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「学ぶ力」が弱い原因と、伸ばす方法について考えてみる


私は現在、23歳の大学院生である。

私は、大学院生として恥ずかしながら、自分の「学ぶ力」が弱いと感じている。そして、「学ぶ力」をつけたいと思っている。


でもどうしたらいいのかわからないので、自分の頭を整理するためにも文字に書いて考えてみようと思う。


このnoteでは、自分の「学ぶ力」が弱い理由と、どうすればそれを伸ばすことができるのかを考えてみる。



なお、このnoteは何らかの理論を参照しているものではなく、あくまでも個人の経験に基づいて考えたことをまとめたものであることをご理解いただきたい。



「学ぶ力」とは何か


まずは、このnoteでいう「学ぶ力」とはどのようなものなのか、確認していく。


「学ぶ力」の定義


「学ぶ力」の暫定の定義は、以下とする。

「学ぶ力」とは、自らある領域について学びたいという意欲を持ち、それを学ぶ方法を考え、主体的に実行していく能力である。

たぬさん


ここでのポイントは、「学ぶ力」を、①意欲、②方法の探索、③実行の3段階に分けていることである。

この定義を使って、ここから議論を進めていくことにする。


なおこの定義は、特に理論に基づいているものではなく、自身の経験をもとに考えたことであることをご承知いただきたい。



「学ぶ力」が弱いと起こってしまうこと


「学ぶ力」が弱いと何が起こってしまうのか。ここから、具体的エピソードをもとに、「学ぶ力」が弱い人のイメージをつかんでほしい。


昨日、Aさんは大学院生ミーティングに出席した。

そこで、教授を含め先輩方から「Aさんは論理的に考える力が足りていないよ」と言われた。

Aさんは、「自分には論理的に考える力が足りていないんだ」ということを自覚して、反省した。

でも、そこから何も行動を変えなかった。


Aさんというのは、以前の私をイメージして書いた。


「学ぶ力」の弱いAさんは、自分の能力や知識の欠如に気づいても、そのまま放っておいてしまうという特徴を持っている。


「できない」ということには気づくが、その状態から抜け出そう、自分からできるようになっていこう!という気持ちが、湧いてこないのである。


そのため、行動も変わらなければ、能力も伸びない。
それが、私の考える、「学ぶ力」が弱い人の姿である。


なお、この特徴は私だけでなく、同世代の学生にも共通して言えるのではないかと(個人的には)感じている。



ここからは、「学ぶ力」が弱い原因を考え、どうしたら「学ぶ力」を高められるのか考えていきたい。



なぜ「学ぶ力」が弱いのか


なぜ「学ぶ力」が弱いのか。


今回のnoteでは、仮説として、「学ぶ力」が元から弱いのではなく、弱くなってしまったのだと考える。


なぜなら、人間は本来的に学ぶ動物だからである。赤ちゃんは、自分からミルクを飲もうとするし、なんでも触って試してみたりして、自分の世界を広げようとする。


幼い頃のおぼろげな記憶では、自分も「早く小学校に行って、勉強したい!」と言っていた。



それでは、なぜ「学ぶ力」が弱くなってしまったのか。


私の考える仮説は、①学びたいという意欲が失われてしまったこと、②学び方を自分で考えるトレーニングをしてきていないこと、③自分のままでいたいというプライドがあること、の3つある。



①学びたいという意欲が失われてしまった


第一の仮説は、学びたいという意欲が失われてしまったということだ。


これに関連して、ふと思い出したことがある。私がまだ小学校1年生のときの話だ。ちょっと紹介したい。

小学生は、1年生から6年生まで、毎年新しい漢字を習う。

そんななかで、いくら簡単な字でも、なかなか習わないものもある。
例えば井戸の「井」は、書くのはとても簡単なのに、習うのは4年生になってからだ。

私の苗字には「井」の字がついているのだが、小学校1年生の私は、「学校ではまだ習っていない漢字は書いてはいけない」という暗黙のルールを自覚して、書かないようにしていた。


習っていない漢字を書くことを制限する小学校について、最近も少し話題になっていたが、私の小学校では禁止されているまではないにせよ、「なんか、ダメなんだろうな」という感覚を子どもながらに持っていた。

幼い頃の私は、「学校は、学校で学んだことだけをやるべき場所なんだ」とうすうす感じていたのかもしれない。


本来、学びとは自分から掴み取っていくことである。でもその掴み取ったことを「見せない方がいいんだ」ということを、子どもは感じていく。


こういう些細なことが積み重なり、「学びとは、自分からするものじゃなくて、受け取るもの」という考えが染み付いてしまったのではないか、と私は思う。



②学び方を自分で考えるトレーニングをしてきていない


次の仮説は、学び方を自分で考えるトレーニングをしてきていない、ということだ。



私は高校生のとき、難関国公立大学を目指して勉強していた。平日は学校に行った後は塾か自習室へ。休日はずっと自習室で勉強。


でもその内容は、塾の宿題や、学校の宿題、塾の先生から「これやるといいよ」と言われたことなどだった。


振り返ってみると、長時間「勉強」はしていたが、「勉強の仕方」を自分で考えてはいなかった。


やり方を周囲の人から与えられすぎて、ただ目の前にある作業をこなしているだけ。それでは、「勉強の仕方」は身につかなかった。

これは、今になって結構問題なのではないかと思っている。

(なお、当時私が通っていた学校や塾にはとてもよくしてもらったと思っているので、自分がもうちょっと考えるようにしていればよかった・・・という意味で捉えてほしい。)



③自分のままでいたいというプライドがある


仮説の三つ目は、「自分のままでいたいというプライドがある」ということだ。


最近、やたらと「自分らしさ」という言葉を聞くし、就職活動においても「長所・短所」「やりたいこと」など、「自分」とは何かを考える機会が多い。


20代の「自分」なんて未完成でしかないのに、「これが自分なんだ」と型にはめて考えてしまう。


そのため、「私はこれには興味ない」とか、「本を読むのは私らしくない」とか、小さな自分を守るために防衛することになる。


これが、学びを妨げている要因の一つではないかと考えている。



では、どうすれば「学ぶ力」を伸ばせるのか?


どうすれば「学ぶ力」を伸ばすことができるのだろうか。
ここまで問題を①②③に分けて考えてきたので、それぞれに対して解決策を考えてみる。


空想上の解決策になってしまったら実行できないので、私が大学院に入って実感していることをベースに考えることにする。


以下で紹介する解決策三つは、まだまだ「学ぶ力」が弱いと感じている私が考える、現時点での最適解として理解してほしい。



①一度、やりたいことを突き詰めてみる


一つ目の解決策は、「一度、やりたいことを突き詰めてみる」ということだ。


大学院では、自分のやりたいことを突き詰める経験をした。これは、学びを動機づけるために重要な経験だったと感じている。


やりたいことが明確になれば、他の人から「やれ」と言われなくても、必要に迫られて学び始めるのだ。


では、具体的にはどうすればいいか。


私はまず、「やりたいこと」の感度を高めるところから始めるべきだと思う。


少しでも興味あるものを、とりあえずやってみる。「やるべきこと」をやる時間をできるだけ少なくして、「やりたいこと」をやる時間をつくるようにする。

自分がふと手に取ってしまう本や、時間が空いたら見てしまう動画などに、興味の種が含まれているかもしれない。

少しでも興味を持ったら、「知りたい」という欲にフタをせずに、どんどん調べて、手を動かしてみる。

それだけで、もう「学び」は始まっている。



ここで危険なのは、「自分分析」を始めてしまい、「自分は何にも興味を持てないタイプなのではないか」とか思ってしまうことだ。私は何度もそう思ってしまった。


そうなってしまったときは、「自分の感度が低いだけだ」と思うことが大事だ。


また、「やりたいこと」は、必ずしも「本当にやりたいこと」である必要はない。人生をかけて取り組めるテーマに出会えることはそう簡単ではないので、そこまでハードルを高くしすぎないことが大事だと思う。


②論理的に考えるトレーニングをする


学びへの動機づけができたとして、次にぶつかるのは、「何をしたらいいかわからない」という問題だ。

例えば、大学院で研究テーマが見つかって、なんとなく「こういう感じの研究がしたい」と思ったとしても、具体的なアプローチもわからなければ、自分がどう動けばいいのかもわからない。


ふらふらしたまま、一週間も二週間も過ごしてしまうということはあるだろう。


そこで大事なのは、論理的に考えるトレーニングだ。


まずは目的と、そこに至るまでの手段を考える。そして、その目的が達成されるまでに起こる問題を一つひとつ潰せるように解決策を考えていく。

知識が足りないのであればリサーチを進めるべきだし、能力が足りないなら頭を鍛えるべきだ。


目的に至るまでに何が必要なのかを分解して考えていくことで、自分がやるべきことを明確にすることが大切である。


ちなみに私は、このnoteを書くことは論理的思考力を鍛えるための一種の訓練だと思っている。


③ギャフンと言わせたい人を見つける


動機づけもできて、アプローチもわかったとき、最後の一押しをしてくれるのが「ギャフンと言わせたい人」の存在なのではないかと思っている。


「ギャフンと言わせたい人」がいることで、学びが自分のためだけでなく、他の人のためにもになる。

自分からはなかなか主体的に動けないという人でも、他の人の存在があれば動けるということはあるのではないだろうか。


ちなみに私の場合は、研究室の教授や先輩を、ギャフンと言わせたい。「たぬさん成長したね」とか、「たぬさんがいなくなったら困る」とか言わせたい。


このように、他者の目を意識することで、主体的に動ける自分を、自ら構築していけるのではないかと思っている。


まとめ


このnoteでは、「学ぶ力」の定義を整理したのち、「学ぶ力」が弱い原因と、それを高めるための方法を検討してきた。


上にも書いたように、「学ぶ力」を高めるための三つの仮説は、あくまでも自分の経験から想像したものであり、果たしてこの三つが効果あるものなのかどうかはわからない。


今回noteにまとめることで思考が整理されてきたので、ともかく今度は、自分が実際に試してみようと思う。



自分なりに試行錯誤を繰り返していって、修士課程を修了するころには、「学ぶ力」をつけた人になれているといいなと思っている。

また進捗があれば、報告したい。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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