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旅先で、東京の老舗で。蕎麦の魅力が凝縮された一冊『アンソロジー そば』

若い頃は、夏になると乾麺のざる蕎麦を頻繁に食べながら「蕎麦って本当、美味しいな!」と思っていた。冬は冷凍の蕎麦をすすっていた。仕事帰りには立ち食い蕎麦を夕食にすることもあった。それでも「私は蕎麦が好きだ」とは自覚していなかった。「うどんよりは、どちらかと言えば蕎麦のほうが好きかなー」という感じ。

30歳半ばくらいから、近所の蕎麦屋でお酒を飲むということを覚えて自分は蕎麦が結構好きなんだと自覚しだして、都内の老舗などにも足を運んでみたら、たちまち、蕎麦だけでなく蕎麦屋の虜になった。蕎麦屋は蕎麦だけでなく、シンプル酒肴がそろっているのがいい。ちびちびとお酒を飲むのが楽しい。それに、お酒は飲めるけど、雰囲気は喫茶店に近くて、とてもリラックスできる。チェーン店や小洒落たカフェばかりがひしめく都会の景色に、ほのかな虚しさを感じていたこともあり、蕎麦屋のすっきりとした純和風の佇まいが新鮮だった。日本人なのに、こんな世界があると30半ばまで知らなかったことが、恥ずかしくなったくらいだった。しかし蕎麦屋酒を覚えて大人の階段をのぼったつもりでも、それも“蕎麦の世界”のほんの入り口に過ぎないのかもしれない。

作家をはじめ、さまざまな著名人の、蕎麦に関する随筆を集めた『アンソロジー そば』(PARCO出版)を読んでそう思った。

老若男女に愛される蕎麦

この本に選集された作品の執筆者は、池波正太郎、杉浦日向子、吉行淳之介、松浦弥太郎、タモリ、平松洋子、黒柳徹子、檀一雄、獅子文六、川上弘美、立原正秋、など、他多数。当然ながら著者たちの生まれ年はバラバラで、一番早生まれは、噺家の5代目柳亭燕路(りゅうていえんじ)。1886年、明治生まれだ。大正生まれの著者もいる。それが意外な発見があって面白かった。

例えば、朝ドラ『あぐり』に登場する吉行あぐりの息子である吉行淳之介。私の中では昔の人という認識だったのだけど無性にカレー蕎麦が食べたくなったと作品の中で書いていて、え、カレー蕎麦って結構昔からあったんだな、とか。(ちなみに、調べてみたら、カレー蕎麦のはじまりは明治時代とかなり古い! 発祥とされる店は2018年まで営業していたようで、一度足を運んでみたかった。残念)

5代目柳亭燕路の「噺家と蕎麦」での師匠と若き落語家のたわい無い話は、うっかりすると、つい最近のどこかの噺家が書いたものと思ってしまう。ちなみに5代目柳亭燕路は1950年没だからかなり前に書かれた文章だと思う。しかし、小腹がすいたときに老若男女問わずささっと食べられる身近なもの、という蕎麦の認識は現代と変わらないのだなと思った。私もおばあちゃんと蕎麦屋でおしゃべりしたっけ。これは、蕎麦切りが江戸時代に一般的になって、そこから廃れず着々と国民の生活に馴染んだ証だ。ナポリタンやカレーライスとは年季が違うのだ。また、蕎麦屋は、喫茶店と居酒屋のいいとこどりのような存在であることも老若男女に愛される理由だと思う。

時空を超える蕎麦屋がある

杉浦日向子の「並木藪蕎麦 江戸前ソバの原点」も好きな随筆だ。杉浦氏がこの老舗についての随筆を書いたのは20年以上も前。なのに、描かれている空気が、まさに今現在の並木藪蕎麦そのもの。まるであの店だけ結界があって、時が止まっているんじゃないかと思える。シンプルな品書きも変わっていない。実際には店が真摯に“変えない努力”をしているからなのだと思うけども。おそらく、20年よりもっと前から変わっていないのだと思う。並木藪蕎麦は、本書だけでも池波正太郎や山口瞳など、数々の文士や噺家が通っていた。そんな人たちが通った当時とほとんど同じ空気を共有できることも蕎麦文化の楽しみの一つだ。蕎麦には、時を超えた魅力がある。

旅先での蕎麦は奥が深い

山形、信州、福島、盛岡、などをめぐる蕎麦の旅の話−−農家で提供される蕎麦、納豆蕎麦、肉蕎麦、1日中待たされる蕎麦屋−−には、その土地ごとの蕎麦の味、提供スタイルが数えきれないほどあるのだなと思わされた。そして、私の知っている蕎麦などほんの一部なのだと。

蕎麦が麺として庶民に食べられるようになったのは江戸時代と言われている。江戸では嗜好品の一種にもなっていたが、地方の山間部や昼夜の気温の差が激しい土地では、年に三回も収穫できる蕎麦は、飢餓の救済にも役立っていたし、欠かせない庶民の糧だった。だから今でも東京とは違う蕎麦の食べ方があるのかもしれない。旅先で、突然ポツン、と蕎麦屋が現れ「え、こんなところに!?」みたいなことが結構あるのも楽しい。

何年か前に静岡の大井川鐵道に乗りにいったことがあった。とある駅で私は小さな温泉に併設された食堂のような蕎麦屋に入った。そこで、湯などで溶いた蕎麦粉を、茹でずに、醤油やらジャムやら砂糖やらにつけるそばがきが出てきて、これもそばがきなんだと知りびっくりした。「このへんではみんなこうして食べるの。昔からそう」と、おばあちゃんが言っていた。ジャムは手作りのキウイジャムだった。後で調べてみると、蕎麦粉を溶いただけの蕎麦がきはあるようだけど、ジャムや砂糖を添えるのは珍しいようだった。

他にも、侘び寂びを感じる温泉地の蕎麦屋、思わず出会った名店の蕎麦、ご当地立ち食い蕎麦、汁につけずに水だけで蕎麦を食べる水蕎麦、長ネギを箸がわりにして蕎麦をすするネギ蕎麦など、次々と蘇る、旅先での蕎麦の記憶。東京では食べられない蕎麦。蕎麦は、私にとって旅の一部なのだった。とすると、東京で蕎麦を楽しむことも、言ってみれば江戸を感じる旅なのかもしれない。私は山形や盛岡は行ったことがない。信州も蕎麦処のわりには有名店へも行ったことがない。本書を読んで蕎麦を食べ歩く旅もしてみたいなと思った。

家で、立ち食い蕎麦屋で、老舗で、旅先で。どこへ行っても、「やっぱり私は蕎麦がないと生きていけない!」と改めて思わされた一冊だ。




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