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【小説】帰った夜に

 実家に帰った夏の夜、眠れない原因は幾つかあった。蒸し暑い部屋、蚊の羽音、慣れない枕、父の入院、母との喧嘩―――

「私が悪いってこと?」
「違うよ。だけど家の中に隠しておけば探し出すだろ。病気だから。アル中ってそういうこと」
「じゃあ家になければ、次は泥棒ね。いよいよこの家族も終わりよ」
「だから、そうならないように皆で協力しないと駄目だろ」
「たまに帰ってきて何よ。お母さんはね、毎日毎日・・・」
 何か言いかかって泣き出した母。そして釣られるように妹も。

 頼りにならない二人の顔が、暗がりの中で脳裏にちらつき、ますます眠気は遠ざかった。挑発的な蚊が幾度目か、ぷーんと耳元を通過した。
 仮に、痒みという置き土産を残さずに、気持ちよく血を抜いてくれるのなら、進んで血を捧げる人も現れるであろう。だが、現状は献血に協力的な人ですら、静かな殺意を抱く。

「お父さん死んじゃうのかな」
 また妹の顔が思い浮かんだ。幼子のような怯えた言動は、時折腹が立つ。大丈夫かな、どうしてこうなったのかな・・・
 十八にもなって、今日もそんなことばかり言っていた。僕は正直、死んでくれてもいいと思っていたが、たかがアル中、当然そう簡単に死ぬわけがない。

 蚊も同様であり、電気を付けた途端どこかに隠れた。威勢よく飛び回っていたのが嘘のように。じっと羽を止め、こちらの様子を伺っているのであろう。部屋の中に殺虫スプレーの類が見当たらなかった。
 台所で水を飲んだあと、一階のあちこちを探してみたが、昔ながらの蚊取り線香しか見付けられなかった。母と妹が寝ている二階は静まり返っていた。父はこうして物音を立てないように酒を探していたと思うと、つくづく哀れになり、かつての威厳ある姿が恋しくなった。

 怖い存在でしなかったあの頃。地震雷火事親父の、まさに昭和の男であった。酒と煙草を愛し、仕事も遊びも一流を極め、そして博識であった。家にいる時は読書をしていた印象しかない。気安く話しかけてはならなかった。敬語を使わなければならなかった。恐らく男女の差によって、妹は可愛がられていたが、僕は一切放っておかれた。小学五年の頃「今何歳だ?」と父に訊かれたことを今でも覚えている。

 久しぶりに父の書斎に入ってみた。電気を付けると、重厚感のある両袖机を始めとして、洋風の調度品に変わりはなかった。だが、かつての散らかった有り様ではなく、棚に収まりきらない本は半透明のプラスチックケースに入れられ、整然と片付けられていた。
 何でも知っているような、そして全てを見透かしているような父を象徴する部屋―――

 父の不在時に、僕はよく侵入して本を抜き取った。勝手に持ち出して父が気付くか試した。十代前半のことで、緊張感と高揚感が堪らなかった。今思うと、暗がりで飛び回る蚊のように、隠れたところでは調子に乗っていた。一度も怒られたり尋ねられたりしたことはないが、実は気付かれているのではないかと常に思っていた。持ち出しては戻す、密かな攻撃を繰り返すばかりで、父への恐れは一向に解消されなかった。
 持ち出しに興味を失ったのは、父にこの部屋に呼び出され、「いつかこの本はお前にやる」と言い渡された時である。この本とは、この部屋にある全てを指していた。加えて、倉庫に閉まってある分も大量に含まれていた。合計ざっと二千冊。その殆どは父の父、即ち僕の祖父から受け継いだものと聞いた。いつか自分のものになると知った途端、持ち出しは父への攻撃にならないと感じた。
 
 そんな思い出に浸りながら本棚を隅々まで見ていると、最下段に追いやられた古典文学の類に、シャーロック・ホームズシリーズの翻訳小説が紛れていた。背表紙に触れ、懐かしく思った。持ち出した本の中で、まともに読んだのはこの数冊だけである。当時も気付いていたが、やはり“シャーロック・ホームズの冒険”がない。五冊あるシリーズ短編集のうち、最も有名なそれが抜け落ちている。
 どこかで失くした理由・・・何かドラマがあるのかもしれない。
 初恋の人に貸したまま返ってこないなど、勝手なことを想像した。そして“シャーロック・ホームズの思い出”を手に取り、ぱらぱらと捲った。ふと窓の外を見て、夜涼みにその一冊を持ち出すことにした。

 財布も電話も持たずに家を出た。星空が美しい夜で、通り過ぎる風は秋の気配を運んでいた。なんとなく近所の小さな公園に向かっていると、茶色いスーツ姿で歩く年配の男性を見かけた。一旦遠ざかったが、思い直して呼び止めた。真剣な顔付きで、「これから取引先に行くところです」と答えたため、公園とは逆方向に、お伴をするふりをして交番まで誘導した。その間、心配になったのは父のことである。
 きちんと病院で大人しくしているのか・・・
 男性を無事に送り届けたあと、かつて父の実家があった場所に足を向けた。今住む家から徒歩十分の距離。父方の祖先が大地主であったこの辺りには、同じ苗字の遠い親戚の家が幾つもある。

 自身のルーツを辿るように遠回りをして帰っていると、空から雨粒が落ちてきた。朝方見た天気予報に反して、いつの間にか星々は厚い雲に覆われていた。それでも大したことはないと思った矢先、どっと雨脚が強まった。
 これはまずい!
 とりあえず走るしかなかった。本を濡らさないようにシャツの下で抱え込んだ。顔を伏せて走りながらも雨宿りができる場所を探して、見覚えのない小路を抜けた。ちょうどよい軒下に逃げ込んだ。すると、雨音をすり抜けて降りかかった声―――
「おお、大丈夫かい?」
 向かいの家の二階から、五十過ぎと思しき恰幅のよい男性がこちらを見下ろしていた。窓辺で煙草を吹かしていたようで、振る舞いが、そして眉の太い顔立ちも、毅然としていた頃の父に似ていた。そう思うと同時に、その場所がどこか気付いた。
 小路に逸れてなぜ・・・
 何もない更地のはずだが、大きな家がどんと建っている。しかも古めかしい造りの瓦屋根。最近建てたとは到底思えない。部屋の電気は照度が低く、やや赤みを帯びた光である。
「上がってくるといい。そこでは辛いだろう」
 男性は家に招き入れようとした。信じがたいことだが、僕はタイムスリップしたのかもしれない。夜の闇が薄くなり、この白い雨は夕立に見えた。時間はどれほど巻き戻ったのか。男性は祖父か曾祖父か、はたまた別の祖先か。祖父だとしても、僕が生まれる前に亡くなったため面識がなかった。

「おーい、遠慮はいらんぞー」
 ほどなくして、玄関の引き戸が開いた。僕がそれに応じて駆け込むと、白いタオルを貸してくれた。
「すみません。これを持っていてください」
 持っていた本を一旦預け、手早く頭を拭いた。
「ゆっくりしていきなさい。今日は妻が実家に帰っていてね、一人なんだよ」
 顔を上げた僕は、玄関の中で立ちすくんだ。まさに昭和レトロの陰影である。返された本を受け取るまでに幾許かの間があった。
「何か珍しいかい?」
「いや・・・」
 言葉が続かなかった。まさか未来から迷い込んだとは言えなかった。

 通された畳と障子の部屋には、立派な桐箪笥があった。倉庫に眠っているあれに違いないと思った。柱の振り子時計は、六時十分を指し示していた。
「最近、若者を真似て珈琲というものを飲み始めてね。君はどうだい? それともお茶、紅茶もあるぞ」
「お言葉に甘えて、珈琲をいただきます」
「よし。では少し待っていなさい」

 戻ってきた男性は、高級そうな暗緑色のカップで珈琲を出してくれた。お茶菓子は醤油煎餅。斬新な組み合わせである。珈琲はどこか淹れ方を間違えているせいか、口の中にごそごそと豆らしきものが残った。
「君はシャーロック・ホームズを読むんだね」
 男性は僕の脇に置かれた本を見た。
「中学生の頃に読んだので、手に取ったのは久しぶりです」
「ほう。うちの息子と同じだな。思春期に読んでいたよ。私の目を盗んでね」
 僕はどきっとして、どういうことか尋ねた。
「貸してほしいと言いづらいのか、私の部屋に忍び込んで本を勝手に持っていくんだ」
「へえ・・・けしからん息子さんですね」
「しかしね、私にも非があるんだよ。息子とは上手く会話ができない」
「なぜですか?」
 男性は腕組みをして唸った。僕は手に汗を握り答えを待った。
「なぜか分からないんだ。娘とは普通に話せるんだが、息子にはそっけない態度を取ってしまう。君は親父さんと仲がいいか?」
「よくないですね。父は僕に興味がないんです」
 男性は悲しそうに視線を落とした。僕はその姿をじっと見つめた。
「恐らく私も、息子にそう思われているだろう。叱ることでしか話しかけられず、褒めることができない。娘と違って照れくさいのかな。いい年して。情けないね。息子はもう大学生なんだが」
「もしかして京都に行っていますか?」
「おお? なぜ分かったんだ?」
「なんとなくです。僕の父が京都だったので」
 これ以上何か語ると、未来が変わってしまう気がした。
「君の家族とは共通点が多そうだね。こうして見ず知らずの君とは話ができるのに、息子に対しては空回りするばかりだ。・・・ひとつ、君の親父さんの気持ちを代弁するならば、君を大切に思っている。このことをまず伝えたい」
 僕がふーっと吐いた息は、小さく震えた。
「そういえば、シャーロック・ホームズの小説は、最初私が買ったものではなかったんだ。知人に借りた一冊で、それを持っていかれたから困っちゃってね。叱り付けようかと思ったが、知人に新しい本を返した上で、シリーズ全てを買い揃えたんだよ」
「息子さんのために?」
「私は大学時代に英文学を専攻していたからね。嬉しかったんだよ」
 父の書斎にも、新しい本が買い足されていることがあった。今夜は見当たらなかったが、凡そ父が読むとは思えない考古学などの入門書もあった気がする。
「シャーロック・ホームズで読んだことのないものはあるかい? あれば持ち帰って構わない」
「返すのは随分先になると思います」
「なぜか君は、ただの他人とは思えない。だからいいんだよ。足りない本に気付くたび、私は君を思い出す。そして、息子ときちんと話せる気がする」
「話してください。息子さんは僕と同じで誤解しているだけです。僕は明日、父は今入院しているんですが、話にいきます。話題はシャーロック・ホームズ」
「いいね。私も息子に電話をしよう」
 僕は男性と、いや素敵な祖父と、思いを共有して笑い合った。

 雨がやんだ頃、僕は“シャーロック・ホームズの冒険”を借りて祖父と別れた。濃藍色の空に満月が浮かび、星々が流れていた。未来にいざなう追い風が吹いた。月明かりが小路にうっすらと虹を描き、僕はその橋を渡った。手には二冊の本。振り返ると―――

「おかしいな。妻が持っていったのか」
 運命的に同じ本が遭遇することはなく、“シャーロック・ホームズの思い出”は祖父の家になかった。

 渡った虹が小路とともに消えたあと、見上げた空も時を超え、月は半分ほど欠けていた。

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