見出し画像

【小説】月に空振り

 やったことのない私が言うのもおこがましいけれど、野球のバッティングはスポーツの中でも極めて難しい部類だと思う。なにせ成功率がとても低い。プロの世界のように実力が拮抗すると、チーム打率はおよそ二割半ばに収束する。つまり平均して、十回に二回か三回しかヒットにならない。
 ヒットを打つためにはもちろん、バッターは振る必要がある。同じ三振でも見逃しによるそれは、やるべきことを怠ったと見られがちで、とかく印象が悪い。だから少年野球、いや高校生になっても、むやみやたらに三回振る選手がいるけれど―――

 彼はあの時、振らなかった。もう十一年前の高校野球だ。


「まだ三回の裏だったんです。ランナーがいなかったので狙い球を絞っていました。あわよくば長打という意図です。相手はとてもいいピッチャーでしたし、どの球種にも対応しようと考えたら、第一打席と同じで当てるだけになりそうだったんですね」

 結局、見逃し三振に倒れた彼は、監督に交代を命じられた。きっと二年生だったこともある。前年までマネージャーをしていた私は、その様子をスタンドから見つめていた。

「秋にアキレス腱をやっちゃったので、結果的にあれが高校最後の打席でした。なんで振らなかったんだって色んな人に言われましたね。振らなかったわけではなく、振れなかったんですが・・・。とはいえ、たしかに最後だと分かっていたら、別のアプローチをしていたかもしれません。次があるという甘えですかね。そのように考えて落ち込みましたし、今でもあの見逃しが夢に出てくることがあるんですよ」

 甘えだろうか―――
 私は違うと思う。最大の目的は、よくやったという思い出づくりではないのだから。野球はあくまでもチームの勝ちを目指してやっている。もちろん勝ち負けがすべてではないけれど、それはどうでもいいと切り捨てるなら、練習風景を公開している方が様になる。大事なのは、空振りか見逃しかの形ではないと思う。
 話によれば彼はあの時、ヒットを打つためのアプローチをしていた。結果は最悪だったけれど、自分なりにしっかり考えていた。仮に交代させられず、次の打席があったなら、今度は狙い球が的中してホームランをかっ飛ばしたかもしれない。

「岡田さんは最善の方法を取ったと思います。振ることだけを意識していたら、どうせ打てないと決めつけているわけで、勝ちを目指して戦っている仲間たちに失礼ですよね。見せかけの頑張りというか。取り繕っても仕方がありません」
「有難いです。そういう考え方もありますね。仕事と同じでしょうか」


 彼は会社の先輩にあたり、互いに敬語を使って話す。年は二つ離れているので、高校時代はほとんど話をしたことはなかった。野球部で共に活動したのは、新入生だった彼が四月に入部して、私が八月に退部するまでの、およそ四ヶ月弱だ。
 私は中途採用で会社に入り、スーツの似合う彼と再会した。覚えていないだろうなあ、と思ったけれど、「青山さんはみんなの憧れでした」と信じがたいことを言われた。まるで私に気があったかのように、あれこれ些細なことまで覚えていた。

 きっと当時私が付き合っていた人と、その悪い噂も知っている。私には言わないだけで、他の誰かに言っているのではないかと疑う気持ちもあったけれど、彼の優しい人柄に接するうちに、それはないだろうと思った。


 やがて、私は彼を好きになっていく。最大の魅力は、落ち着いた振る舞いの中にある子どもっぽさ。
 仕事は畑違いでオフィスも別々だったけれど、昼休みや仕事終わりなどにばったり会った際は、よく野球の話をした。プロ野球はシーズンオフの冬場を除き毎日のように試合がある。尽きない話題とは裏腹に、十分も話せば長い方だったけれど、彼が見せる野球小僧のような顔つきは、純粋なきらめきに満ちていた。
 やっぱり好きなものがあるっていいな。これからもずっと野球が好きなんだろうな。

 私はなぜだか、彼をずっと好きでいられる気がした。付き合うどころか、友達でさえなかったけれど。
 一歩踏み出せなかった理由は、先に触れた私の過去。若気の至りというか。きっと私も鼻持ちならない奴だった。あの交際を彼が知っているとしたら、よい印象になるはずがなかった。

 一方で、私は変わったという自惚れが、心のどこかにあった。話をするたびに彼も楽しそうで、仲がよいと社内で広く認識されるようになった。野球好きの共通点をこえて、彼の方から踏み出してもらえることを期待した。
 さりげなく伝える私の好意を、どうか見逃さないでほしい。

 けれど、彼は見逃しつづけた。振る気配すらなかった。見送ると言った方が正しいのかもしれない。


「岡田くんって長く付き合ってる彼女がいるらしいよ」
「そうみたいですね」
 まるで知っているふりをしたのは、わざわざ伝えて来たお局さんに見栄をはったから。

 私は振られることなく、ひっそり失恋した。


 それから三ヶ月くらい経った秋のはじめ頃、私は会社を辞めようか思い悩んでいた。理由は女性の多い部署ならでは。ありがちな嫌がらせというか。お局さんの気分次第で、不満の捌け口にされていた。
 加えて、仕事が出来ないと評価されていたけれど、仕事というよりゴマスリが出来ないだけだ。私はそう言い切る。そもそも新人が任される仕事なんて、出来るか出来ないかを論じる高度なレベルではない。いつも就業時間内にばしっと終わらせていたのだから、むしろ出来る方だ。

 お局さんが定時で帰りたくない事情とは何なのか。まことに不可思議だ。それに合わせるようにだらだら居残って何になるだろう。
 私は言いたい。会社にとって意味のない空振りだと。振っているだけのゴマスリだと。


「あ、昨日の広島戦、見ました?」
「ニュース映像で少しだけ。最後はあっけなかったですね」
 そう答えた私は、相槌を打ちながらそのシーンについての話を聞いていた。心ここにあらずの顔をしていたのかもしれない。
「なんか最近、元気ないですね。どうかしましたか?」
「取り立てて言うことでもなくて・・・。すみません。顔に出ちゃいましたね」
「言って楽になることもありますよ。同窓の仲ですし。青山さんがよろしければ、今夜はいかがですか?」
 失恋後の誘いは皮肉でしかなかったけれど、彼の気遣いだと前向きに捉えて、食事に行く約束をした。妙な期待を抱かずに。


 連れて行かれた場所は、デートスポットとして知られるお洒落なレストランだった。

「正直何に悩んでいるか、すぐに分かりましたよ。青山さんのポジションはみんな辞めてしまうので、人が一年おきくらいに変わるんです。その原因は・・・」大きなため息をつき、「内藤さんですね。陰では経理部の妖怪という意味で、KYなんて言われています。なぜ上役が彼女を重用しているのか謎ですが、傍から見ていても若い子に対する嫉妬がひどい。特に可愛い子。だから本当に、青山さんのことはずっとずっと心配していました」
「有難うございます。私が可愛いなんてことはないですけど。もう若くもないですし」
「いやいや、青山さんが可愛くなかったら、一体誰が可愛いんですか」
 私は照れ笑いを浮かべて顔を伏せた。どういうつもりで言っているのか頭を巡らせた。口説くつもりがなく、これまでの私の好意に全く気づいていなかったとしたら、彼も立派なKY、空気が読めない人だ。
「無理そうだったら僕に相談してください。他の部署に移動出来るように掛け合ってみます。青山さんなら大丈夫。コミュニケーション能力が高いですし、野球部でも鍛えられてますからね」
 彼は自信と余裕を漂わせて、にこっと白い歯を見せた。


 根拠のない自信―――
 あの時を振り返るたびに、私は批判的にそう思う。

 そして、なぜバレないと思ったのか。うっかりした不備ではない。彼の経費申請に意図的な不正があった。私はあの後しばらくして見つけてしまった。あまりに少額のため、小物と言うか、子どもっぽいと言うか、ある意味彼らしいとも思ったけれど、ほうっておけば、いずれ大事になりそうだった。私が真っ先に見つけたのは、きっと彼に注目していたからこそ。

 振るか、振らないか―――
 時間をかけず、明確な意図を持って見逃すことを決めた時、秋風が胸の隙間をひゅうっと抜けていく気がした。


「岡田さん、聞いてくださいよ。例のKYさんですけど、社員のことも泥棒扱いするんです。重箱の隅をつつくように私も色々疑われました。本当に嫌気が差します。なぜだか最近、やたら目を光らせているんですよ。気をつけた方がいいかもしれません。百円二百円のことでも、憂さ晴らしでヒステリックに騒ぎますからね」
「おお、怖い。まさに妖怪じゃないですか」
 私は一瞬引きつった顔を見逃さなかったけれど、まだ大人になりきれていない彼の将来を潰さないために、この見逃し方が最善に思えた。

 改心するかどうかは彼次第。私はそれを見守ろうとせず、手書きの退職届を用意した。


「なんなのこれは。気の迷いでしょう。今宵は満月。そんな日もあるかな」
 いつになく穏やかなKYさんは、退職届をさっと突き返してきた。

 私は肌寒い夜の帰り道で、雲の切れ間をしばらく待ち、まん丸い月を見逃さなかった。大きな白球が輝いているように見えた。周りに誰もいないことを確認すると、バットを高く構えるふりをして―――

 それは未来に繋がる空振りだった。あらゆる躊躇いを振り切るために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?