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【小説】棘のある女にマティーニを

 欲望の沼は恐ろしいもので、そこに足を踏み入れて堕落すると、僕自身がそうであるように、二度と真人間には戻れない。

 その女も、同類の雰囲気を漂わせていた。黒髪をショートボブに切りそろえ、グレーのパンツスーツを上品に着こなしていたが、どことなく不幸せそうな美人で、かつての素行不良を思わせる棘々しさが顔つきと仕草に残っていた。
 一人で店に入って来た彼女は、カウンターの端の席に足を組んで座った。
「何かカクテルを頂戴」
 酒は強いか尋ねたところ、「どうかしらね」と薄笑いを浮かべた。
「では、あなたにお似合いのショートカクテルを」
 用意したのは、白く透き通ったマティーニである。ジンとドライ・ベルモットを混ぜ合わせたそれは、ハーブの蠱惑的な香りを放ち、見た目に反して辛口の強い酒である。
「あら凄い。ちょうどこんなお酒を呑みたかったの」

 気を良くした彼女は・・・
 春の夜、終電間際まで店にいた。かなり呑んでも酔いつぶれなかった。

 やがて、彼女は馴染み客になった。仕事帰りに毎度一人でやって来て、最初の一杯はお任せと決まっていた。
 或る時、不意にアズミと自称した。
 時折、僕を困らせるようなことを訊いた。

「マスター、私は本当に美しいの?」
「それはもう、お美しいです」
「どれくらい美しいの?」
「そうですね・・・この辺りではお目にかかれないくらいです」
 嘘ではない。負けず嫌いを示すように、体形も均整に保たれている。
「じゃあなぜ、誰にも声をかけられないの?」
 目を合わせると、榛色はしばみいろの瞳の奥が炯々と輝いた。不安など微塵もなく、たった一つの答えを期待しているに違いなかった。
「美しすぎて、男は尻込みするのでしょう」
 だが、生まれ持った美しさが主な原因ではないと思った。いやに尖ったところがなければ、或いはそれが上手に隠れていれば、この店のような出会いの場において、誰かしらが必ずアプローチをかけてくる。
「実は私、自分の顔を忘れちゃったの」
「鏡をお持ちではないのですか?」
 彫の深い端整な顔はふっと笑い、「つまらない冗談ね」とケチを付けた。
「僕も少々、目元が本来の顔とは違います」
「男もそういう時代ね」
「たかが外見ですが、それが大きく物を言う世の中です」
「だからね、私は悪くないの」
 そして、アズミは自己弁護のような身の丈話を始めた。言う必要のない僕に、言うことで楽になるのなら・・・
 本当か嘘か分からないが、僕は出来る限り聞き上手に、あまねく受け入れる役割がある。

 話によると、アズミには双子の弟がいる。物心が付く前から弟は絶世の美男子であったため、男女逆であれば良かったなどと、周囲の大人は折に触れて心ないことを言い放ち、母は弟を特別に可愛がったそうだ。
「私の方が勉強やスポーツは遥かに出来て、聞き分けも良かったの。でもね、知っての通り、それは何の価値もないの」

 そして、思春期に大きな失恋を経験したそうだ。
「私の好きだった人は、糞みたいな女と付き合った。本当に糞なの。見た目以外」
 失意の中で、なぜその男を好きになったのか突き詰めた時、自分も少なからず外見で選んだことに気づいたそうだ。
「教育の成果ね。環境が私の思考を作ったの。もちろん私だけじゃないから、写真に残る顔は加工されたものばかり。当時からリアルに撮った写真は一枚もないの。見た目こそ至上という考えは、この時代の呪いのようなものね。コロナウイルスが流行った時もそう。終息しても、ほとんどの人がマスクを外さなかったでしょ?」
 その本当の理由は、素顔を見られたくないからだと主張した。

 十八で上京した後、何をして稼いだのか語らなかったが、若いうちに幾度か美容整形手術を施して、大金をつぎ込んだことをほのめかした。
「もう生まれ育った家はなくて、両親も弟もどこで暮らしているか、生きているかも分からないの。昔の写真はどこにもないから、元の顔を思い出す手がかりはないけど、今思えばそんなにブスじゃなかったな。きっとね。そう思わない?」

 その夜、僕は手術前の顔写真をアズミに見せた。
「昔もハンサムだったのね」
 さらりと言ったその一言は、素直でまどやかな優しさがあった。

 恐らくは、アズミの素顔には棘がない。環境に翻弄され、作られた美しさを武装するうちに、本来の魅力は影を潜め、滲み出る内面も変わっていったのであろう。
 最初は自信に。やがて慢心に。妄信する美しさは、必ずしも幸せをもたらさない。華美な生活も同様である。
 それに気づき始めた彼女は、荒稼ぎしていた何かから足を洗い、平凡を志したようだが・・・
 やはり、まだ酔いしれている。完成した芸術的な顔に。

 秋の或る夜、アズミに見惚れる若い男がやって来た。初々しいスーツ姿のなよっとした彼は、店に入った途端に立ち止まり、口を情けなく半開きにして、カウンター席に座る横顔をじっと見た。
 ちくりと見たアズミは、いつも通りそっけない態度を取ったが、口角が満足げに上向いた。手元のカクテルグラスでは、飲みかけのマティーニが揺れていた。
「お好きな席をどうぞ」
 アズミの隣は空いていたが、若い男は離れたカウンター席を無難かつ弱気に選んだ。
 間に座っていたもう一人の客は、しばらくすると席を立った。
「注文をお願いします」
 僕を呼んだ若い男は、目元の長い前髪に手をやり、小声で勇敢なことを口にした。
「ジャックローズを二つ。自分と、あちらの女性に」
 揉め事を避けるために大抵はやんわり断るが、彼は見かけによらずカクテルに詳しいのではないかと思った。ジャックローズのカクテル言葉は、恐れを知らない元気な冒険者である。
 意気に感じて、薔薇色ばらいろのそれを二つ用意した。
「あちらのお客様からです」
 アズミがちくりと見た先で、冒険者はぺこりと頭を下げた。だが、その顔は急にへらっとして、恐れを知らないというより彼女を知っていた。
「何かっこつけてんのよ」
 わざと無視していたアズミは、漸く笑った。

 顔見知りの二人に僕が騙されていたが、男は間違いなくアズミに気があった。偶然入ったこの店で、惚れた女に出くわした喜びと緊張は、顔つきに良く表れていた。
 一方で、アズミは全く興味がないように見えた。受け答えが年下に対するそれで、大袈裟に言えば男の子として扱っていた。どうやら顔見知り程度の関係でしかなかったが。
 実際の年齢は、五つほどしか離れていないであろう。顔から読み取れないアズミの実年齢は、これまでの話から凡そ知り得ていた。
 つまり、鼻から恋愛対象外にするほど年下ではない。僕の偏見かもしれないが、彼女は第一印象で人を選別するような悪癖がある。外見のみならず、自分に合う性格かどうかも最初の直感を重視している。
 誰にも声をかけられない――という嘆きは、嘘というより傲慢であろう。尻込みする男ばかりではない。彼らは何気ない素振りで声をかけてくるはずだ。

 アズミ以外の客からも、いい出会いがないなどと度々聞くが、夢のような高望みに値するほどのいい男、或いは女が、この辺りの店で積極的にアプローチをかけてきたとしたら、いい出会いどころか悪い出会いを疑わなければならない。高望みは不幸を呼ぶ。
 自然に巡り会った物事が、自分に相応しい運命である。恋愛に限ったことではない。平凡な幸せを手に入れる唯一の方法は、謙虚になることであろう。
 だが、それは格段に難しい。僕を含む一度堕ちた人間には。

 あの若い男は、聞いたところ真っ当な人生を歩んでいた。馴染み客になり、マサキと名乗った。もとより一人で呑む習慣があるようだが、この店に来る真の目的は訊くまでもなかった。いじれったいほど純情な青年で、呑み方にも品があった。
「またいるじゃない。寂しい男ね」
 鉢合わせると、アズミは辛辣なことを言ったり、からかったりした。マサキは少し顔を赤らめ、それを嬉しそうに受け入れた。
 毎度、一時間ほどであった。アズミが先に立つまでの間、僕を交えつつ和やかに過ごした。

 冬の或る夜、アズミはその関係を終わらせるようなことを不意に言いだした。「マサキくん」と珍しく名前を呼んで・・・
「私はどれくらい美しいの?」
 僕の時と同様に、告白は容易いのかもしれない。挑発的に笑う彼女にとって恐らくは、無関心なほど恋愛対象ではないのだから。
 マサキは続く話――受け入れがたいであろう真実を、深刻な顔で聞いていた。失恋を糧に成長してほしいと思った。
「正直に言いますね」
 マサキがそう切り出すと、アズミの顔が僅かに強ばった。
「元の容姿と違うことは、分かっていましたよ」
 僕は意表を突かれ、思わず口を挟みそうになった。
「あら、鋭いのね」
「自分は手術にも賛成派です。最近は隠さない人も増えていますね。公表してでも美しくなった方が得をするんです」
「悲しいことね。世の中が悪いのよ」
「色んな仕事をAIがやるようになりました。人がやることは仕事そのもので評価されなくなってきています。AIでも出来ることを人がやる付加価値は、誰がやったかが重要になりますよね。より一層、人が見られるようになったので、美しい人であれば当然有利です。美しい人がやることは、AIに出来ないことです。これからは男女問わず、容姿にお金をかける必要があるでしょうね。おかしな風潮ですが、アズミさんは先を行っていると思いますよ」
 アズミはふふっと笑い、肯定も否定もしなかった。

 その後も、二人の関係に変化は見られず、それぞれ一人で来店した。マサキは狙い通りに会えないと、いかにも寂しげに酒を呑んだが、僕はその気持ちに踏み入るようなことを訊かなかった。
 惚れた理由など、本人にも分からないことがある。
 
 春の或る日、マサキはいつもより遅くに浮かない顔でやって来た。髪がすっきり短くなっていた。先に吞んでいたアズミに小さく頭を下げると、その隣に黙ったまま座った。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
 最初の一杯はジントニックがお決まりだが、マサキはなかなか注文を入れなかった。アズミは呑み干したグラスを置き、ちらりと彼を見た。
「今日はね、マサキくんを待ってたの」
「え、なぜですか?」
「特に理由はないけど・・・」と薄笑いを浮かべ、「冗談かな。言ってみたかっただけね」と続けた。
「自分はお伝えしたいことがあります」
「なにかしら?」
「博多へ転勤になりました。突然のことで、十日前に決まりました。引っ越しは明後日です」
 そして、最低でも二年はこちらに戻らないと静かに語った。アズミは寂しさなど微塵もないように、平然と聞いていた。
「遠くて大変ね。でも、博多は美人が多いの」
「美人ですか。自分には関係なさそうです」
 マサキは一通りの話を終えると、ブルームーンを注文した。
 
 一緒に来てほしいなどと、彼が言うはずもなく・・・
 その夜も、アズミが先に席を立った。
「明日もここに来るの?」
 マサキは少し考えた後、「分かりません」と絞り出した。
「そっか。忙しいよね。元気でね」
「アズミさんも」
 二人は互いに振り向かなかった。マサキは後ろ髪も切ってあった。

 次の夜、外は花散らしの雨が降っていた。
 アズミは大きめの傘を手に早々と来店した。明らかにマサキを待っていたが、「来ますかね?」と僕が話を振ると、気のないようなことを言った。心なしか化粧が薄めであった。
 
 やがて、閉店の時刻が迫り来ると・・・
 客はアズミ一人きりで、その日最後の注文があった。
「アプリコットフィズ、二つお願い」
「お二つですね。承知しました」
 その杏子色あんずいろのカクテルに込められた言葉は――、振り向いてください。アズミは知っているに違いなかった。
 彼女はマサキが最後まで来ないことを確認すると、自分の気持ちをやっつけるように、皮肉な甘さのあるロングカクテルを二つとも豪快に呑み干した。そして、気怠げに頬杖をついた。
「ねえ、タクシーを呼んで頂戴」
「承知しました。ですがその前に、一杯ご用意しましたので、よろしければどうぞ」
 僕は口直しとして、彼女に似合う酒を振る舞った。

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