2018年3-5月に本を読んで考えたこと

3月は仕事の本ばっか読んでた。いや、そもそも疲れてすり減っていたので、本を読む頻度自体少なくなっていたと思う。
4月後半から急に読書の波が戻ってきた。きっかけは忘れた。きっかけなんかは、ないのかもしれない。
あと、なんだか急に橋本治が読みたくなって、直近の本を5冊続けて読んだ。これもきっかけはわからない。昔に比べて切れ味が減ってる?と気になって、ついでに昔の本も読んだ。一貫して、勉強すると楽しい、(けれど)世界は頭の外にある、という話をしていた。
哲学については次のとっかかりを探しながらパラパラと何冊か読んだり読むのを止めたりした。仏教をもう少し深掘りしつつ、最新の哲学のことをもっと線で知る必要があると思った。同時にそれに関連している他の思想の潮流。人新世とか。あるいは、アジアやプリミティブな世界を中心にした文化人類学。

さて、下記、読んだ本ですが、順番はバラバラです。

知性の顚覆(橋本治)
何冊か読んだ最近の橋本治の中で一番おもしろかった。
「不良は臆病だから一人になりたくなくてみんなと同じ格好をする」のではなく「社会から逸脱した人間は逸脱した社会とは別のところに自分たちの社会を作りたくて、その構成員であることがわかりやすい外見を作る」
「世の中には面倒なことを考えさせられると、それだけで腹が立ってしまう人達は多い」
という部分に線を引いていた。

クリティカルブラウジングということをメモして、なんども丸を書いていたのだが、何を意図してのことだか忘れた。

なぜ世界は存在しないのか(マルクス・ガブリエル)
話題の一冊であり、今やトレンドの思弁的実在論を抑える上でも欠かせない一冊。やっと読んだ。ただ、特別ものすごい新しい切り口というわけではないように思えた。読みやすい部分と非常に読み難い部分が混ざっていて、ちゃんと読もうとしたからやたらと時間がかかってしまった。
ありふれた流れではあるのだけど、それぞれの立脚点があるということ、それぞれに違った視点があるということ、存在が無数に存在するといことが、最後に多様性を認めるコンテクストにつながってく流れは、彼の人間性も(勝手に)感じてしまって、感動的に思えた。

自分の中の、河合隼雄の中空構造から前代の哲学的課題につながる思考は、いったんインプットを終えて、もう一度整えながら考えようと思えた。(※そうメモしてあった ※中動態のことや誤配のことも。)

逗子に越したのも、無意識に届くもの、自然に対する思いがあってのことだろう。近代合理的人工物から離れることで見えるものはある。いずれにしても、バランスではある。しかしバランスという言葉の中で語ると幅があり過ぎる。自分なりの均衡点と他者との持続的な関係性の中で、どう自分が存在出来るか。とか言うとペラペラで胡散臭いと自分でも思う。
それにしてもこれがベストセラーになるってすごいな。

四方対象: オブジェクト指向存在論入門 (グレアム ハーマン)
有機的なモノとモノとの哲学を西洋的に整理をしていこうという取り組みの流れなのかな、と思った。
でも、これは明治時代に西洋の思想を学んだ日本人たちがやったことに凄い近いんじゃないか、という思いをあらためて強くするに至れた。
ただ、正直この本読んだ頃はとても消耗していて、多分頭にあまり物事が入ってこなかったとも思う。

絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか(更科 功)
世界の見方を穏やかに変えてくれるタイプの本で、リハビリにぴったり。人類は森を追い出されたものの末裔というのはなるほどと思えた。果物→肉→穀物 という食物の変化も、俯瞰して一連の流れに接続して考えるとあたらめてイメージがしやすかった。

ネアンデルタール人の方がヒトよりも脳が大きかったという話題には、非常に興味をそそられた。言語なくモノゴトを記憶し、言語なくコミュニケーションしていた?なるほど、それはとても脳のCPU効率がとても悪い。(余談だけど、僕は紙とペンがないと論理だって話するのがとても苦手だ。閑話休題)でも、同時にもしかしてクリエイティブだったりしなかったのかなあ。
我々ヒトも昔の方が脳が大きかった。文字などの便利なツールで、脳を補佐できるようになったからなんだろう。アインシュタインの脳は平均より小さかったとか。結局、手段としての言語が非常に便利で、その萌芽が生まれた瞬間に脳を節約できるようになったんだろう。これはニワトリタマゴの議論かもしれないが。

それにしても、何か僕らは悲惨な人類史が隠されていると妄想しがちだ。僕らはネアンデルタール人を家畜や奴隷にしてたんじゃないかとか思ったけど、そういうのはないみたいな論考だった。
人は本当に平和な遺伝子を持っていたようだ。戦争が始まったのも約1万年前の農耕の開始後だと言う。もしかして、脳みそが小さくなったからじゃないか。いや違うか、猿たちにも戦争はあるし。
ネアンデルタール人がなぜ絶滅したかについては、単に我々の方が適応力があり、子どもをたくさん作っただけなんじゃないか、と筆者は締める。野生生物の絶滅も、密猟よりも圧倒的に人間に生息域を奪われたケースが多いからというのがその理由の一つで、確かにと思わされる。僕たちはわかりやすい物語が好きすぎる。

近代日本一五〇年―科学技術総力戦体制の破綻(山本義隆)
情報が濃密で、めちゃくちゃ面白かった。新書とは思えない。図書館で借りたけど、買おうと思えた。
恥ずかしながら、山本義隆さんのことを全然知らなかったのですが、正しく怒れる面白い人だと思った。元東大全共闘代表による日本社会への怒り。科学を中心とした学者たち、官僚や民間企業への怒り。
本は明治維新から始まり、科学技術幻想と資本主義のあぜ道についてまとめられていたのだけれど、本当に多様な知識と思想が盛り込まれていて、本筋と関係なく楽しめる部分も多かった。
日本がどうして近代化に成功したのかは、ちょうど今年は明治維新150年記念でいろいろな本が出ている。エネルギー(電力化)へそれ以前のガス技術などが未発達な分一気に乗り換えた(今のテックに対するアフリカみたいに)ことと、国家の強力な指導と進取的な経営者、民衆の識字率の高さ、士族の子息に向けた教育制度の形成、農村労働力の収奪と破壊 など。科学を推し進めたのは軍需という断定の切れ味も鋭い。
「日本近代化の悲劇は軍国主義の進展という社会条件のもとでしか始まらなかったという点(広重徹 1962)」
戦時に向けて、科学で資源不足をどうにかできると、哲学者までが明確に語っていたことをいくつかの史実から知る。
これは何か今の世の中の状況にもやはり似ているようにも思える。劣等感からなる劣亜から蔑亜への日本人のメンタリティ。

google社員の軍事研究への参加反対活動を他人事のように見てられる立場ではないはないなあと、ニュースを見ながら思っていた。

人工知能のための哲学塾(三宅陽一郎)
見立てや、文脈は面白いのに、構成のせいなのか、僕にはどうにも話があっちこっち行ってる感じがして読みにくかった。講義を本に落としたからか。サイエンス、テクノロジーの領域の人が読むとわかりやすくなってるんだろうか。
言語論的転回や、思弁的実在論を含む近年の哲学をどう捉えられるのかも気になった。デカルトから途中にユクスキュルも挟んだ流れもそれは貴方の理解の仕方ではないか、と思った。
ただ、これは下の「東洋哲学篇」を読んで、一気に腑に落ちたというか、そういう書き方しかしようがないということだとわかった。続く。

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇(三宅陽一郎)
ということで、西洋哲学篇を読んでどうかと思ってた部分が正直あったのだけど、東洋哲学篇は読んでいくうちに、これめちゃくちゃ良いんじゃないかと思えたし、これを読んで西洋篇哲学をもう1回読み返そうとも思えた。
違う学問の関連を考えて、繋げるためには、どうしてもオリジナルのマップが必要で、彼はそれを提供しているのだ。だから哲学に拙い軸足を起き続けるとわかりにくい。だからそのマップの整理のために一番わかりやすい手順でものを説明している。そして哲学をわかるということを考えると、違う哲学同士、あるいは哲学と自分の領域を接続して考えることこそが哲学わかるということの重要な手段だと思うので、これは哲学視点でも非常に正しいことをやっていると感じる。あんな風に(↑)思って申し訳ありません、というか、恥ずかしいと思った。これは大事な新しいチャレンジなのだ。
そうやって、彼が頭の中で描いているモノゴトとモノゴトのオリジナルなマップを提供してくれているのだと思えたら、俄然面白くなる。哲学と人工知能を学ぶというより、新しい学問に接続しようとする試みのようにも思える。

「生物の内面には逃れ得ない虚無が存在している、ということです。それを存在のゼロポイントと呼んでもいいですし、内奥、コア、極と呼んでもイてしょう。(中略)生物の精神は、あらゆるものの内側に入り込む虚無の中心から無限の世界へ向けられた、たくさんの志向性によって張られる空間と言えます。(中略)あらゆる方向に対して張られる志向性の矢は、内面にある対象、外面にある対象を問わず、生物の内奥から世界の対象へ向かって張られます。(中略)つまり、知能は二つの果て、精神の中心にある虚無と、無限の世界の間に掛けられた志向性の矢の集合の基盤の上に立つ存在です。(中略)知能が世界を認識するというより、そもそもの対象と自己の内奥を結ぶ志向性の矢の上に知能が成立しているために、最初から、知能は対象との関係を持った存在として生成くるということになります。世界と自己との関係性が知能だと、とらえるのです。(中略)我々が官女と呼ぶ対象への思いこそが、関係性なのです。その関係性が何であれ、生物は対象に対して志向性を持ち、志向性の対象によって自己の世界を組み上げていきます。」
というこの長い引用のとおり、哲学に対して、彼の志向性自体をどう語り得るかという試みなのだろう。
ちなみにこの後、
「しかし、ここで一つ大切なことがあります。縁起的な考えでは、志向性の矢とは逆の、世界の側から知能への影響を考慮しなければなりません。(中略)経験は世界と自己が溶け合った場であり、そこから自己と対象を見つけ出します。(中略)志向性の矢という軸、そして対象、行動は一つの場を作ります」と続く。

また読み返す。

あと、他の読んだ本、読みかけの本含めて、最近関係性と自律性と相互補完性の話ばかりな気がするのだけれど、これは僕の志向性というより、世風の志向性なんじゃないかと思う、この感覚自体が一つの志向性でもある。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?