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超短編小説「黒い点」


こんな自分でも良かったのだろうか。私にはわからない。わかったとしても、それが正しいのかは、誰にもわからない。

窓から見える景色は、あまり良くなかった。くすんだ灰色の壁を備えている雑居ビルが並んでいるだけで、空も見えなければ、地上も見えない。閉塞的な眺めだ。

私は目線を黒板に戻した。眼鏡をかけた若い男が軽快な口ぶりで何かを説明している。何を話しているかに興味が湧くはずはなかった。その男は口をぱくぱく動かしながら、私の方に目をやって、口の動きを止めた。そうかと思うと、また口をぱくぱく動かし始めたから、私は笑いながら男の顔を眺めていた。

すると、男の顔に何かが乗り移った。男は何か真面目そうな顔つきになり、早足で私の席の方へ向かってきた。相変わらず男の動きを目で追っていると、男は私の目の前で立ち止まり、私の耳からイヤホンを取った。

「講義を聞く気が無いなら、出て行って下さい。」

私は、机を見つめながら、すみませんでした、と小声で言い、荷物をまとめ始めた。書類をクリアファイルに入れ、その上に筆箱を置き、カバンの中にしまった。カバンを持って立ち上がり、ドアを目で探した。ドアに目の焦点を合わせていながら、その手前にあるたくさんの視線に気付かないわけにはいかなかった。男はため息をつきながら、黒板の方に向かって歩いて行った。私は自分に向けられた無数の視線をぼやかしたままにしながら、ドアへと歩いて行った。

廊下に出てしばらく歩いていると、後ろで足音が聞こえた。振り返ると、小林がいた。
小林は体育会の部活に所属していて、こんがり焼けた皮膚と適度な量の筋肉を身にまとっていた。私よりも身長が高く、存在感がある奴だった。小林とは高校の時からの仲で、定期的に一緒にスポーツをして遊んでいた。学校の成績も良く、定期試験では、毎回、学年でトップクラスの点数を取っていた。眩しいくらいの男だったが、フレンドリーな奴で、隣の席になってすぐに仲良くなった。たまたま同じ大学に進学することになり、喜びのあまり、一晩中電話をしていたのも記憶に新しい。

「おまえ、最近、変じゃない?」

小林は大袈裟なほど真剣な表情をわざとらしく顔に貼り付け、口から太い音を発していた。ふざけているような顔だったので、私は思わず笑ってしまった。その後、思い出したように、私は顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうな子供のような表情を作りながら、まあ、いろいろあるんだよ、と言った。
小林は、何だよその顔、と笑いながら、辛いことあったら相談してくれよ、何でも聞くから、と言って、眉をしかめた。頼もしい、将軍のような表情だった。私は、ありがとう、今度飯行こう、その時にいろいろ話す、と言って、その場を去った。

しばらく歩いていくと、学校の前にある噴水に辿り着いた。太陽が全てを照らしていて、果てしなく青い空がこの世界を包み込み、それに応えようと爽やかな水を噴き出しているように見えた。近づいてみると、蒸し暑い空気が流れる中で、その噴水の周りだけ、涼しい風が吹いていた。

私はカバンの中にある教材を、一つずつ、噴水の中に投げ入れていった。教材は、クルクルと回転しながら、音を立てて着水して、水の底に沈んでいく。教材が着水する時の音は、なんとも言えない心地良いものだった。その音を楽しみながら、カバンが空っぽになるまで、教材を投げ続けた。

全ての教材を投げ終えた私は、軽くなったカバンを持ちながら、満足した気持ちで歩き始めた。頭の中で音楽が流れ出したから、私は大声で歌い出した。小学校の頃、音楽の授業で習った曲。なぜ今になって思い浮かんだのかわからないが、歌い出さずにはいられなかった。道行く人は、誰も私の方を見ていなかった。まるで、私がこの世に存在しないかのように。私はにわかに歌うのをやめて、空を見上げた。

よく晴れた日の昼下がりだった。澄んだ空気が世界を満たしていて、何のためらいもなく、雲ひとつない、快晴だと表現できるほど、晴れやかな空だった。ここまで晴れ渡っているのも珍しいと感心していると、不意に、私の視線が何かを捉えた。

突き抜ける青空に浮かぶ、一つの黒い点。
一匹のカラスだった。ただそれだけのはずなのに、それは妙に目立っていた。カラスは、鳴き声をあげることもせず、仲間と群れることもなく、ただ、孤独に飛んでいるように見えた。私はなぜか、そのカラスが気になり、道の真ん中に立ち止まりながら空を見上げていた。カラスはしばらく同じ場所を旋回していたが、やがて進行方向を定めて、視界の外へ消えていった。

小林が自殺したという知らせが届いたのは、次の日の朝だった。昨晩、駅のホームから電車に飛び込んだらしい。友人たちの連絡網で、一斉にその知らせは流れていた。小林と仲が良かった人たちは、言葉を失っている様子だった。私は、スマホの画面がぼやけてよく見えなくなった。どうしてもピントが合わなかった。そこには、ぼんやりとした光が映っているだけだった。

私はしばらくの間、何かを考えることができなかった。頭の中から全てのものが消えてしまったような感覚だった。白い空間が私を包み、拘束していた。身体にかかる重力が増していき、身動きが取れなくなった。自分の心臓の音が、世界に鳴り響いていた。

頭が重くなり、私はゆるやかに前のめりに倒れ込んでいった。頭が磁石のように地面に張り付いて、もう二度と剥がれないような気がした。学校の授業に間に合う電車の時間はとっくに過ぎているようだったが、そんなことはどうでも良かった。私は、祈るような体勢でじっとしながら、真っ暗な世界に浮かぶ小林の顔を、いつまでも、見つめ続けていた。