2018年8月に本を読んで考えたこと

これを書いているのは、もう9月も10日以上も過ぎた今だ。この今からすると、8月に考えていた事というのは、もうまるで3年も前のことのようになってしまった。このところ時間が長く感じる。若返ったかのような気分だが、これはたぶん家族に乳児がいるせい(おかげ)だ。乳児の急激な変化(成長)は日常の引き伸ばす、のかもしれない。
だいたいいつも、本を読みながらevernoteにメモをとっておき、それをまとめて整理する感じでnoteにアップしている。これは読んだときと書くときに思考が地続きであることが前提で成立する方法だ。しかし、この2018年の8月と9月はどうも思考が地続きしていない。育児休暇からの復帰の影響が大きいのかもしれない。今から、下の各本たちのメモの断片をつなぎ合わせて文書に膨らませていくのだが、どうもチグハグになりそうな予感がする。それとも、何か自分の中で発酵した新しい何かと出会えるのだろうか。
今月は「2018年8月に本を読んで考えたこと」というより、「2018年8月に本を読んで考えたことを元に、9月に考えてみたこと」。

◾21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学(平川克美)
この本を読む前に5冊くらい氏の本を読んだ。もともと「株式会社という病」だけ読んだことがあって、思想とビジネス活動が接続された書き口にとても興奮したのだが、その後の本は(たぶんたしか)読んでいなかった。私に残っていた印象としては、これだけ事業をやって、ベンチャー時代の寵児とか言われていたことと本に書いてあることの間に、いくら本の中で思想とビジネスを接続させる芸当を見せられても、結局ギャップを感じていた。それが魅力でもあったが。でも、それがその後に入り込みきれなかった理由だったかもしれない。
なんとなく彼のTwitterはフォローしていて、カフェをやっているとか知っていたけど、最近の著作を読んで、そうか破産して借金が、とか、介護や手術、ビジネスについてそう考えてその日暮しのコンセプトを立てるようになったのか、とか、そういう一つ一つに何というか納得して、そしてなぜか嬉しかった。変な言い方だが。そういう人はやっぱりそういう人なんだと、勇気をくれたような気もするし、自分との違いについてよく考えさせられた。私はそんなに無防備にあの頃が良かったというような思いはいだけないし、その日暮しというコンセプトとも微妙な不一致感がある。その不一致感はまだ上手く言葉にできない。この感じは、河合隼雄と中沢新一の対談を読んでいたときに、母性像のついて語っていた文脈でも感じたことに近い。世代の違いなのかもしれない。この後紹介する橋本治の「草薙の剣」で、意識や価値観は本当に世代を超えて伝達していかないということをよく感じたから。それにしても、こういう不一致感や違和感を説明したくてまた新しい本を手に取るというのは多分にあるし、その説明の方法として哲学や人文を選びたいという意識があるというのは、9月の今に思ったことだ。
あと「介護をやめたら、一緒にやっていた料理もピタリとやめてしまった。」という話はよく頷けた。私も育休的な時期が落ち着いたら、全く料理をしなくなったし、ただ料理しないだけではなくて、料理を毎日作っていた時の何かエネルギーのようなもの自体を失った感じがはっきりとわかった。他のものに昇華されず、消滅した。うちの妻は大変に料理が上手なんでそのせいかもしれないけど。毎日本当に有難う。

◾草薙の剣(橋本治)
傑作だった。
8月のメモは上の一言5文字しかなかった。かなり色々考えさせられた気がするのだけど、面倒でメモをしなかったのか。
でもこれは本当に今考えても傑作で、今年読んだベスト3には入ると今も思えている。あなたも読んだほうが良い本だ。最近誰かにもおすすめをした気がする。誰が相手かは忘れたけど、どう薦めたかは覚えている。2017年に62歳、52歳、42歳、32歳、22歳、12歳になる6人の日本人とその親や兄弟たちの生活史で、戦後日本の社会風俗生活の中にある人の意識のあり方を追った本だ。変化というより、その都度の状態を毎回整理していると言うか。林檎が腐っていく様子を早回しで動画で観るというよりは、変化する林檎のそのタイミング毎の林檎の手渡される感じというか。前者は普通の教科書のイメージで、後者がこの本で、なんというか輪切りにするような感じだ。特に現代との地続きをイメージしやすい戦後史という分野では、流れではなく輪切りの方が良い。この本こそ戦後日本社会の教科書と言いたくなる。(実際Twitterでそう言ってみていた)
これを読んで強く思ったのは、価値観や意識は伝わないということだ。その時代に生まれた価値観はなかなか簡単に世代を超えていかないようだ。物語の中で、何度も価値観は世代を超えずに分断される。その度に小さな振動があるが、我々はそれをすぐに忘れてしまう。
また、我々は輸入されてきたものを自分たちのものにするのが相変わらず得意であり続けている。昨今の例の女性の立ち位置に関する問題にしても、過ごした歴史の背景を置き去りにして、借りてきた平等の概念の上だけでものを考えてしまっていた自分に驚ける。
(今思い出したけど、メモをしなかったんじゃなくて、ツイートをしたんだった。)

要は美意識や倫理の土台の問題なんだと、最近は特にそう思う。
こんな本は橋本治にしか書けない。彼が生きている間に、これを書いてくれて助かったと思った。(縁起でもないけれど)

そういえば、自分の親父が62歳で自分が32歳と、ちょうどよく年代がはまったことも、読み始めに自分を惹きつけたと思う。
ただし、親父と自分の価値観のずれは、年代だけではない大きな歪があるとは思う。似ているところもあるけど。
北海道のど田舎にいた自分には本とインターネットがあったことが相当大きかった。というのはまた別の話だ。

◾世界の多様性 家族構造と近代性(エマニュエル・トッド)
「イデオロギーシステムとは逆に、人類学システムは自動的に継続する。家族とは定義上、人と価値を再生産するメカニズムである。それぞれの世代は親たちと子供たち、兄と弟、兄(弟)と姉(妹)、姉と妹、夫と妻といった基本的な人間関係を定義する親たちの諸価値を、無意識のうちに深く内在化するのである。この再生産メカニズムの強みは、が意識的な言葉によるいかなる公理化も必要としない点である。このメカニズムは自動的にはたらき、論理以前のところで機能するのである。
イデオロギーの方はら世代から世代へと継承されるためには、実際のところ学校教育型の高度に公理化さへた複雑な知的修得プロセスを介す必要がある。」
家族システムの前提の理解が社会価値の浸透に重要であるということをたった数ページで理解させるのは流石の名著で、これを弱冠32歳で書き上げたというのは本当に恐れ入る。今の自分と同い年かよ。
例えば、フロイトの精神分析はドイツ型の家族システムを前提としていたため、同じシステムを前提とするアメリカで優位に受け取られたが、ロシア、中国、イスラム諸国では上滑りをした。
家族システムだけにすべての責任を負わせるのは肩の荷が重い気もするが、説明としては十分に頷ける部分はある。色々な現象を説明できるタイプの論だ。
また、ちょうど橋本治の「草薙の剣」を読んだあとだったので、社会的イデオロギーの伝播のしなさにも納得のいくところがあった。
これも人に特におすすめしたい本なのだけど、長いから読むのは疲れる。
この後、別の本で同じ家族モデルだった日本とドイツが移民政策によって、大きく道を分けた話も興味深かった。
「日本とは」について、モヤモヤを抱えている人は読むと良いと思う。

◾ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと(奥野克巳)
「狩猟や漁労に出かけたり、用事で出かけたりする時、失敗や不首尾、過失について、プナンは個人に責任を求めたり、「個人的に」反省を強いるようなことをしない。失敗や不首尾は、個人の責任というより、場所や時間、道具ら人材などについての共同体や集団の方向づけの問題として取り扱われることが多い。失敗や不首尾があれば、話し合いの機会を持つが、そこでは、個人の力量や努力などが問題とされるのとはまずない。ましてや個人の責任が追及されるようなことはなく、たいてい、長い話し合いの後に、あまり効果の期待できそうにない今後の方策が立てられるだけである。(かなり中略)発展や向上といった概念がないような社会意識のもとでは、反省は有効に働かないように思われる。」
またいきなり引用だが、一気に引き込まれる話だ。國分功一郎さんの「中動態」やあるいは平川克美さんの論などと同様に、反省、個人責任、成長というものが人類、あるいは生物体に自明的な要素ではないことをつきつけられる。
そう言い切られると、私は世界が暗転するような不安定な気持ちになってしまう。おいおい、大丈夫かよ、そんな考えた方で。しかし、彼らはそれで世代を超えて(ほぼ同じ思想、価値観で)生き続けている。本来なら閉じられたサークルを形成できる所属だ。我々の自己責任は原初的なものでも、生物界の多数派でもなく、農耕やキリスト教文化、活版印刷、産業革命のような、なんらかのターニングポイントで強化されてきたようだ。
反省をしない生き方について考えると、反省をさせないマネージメントということについて考えたくなった。成長のツールとして反省は便利だし、反省がないと失敗から学ぶのは難しい。反省がないと効率化しない。しかし、効率化しなくていいものは無理に反省しなくていいのかもしれないと思ったところで、果たして効率化しなくて良いことなんてあるのか、と頭を抱える。
またプナンの人たちには所有の概念が(我々のように)なく、筆者はよくお金を貸して戻って来なかったり、ものが勝手に使われて帰って来ないという経験をしたという。
最近、洗濯物を干したり、庭で育てたハーブを食べるときに、太陽の恵みは誰のものでもないし、お金に代えられない、だからコントローラブルではないということを考えていた。所有するからコントロールをしたくなるし、逆に言うとコントロールできないエネルギーを所有したいという欲望の行く末として、原子力のような発明があるとも言える。前にも書いたけど、戦後まもなく新聞社が原子力を特集したコピーが「ついに太陽を手に入れた」だ。

もう少し引用。
「死の恐れによって生み出された農業。当の農業は、所有権を生み出したが、他方で、所有を損失することの恐れもまた生み出した。」
「その場にいるすべての人現存在に、すべてのプナンに、自然からの恵みに頼って生き残るチャンスを広げるためではないだろうか。「今」分け与えて、「あと」で、ない時は分けてもらう。」
「徹底的に個の差異を否定する、こうした非個人所有の考えを、ここでは仮に「共有主義」と呼んでおこう。共有主義を突き詰めていけば、精神や感情までも分配されるものとなる。」
1つの環(サークル)として生き残る方法として、彼らの我々のどちらが優れてるなんて果たして言えるんだろうか。
私は疲れた。
上の「1つの」から「疲れた。」までは、8月のメモなのだけど、どういう気持ちで書いたのかが、全然わからない。覚えていない。
ただ、たぶん、プナンの人の生き方が良いという言説にも違和感があるし、今の資本主義世界が良いとも思えず、中間点を考えなくてはならないのだが、そこを支える美意識の落としどころを考えると、確かに疲れるなあと思った。そういうことだろうか。

結局、上をチンタラ整理して9月も残り2週間を切った今。

どうでもいいけどワリと最近気になっていることを最後に。
マイルスとビートルズって、余りに交わりがなさすぎないだろうか。60年代ってどうかしてると思うけど、例えば2060年代には10年代ってどうかしてると思うのかもしれない。50年も経つとわけがわからないよね、そりゃそうだ。いくらインターネットが断片をアーカイブしててもきっとそうだ。

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