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トマス・ピンチョンの難と快 #読書

トマス・ピンチョンとは、ノーベル文学賞常連のアメリカの覆面作家である。

唐突ですが、まずはこちらを御覧ください。

この作品にはあらゆる領域の情報が利用されているが、中心となる概念としてサイバネティクスと(情報理論の)エントロピーが挙げられる。
正しいとも正しくないとも判定不能な物語群は、すなわち情報エントロピーの最大化の方向へと進行している。そしてそのような小説自体が一種の情報であると同時に「情報についての物語」をも構成し、読者を真偽に関するフィードバックのループへと巻き込んでいく。しかも小説は歴史的事実を語ると同時に歴史的事実の捏造を行っているため、メタフィクショナルなループは現実をも侵食していることになる。

トマス・ピンチョン『V.』 Wikipediaより

どうでしょう?これだけ読むとものすごく読みたくなりませんか?僕はヨダレが出ます。

しかし、一方で、おそらくご想像のとおり、実際に読むと非常にきつい。1つの物語を読み進めているはずが、自分が一体何を読んでいるのか、だんだんわからなくなる。20世紀(ポストモダン)文学の怪物と言われるトマス・ピンチョンの凄まじさは、この処女長編の『V.』にも既に濃厚に十分に盛り込まれていると思う。

前述の引用とも重なるけれど、トマス・ピンチョンの小説は、物語のリニアな進行を楽しむのではなく、その構造と情報が自分というブラックボックスの中に入った時の化学反応を堪能する本だと僕は思う。

それは、忍耐力や知識力を問われる作業でもある。いや、知識と言うと語弊があるだろうか。本の中に大量に詰め込まれている情報は別に小難しい話ではなく、ポップカルチャーだったり、下品な内容てんこもりなのだけど。(確か「読みにくくて卑猥」という理由で、ピューリッツァー賞を理事会に却下されたことがあったはず)

こんな本は、ある快を求めて突き進むという強い欲望がないと、僕には読めない。そう、意思というより、欲望だと思う。

今回、数年ぶりに『V.』を読み直したきっかけは、今年の目標の1つである、トマス・ピンチョン最大の大作『重力の虹』を読み切るための、まずは助走と思ってのことだった。(ちなみに読んだのは今年の1-2月)

前より少しはサクサク読めたが、途中「なんだったっけ、これ?」「今何の話がされてるんだ?」となってしまう部分は何度もあった。内容が頭で理解できても、何かを暗示している気分に引きずられたまま、なんだかわかないうちに情報が積み上げられてしまう。時間を超える速度で情報が膨張する。やはりノートをつけながら読むべき本なのか。。

それでも、最後のあの唐突な終わりに不思議な強烈なカタルシスのような感情を感じことが出来た。それは(残念ながら)、他では得られない種類のものなのだ。
早く読み終わりたいとすら思っていたのに。終わることがとても残念になってしまった。
残ったのは、この名付けようがない、①これまで感じたことのない「ある感情」=快。他には少しの②達成感と③優越感のようなもの。当然、希少性の観点で考えても、そのパワーで考えても圧倒的に①の比重が大きい。
本当にたまんないくらい気持ち良いと言ってもいいくらいなんだ。

得るためにどうしても多くの時間が必要な快がある。それはROIで考えると、時間対効果がずいぶんと悪いものだろう。
ただその快は、イージーに得られる快とは完全に別ものだ。同じ「快」であっても身体の中で喜ぶ部位が全然違う。求めてしまう。この快を求めてしまう。求めてしまい続けたい。

なんだろう。何か特別なマラソンみたいなものなのか。

『重力の虹』を読むのが、楽しみで、きつい。
2017年もあと8ヶ月。

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トマス・ピンチョン『V.』

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