2019年1月に本を読んで考えたこと

2019年という数字を見て、オリンピックまであと一年と考えると、ぼんやりとした憂鬱が訪れる。なんか、BBCとかEUの方では経済的な問題を考えても、オリンピックは開催されないのでは?とか言われてると聞いたのだけど。この漠然とした不安感はなんなんでしょう。

■AIと憲法(山本 龍彦)
AIについては、長らく何かが気になる感じがあった。ぼんやりとした期待と、それから不安感や不信感。
なんだろうと頭の片隅で考え続けていて、なんとなく言葉に出来そうな気配がしてきたところで、それにはっきりと答えてくれたのが、山本龍彦(編著)の「AIと憲法」だった。これは去年出た本。一瞬、専門書かと思ってしまうのだが、非常に良かった。
時間や体力のない人はこの本を読む代わりにこの動画の特に31:30あたりからを見るのでも良いかもしれない。
言われてみればその通りなのだけど、ビックデータ/AIによるアルゴリズム経済の大きなゴールの1つは個人が点数に落とされるスコア化社会なのだということを、長らく見落としていた。そう考えると非常に視界がクリアになるし、自分の漠然とした不信感のようなものも説明しやすくなる。結局はビッグブラザーを恐れているのだ、私は。
動画の途中にも出てくるけど、GDPRをはじめとする人権思想としてのヨーロッパ的(財産としてのデータの所有権を個人に強く帰属させる)アプローチ、リバタリアン的なアメリカの動き、そして私有財産を認めない=データ自体が国家のものであることであらゆる実験を経済合理的に進める中国といった動きの中で、日本の1つの拠り所を憲法に置こうとする立場がこの本であると思うし、それには強く共感する。ヨーロッパにもアメリカにも中国にもなれない日本(中途半端な中国を目指すことでコケる可能性も見越しながら)として、何をすべきかを考えるには、本当に良かった。

■ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察 (ジェームズ・ブライドル)
思想や概念の面から具体論に落とすのが「AIと憲法」なら、具体例から思想や概念をあぶりださせようとするのが、ジェームズブライドル「ニューダークエイジ」だったと思う。「必要なのは新しいテクノロジーではなく、新しいメタファーだ」というように、未来のために必要なのは、テクノロジー自体を理解しきることではなくて、そこにあり得るメタファーを導き出していくことだというのはなるほどと思える。というのは、文系的な意見だと批判されるだろうか。しかし、加速の時代に置いて個別論の情報収集ではもう追い付かない可能性が大きくなるわけで、そこの全体感を掴んで動いていくためにメタファーのようなアプローチは可能性があると思う。そう捉えれば、これは叙事詩なのだ。左脳的な情報で右脳的なイメージを作り上げている。
この本はペア読書をしてみたのだけど、あんまり向いている本じゃなかったなあ。詩には詩の読み方があり、それは空間と時間から抜け出ることだ。時間制限のある読書方法とは相性が悪い。詩はその中にいる時間が重要であることは、現代を生きる上で忘れてはいけないことだし、だから僕は時々たまらなく詩が欲しくなる。田村隆一の詩を朝読むと頭が本当にスッキリして一日を過ごせたりする。

■カイエソバージュⅠ 人類最古の哲学(中沢新一)
いきなり引用だが「シュールレアリスムは、「感覚の論理」を徹底させていくと無意識の領域でおこなわれる論理がまるで自動機械のように進行していくとを明らかにしました。神話でもよく似たことがおこります。脳内の論理に加えられる時間的・空間的な制約ができる限り取り除かれていくと、神話に特有な論理が自由に動き出すようになります。そのために、神話を語ったり聞いたりしていると、とてつもない自由にみちた時空に滞在しているようなカンジを持つようになります。神話はこの自由な空間と時間のなかで、人間と宇宙の意味を思考しようとしているのですから、それを哲学の先行者と呼んでも間違いはないでしょう。」
妻が「やし酒飲み」(エイモスチュツオーラ)というアフリカ人作家によって書かれた小説を最近読んでいた。僕は4年ほど前に読んだ本ではあったけど、その何かプリミティブな魅力と共に途中で飽きた感じは記憶にあって、それは妻の感想と大きく異ならなかった。「やし酒飲み」にあるのは、まさにこの「感覚の論理」ではないだろうか。読むこと自体の中に何か不思議な力を感じた(というような感じのことを)妻は言ってたが、まさに制約を取り除かれる感覚を持っていたのかもしれない。物語の、神話の力であろう。これは前述のニューダークエイジの持つ叙事詩的な力とも重なる部分があるだろう。
主にシンデレラ(の様々な派生)を分析した本と聞くと、昔話を無理やりこねくり回すようなイメージがするが、むしろ昔話を潜在的に感じ得る何かに向けて思考を重ねるためのアプローチに僕には感じられた。
「気の遠くなるように深い古代性と波乗りのように浮ついた資本主義の一側面が、シンデレラ物語の中では、なんなくひとつに結び合ってしまっているのです。これはいったいどうしたことでしょう。私たちはまだまだ人間のことがよくわかっていないのかもしれません。」

■現代社会はどこに向かうのか 高原の見晴らしを切り開くこと(見田宗介)
タイトルと、帯の「巨大な視野、最新のデータ、透徹した理論」とぃう言葉に若干警戒しながら読み始めた。このサイズ感のことを扱いながら、新書っていうのは、なんだか胡散臭いものを感じたのだ。
ただ、NEXT GENERATION BANKで若林恵さんが「時代の泰斗が現代において噴出している様々な矛盾を精緻なデータと人類史的な視点で読み解いていく。」と紹介していたのを信じて読み進めた。新書で読める気軽さの中に、データから読み解ける未来への視座がどう反映されているのかが気になっていた。
読み終わっての感想は、本当に読んで良かったなあという感じ。新書だし、みんなに配ってまわりたいくらいだ。この短さでタイトルの持つ射程を捉えるには、かなり恣意的なコントロールがあるのではないかと身構えていたのが、非常に誠実にデータや学問と向かい合っている感じがして、こんなことを言うのは失礼かもしれないが、安心して最後まで読み進めた。むしろ後半は揺れる横須賀線に乗りながら、 ずっと心の中で拍手をしていた。そこにはデータや学問に浸った冷たい断定も、自分のヒエラルキーに偏った恣意的な論調もなく、幅広い情報に対する冷静な対峙と鋭い論考、そして生きる歓びに対する誠実な対峙があった。そう生きる歓びに溢れた本だと思う。
consummatory コンサマトリーという言葉との再会があり、それは自分にとって特別な言葉になった。以前何かの本で見たときには確か、自己充足的な意味で訳されていたのだが、ここでは訳せない言葉として扱われていた。
「consummatryはinstrumental(手段的)の反対語である。手段の反対だから目的かと言うと、それは違う。目的とか手段とかいう関係ではない、ということである。わたしの心は虹を見ると踊るというこの時この虹は何かある未来の目的のために役に立つわけではない。つまり手段としての価値があるわけではない。かといって目的でもない。それは現在において、直接に心が踊るものである。この時虹は、あるいは虹を見るということは、コンサマトリーな価値がある。コンサマトリーという公準は、手段主義という感覚に対地される。新しい世界をつくるための活動は、それ自体心が踊るものでなければならない。楽しいものではなければならない。その活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないものでなければならない。解放のための実践はそれ自体が解放でなければならない。」

それにしても、お金より大切なものがあるかどうかって質問自体がだいぶナンセンスな時代になっているように一面的には見えるのだが、それがナンセンスであると思う理由が人によって真逆だったりするっていう、そういう格差の時代なのかもしれないと思う。#Metoo も文化や尊厳の話が置き去りにされて、結局経済に回収されてしまうような世界であるにしても。
とか↑、年始にメモを書いていたら、例のお金Twitterキャンペーンがあった。マーケティング的合理性な精巧さはさておき、前段に続きなんとなく嫌な感じの年の始まりだなあという感じは拭いにくい。お金にたくさんの人が群がっている絵が可視化されるのって、けっこう気分の良くないものだと僕は思うんだけど、これは清貧的な脳みそなんだろうか。例えばCMで神輿にのった人がお金ばら撒いていて、それに人が群がっていく様子があったら、だいぶ心地悪さを味わうように思う。例えそれがお祭りごとだったとしても。お祭りだからみんなで盛り上がればなんでもありって雰囲気の行先に、僕は今年のハロウィンでの渋谷のトラック横転事件なんかを思い出してしまう。資本主義の最強の商品は「ショウ=見世物」だと言ったのはマルクス・ガブリエル (彼自信が哲学会のロックスターなんて言われていることからもそのことに自覚的だとも思う。ただ彼の指摘した米国大統領の行っているのはショウだという考察は優れてわかりやすいと思う) だが、品のないリアルなショウほど人が群がるし、その賛否がともにそのショウの魅力を支えてしまう。しかし例えば動物園で動物たちが一日数回の決められた食事に群がるのを見るような気持ちで、私たちはお金に群がる人間たちを眺めたいと思えるんだろうか。あるいは自分が宇宙から人間たちを見世物として眺めていたらどうだろう、あるいは自分がなんらかの支配者的な立ち位置だったら、そしてその支配者たるための定義は、、なんてぼんやりいくらでも考えられるし、行き着く先は尊厳とはなんろうか、ということだと思っている。
これはあくまで個人の感想であると同時に、個人的に人間の尊厳についてあらためて考えるという年にするにはちょうど良い出来事だったのかもしれないとか思うことにする。
あと、手を挙げたもの勝ち、祭りに乗らなきゃ損だからやろう、という感じが浸透しそうな感じにも薄気味悪さを感じる。そこにモラルハザードがあれば簡単にモンスタークレーマーみたいな言ったもの勝ちの倫理観のない世界が見えてしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?