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【小説】大将と猿

 仕事の合間に取引先の担当者をネット検索すると、その人の “つぶやき” を見つけた。上限140字のTwitterだ。
 興味本位でフォロワーに誰がいるのか覗いてみたところ、隣に座っている及川のフルネームがローマ字で現れた。最新のつぶやきは――

 若い人たちを中心に「親ガチャ」という言葉が流行っているらしい。下品だと切り捨てるのは容易いけれど、それだけ生まれ育った環境が人生に決定的、及び絶望的な差を生み出していると多くの人が感じているのだろう。人生運次第という風潮を無視してはいけない。世の中は以前よりも無気力になっている。

 お前が言うか、と正直思った。以前聞いた話によると、及川の生家は仙台近郊を拠点に東北で手広く商売をやっているようだ。父親は議員にもなった地元の名士とのこと。
「なあ」
 聞こえたはずだが、及川はぴくりとも応じなかった。印刷した分厚い資料に視線を落としたまま、なにやら頭を抱えていた。

 しばらくして、ゴロの付いた椅子の足を蹴ってきたので、パソコンの画面を例のつぶやきに切り替えた。見つけちゃったぜ、と言外に示して。
「今の気持ちをつぶやくならば・・・」
 俺はメモを取るふりをした。
「上ガチャ失敗」
「なるほど」
 上とは、間違いなく上役のことだ。口元はマスクで隠れていたが、怒りの色が目に滲んでいた。
「専務?」
 声を潜めて訊くと、及川は当然だろ?と言いたげに、お洒落に整えた眉を上げた。
「今夜うちに来いよ」
 そう誘ったのは珍しいことではない。マスクを強いられ、飲み歩きが憚られる世の中になってからは、少人数でひっそり宅飲みをするようになった。
「親はどうした?」
「さすがに帰ったよ」
「母親が家出って面白いよな」
「勘弁してほしいよ。そろそろ還暦だぞ」
 ははっと短く笑い合うと、周囲のきつい視線を感じながら、それぞれの机に向き直った。

 アパートの冷え切った一室に帰宅して間もなく、及川はスーツを着たまま来訪して、いかり肩のワインボトルを掲げた。社交的な彼らしく、県内の知人が作った一品と紹介した。もはや移住者の振る舞いではない。紛れもない山梨県民だ。
 及川は酒好きのくせに、酔いが顔に出やすい。少し茶色く染めた髪と相まって猿のようになった頃――「親父さんとも仲がいいの?」と訊かれた。
「良くはない。あまり喋らないな」
「実はうちの親父って最悪で」
 俺は首を傾げた。「立派な人だろ?」と。
「傍目にはな。御立派だよ。でっかい家を建てて、リビングに賞状、それにずらっと盾やらトロフィーやらを飾って、来る人来る人に学生時代からのサクセスストーリーを語るんだ。俺はそれがすっごい嫌で。かっこ悪いと思ってた」
「ああ、それは分かるな」
「どことなく専務に似てるところがあって、要するに御山の大将だ。くっそ偉そうで、人の失敗に対して思いやりがない」
「理解できないんだろうな。頑張れば報われてきた人って。まあ、そういう時代でもあったんだよ」
「だな。最近それを強く感じる」
 及川はどこかをきっと睨んでそう言うと、グラスに残った赤ワインをぐいと飲み干した。
「故郷には帰ってないのか?」
「夏に帰ったな。久しぶりに」
「どうだった?」
「親父も変わったよ。めっきり老けちまってさ。リビングの盾とトロフィーはしまってあった」
「逆に寂しくなるな」
「ズルいのはさ、たった一つだけ、金色の折り紙で作ったメダルを残してあった。俺に言うんだよ。これが人生最大の勲章だって」
 誰の作ったものか訊くまでもない。及川は目を潤ませた。
「いい話だな」
「悔しいよ。いい人ぶりやがって」
「時代も人も変わるよな。俺たちが入った頃の専務、部長の頃な、もう少しマシだった。良くしてくれたんだよ。二人で岡山と広島に出張したことがあってな」
「出た広島」
「なんだよ?」
「来週行かなきゃいけない」
「どうせ前泊は許可されないぞ。朝一で出ても着くのは昼頃だがな。行くだけで半日コース」
「で、折り入って相談があるんだけど・・・」
 思い出したように語り始めたことは、まさかの同行依頼だった。時代はオンラインなどと言い返して、出張自体を取りやめた方が良いと説得したが、どうしても行く必要があると説明された。
「なんとか頼む」
 俺は口を尖らせ、不承不承同意した。


 当日は日の出前、5時29分に甲府を発った。乗客の乏しい上りの始発電車だ。
 宿泊の荷物をホテルに送った上、駅までタクシーを使ったのだが、すでに疲れ果てた気分だった。マスクを顎に下して自販機で買った温かい緑茶を飲むと、斜向かいに座る及川が指をさしてきた。その髪はヘアスプレーか何かで黒くなっていた。
「髭、忘れただろ?」
 準備不足の顔が、闇を隔てた窓ガラスに映っていた。
「どっかのトイレで剃らないとな」
「マスクを取ることはないから、このままでいいだろう」
「いやいや」
 何も答えなかったが、こういう時の備えが鞄の底で眠っている。折を見て剃るつもりだった。すると、及川が化粧に関する話をした。どうやら最近、口紅の売れ行きが悪いらしい。なるほどと思った。

「これ飲む?」
 しばらくして、及川が紙パックに入った馴染みのない健康ジュースを勧めてきた。パッケージにはAcaiの文字―― 数年前に流行ったアサイーという食材のようだが、口にしたことはなかった。
「うまいの?」
「俺は好き」
「じゃあ一本もらうわ」
 相変わらず車内はがらんとしていたが、感染防止対策とやらで駅に停車するたびにドアが開き、山間部の冷たい空気がどっとなだれ込んできた。

 そして夜明けを迎え、長い一日が漸く本格的に始まった。
 乗り換えは合計三回あり、まずは高尾、次に八王子―― 7時14分発で新横浜に向かった。順調に進み、乗客が増え、景色は日当たりの良い住宅街になった。
「この辺に住んだら便利だよな」
「山梨は不便だよ。空港がなく、新幹線の駅もない県は、なんと山梨だけ」
「嘘だろ?」
「ほんと」
 及川は疑り深い目でスマホを取り出すと、手速く真偽を確かめて「嘘じゃん」と笑った。他に三重と奈良があるとのこと。

 その後はほとんど話をしなかった。新横浜の手前で及川がこちらに顔を向けたので、寝てないぞ、と目で合図を送った。
「あのな、言い忘れてたんだけど」
 俺は眉をひそめた。
「ホテルの部屋、ツインなんだよ」
「おいおい、相部屋かよ」
「空いてなかったらダブルだったかもな」
 冗談半分で言われたそれに、「ケチくさ」と言い放ち顔をそむけた。ツインの相部屋は上役の意向に違いなく、及川のせいではないのだが、共通の被害者として笑い飛ばせなかった。

 こんな出張に付き合わされて。
 あんな健康ジュースを飲んだから。

 新横浜で新幹線の切符を買った後、突然の腹痛に襲われた。ままあることで、用を足してしまえばすっきりするのだが、あれを飲んだせいだと強く思った。
「時間がないぞ。トイレは新幹線の中にもある」
 下り方面の電光掲示板を見ると、乗る予定の “のぞみ号博多行き” が8時10分、そして8時29分にもあり、慌てて乗る必要はなかった。取引先との約束の時間にも十分間に合う。
「29分にしよう。自由席でも座れるはず。電車のトイレは避けたい」
 返事を待たず、そう言い残してトイレに駆け込んだ。

 ついでに髭を剃ってから戻ると、及川がいなくなっていた。辺りを見回した後、スマホで確認したメッセージには――
 10分発で先に行ってる。
 思わず「どういうこと?」と声が出た。常識的に待っているべきだと思った。10分発で買った指定席の切符は、後発の自由席で使える。別に隣り合って座りたいわけではないが、むかっと怒りが湧き起こり、返事を送らなかった。

 缶コーヒーとレタスたっぷりのサンドイッチを売店で買い、29分発に乗ると、やはり自由席でも空いていた。しかも窓際の席を確保できた。新幹線が遅延する可能性は極めて低く、あとは乗り越しに注意するだけだ。図ったように博多まで行き、しまったと言っても洒落にならない。
 各駅の到着予定時刻を調べた。広島の前が11時39分の福山だった。その時刻をスマホのアラームに設定すると、気分が少し晴れてきた。
 無事に乗った。下り29分発。
 了解、とすぐに返事があったので、イヤフォンを両耳に挿して目を閉じた。

 やがて名古屋に着き、ふと大学時代の友人を思い出した。彼は甲府から名古屋に自転車で帰った伝説を持つ。その方法が突飛というか原始的で、まずは南へ南へ、海辺に出ると西へ西へ、ひたすら走ったそうだ。地図を持たず、方角だけを頼りに。
 遠距離恋愛の子と結婚したのだろうか。
 感慨に浸り、高速で過ぎ去る冬晴れの景色を眺めた。

 京都から先は、短い間隔で新大阪と新神戸に止まった。神戸といえば海のイメージだが、そこは車内から見る限りがっかりするほど山の中だ。
 はぁとため息をつき、腰に痛みを感じ始めて――

 30分後、まだ岡山かよ、と項垂れた。飛行機のエコノミーより座席はゆったりしていて、ぼんやり座っているだけなのだが、さすがに長すぎる。遠すぎる。もはや海外に行くレベルだ。
 この苦労の先にパリやロンドンがあるならまだしも―― ああ、二度目の広島か。
 そう思った時、草色のマフラーを巻いた年配の男性が隣に座り、心配そうに声を掛けてきた。西に来たと実感するイントネーションだ。さぞかし具合が悪そうに見えたのだろう。イヤフォンを外して、マスク越しのお世辞笑いで応対すると、どこから来たのか、どこへ行くのか、それは大変だと話が続いた。そして信じがたいことに身の上話になった。実家を継いだ兄夫婦が岡山にいるなどと。

「うっさいなぁ」
 スマホを見て、ぼそっと声に出して言うことができたのは、設定しておいたアラームのお陰だが、遠回しに伝えた男性に対して効果はなかった。いや、あったのかもしれない。ひそひそ話すようになり、何を言っているのか分からなくなった。無論聞き返すことはなく、痛む腰に手を当てながら、はいはいと適当に頷き続けた。

 福山から20分ほどが経過して、「まもなく、広島です」と車内アナウンスが流れた。ほぼ12時、及川はすでに到着しているはずだった。何も連絡がないことを無事の知らせだと解釈したが、少し不愉快にもなった。
 ゴミというゴミをビニール袋に突っ込んだ。座席のテーブルを畳んだ。すると、隣の男性が “きびだんご” と書かれた平たい紙箱を膝に乗せ、個包装の小さなお菓子を二つくれた。ご縁に感謝とのこと。
 岡山の名物か―― 悪い気はしなかったが、なおざりにお礼を言った。男性が立ち上がり、窓際の俺に道を開けてくれた時も。
 車体は滑らかに止まった。降りる人の列が進んだ。
 駅のホームに立ち、広島の駅名標をしみじみと見た。白地に青帯のシンプルなデザインだが、この時ばかりは海を連想して、声にならない声を上げ、背筋を大きく伸ばした。すると、走り抜ける馬鹿者に背後から肩をぶつけられ、手からきびだんごが一つこぼれ落ちた。
「くっそ」
 もう一つをポケットにしまい、拾い上げた方をぶら下げたビニール袋に投げ入れた。顔を上げた瞬間、ゴミ箱の横に立つ駅のスタッフと目が合い―― 気弱そうなその男性に “ゴミ” を押しつけた。中身を分別せず、ビニール袋のまま。
「ご乗車ありがとうございました」
 俺は僅かに頭を下げ、改札口に向かう途中でトイレに寄った。急ごうとしなかった。及川からメッセージが来ていた。
 お疲れ。改札を出たところにいる。

 だが、改札口を前にして、切符がないことに気づいた。どこに入れたか記憶を辿り―― 天罰が頭をよぎった。慌てて探した。見つからなかった。どうすべきか考えた。
「あのぉ・・・」
 立ち尽くす俺に声を掛けてきたのは、先ほどの気弱そうなスタッフだった。
「大事なものがこちらに」
 押しつけたビニール袋をおずおずと差し出された。その中には切符ときびだんごが残されていた。サンドイッチの包みや空き缶、丸まったティッシュなどは捨ててあった。
「ああ、すみません。助かりました。なんとお礼を言ったらいいか」
 男性は目尻を下げた。いかにも安心したように。
 恐らく俺は、余計なことをしやがってなどと怒鳴りつけるような雰囲気だった。それでも彼は、わざわざ探して届けてくれた。
「では、道中お気をつけて」
 足元にも及ばなかった。朝から俺は、終始不遜な態度だった。来てやった―― 聞いてやった―― 故に、きびだんごを容易く捨てた。なんたる糞野郎か。人のせいにしてばかり。及川が一旦離れたいと思ったのは当然だ。

「いやぁ、悪かった。先に行った理由だけど・・・」
「俺を殴ってくれ」
「はい?」
「俺を専務だと思って殴れ」
 及川は笑い飛ばした。「何を偉そうに」と。
「あ、そうか。今更気づくことばかりだ」
「俺だってあれだ、殴られなきゃいけないことをやらかした。つまり両成敗だが、今は止めよう。何も訊くな。甲府に帰ってからだ」
 俺はポケットの中に手を入れた。落ちていない方は及川にもらってほしいと思った。大切なお裾分けとして。
「きびだんごだと?」
「いざ、鬼ヶ島へ」
「俺は犬か?」
「いや、どう見ても猿だろう」
「えっらそうに」
 俺たちは一件落着とばかりに笑ったが、やるべき仕事は序章に過ぎず、まだ御山をくだり広島駅に着いただけだった。

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