でたびたび話に上がる「オヤジ」の不在である。「オヤジ」は話に何度も出てくるが、実際に登場することは一度もない。「オヤジ」の不在は、実は「ビッグ・ブラザー」的な存在であることを暗示しているのではないかと私は解釈した。

ある言葉を通して、沈黙は表現の源初的中心、最後的視程点となるのである。というのも、語っているのはこの沈黙なのであるから。
言葉が沈黙を表すのでなければ、沈黙が表すものこそ言葉なのである。
(マシュレー、159)

「オヤジ」は不在でありながらも恐ろしい権力と影響力を持っていると同じように、表面上では権藤に同情を示すが、いかにして犯人に極刑を与えられるかに夢中な警察には、その正義感の裏にあるのは国家権力の恐ろしい暴力性である。


警察は権藤に同情を示しながらも、権藤の代わりに身代金を出すことはない。なぜなら国家は悪に跪くことはできないからだ。国家権力にとって、(これは戦争の文脈でも同じだが)子ども一人の命は国家の正義と比べようがない。苦しむ善良な市民の権藤の代わりに身代金を出して子どもを救出することはできない以上、自分では選べない生まれの環境で苦しんできた竹内を「気狂い」と呼ぶことで国家の国民に対する責任の放棄を宣言している。


警部の正義感を積極的に描くことが「黒澤が官僚的な国家権力に癒着していくあらわれだ」という公開当時の批評があったようだが(小林、183)、私はむしろこの映画こそ国家権力を批判するものとして観られるものに思えた。そればかりか、反戦映画としても解釈できるのではないか。1963年に、作中で研修医をしている若き竹内が、なぜ生まれの環境に恵まれなかったのか。それは戦争を語らずに考えられない問題だが、あえて作品の中では一切それに触れていない。その沈黙こそが、最も強力な控訴ではないか。


ラストの面会シーンで我々は初めて竹内の声を聞く。言い換えれば、竹内は、死刑が確定されなければ声を与えられていなかった。あの面会が必要だった。彼らは互いに同じ人間であることを確認する必要があった。しかしシャッターは下ろされていく。理解の可能性が遮断されてしまう。やはり二人を隔てたのは監獄――国家権力の最も代表的な装置であった。


【参考文献】
フレドリック・ジェイムソン『目に見えるものの署名:ジェイムソン映画論』法政大学出版局、2015年。
ピエール・マシュレー『文学生産の理論』合同出版、1969年。
小林信彦『黒澤明という時代』文芸春秋、2009年。

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