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【推薦図書】山本一力『節分かれ』

 「それも心得違いだ」
 凛とした声で勝衛門が言い切った。
 「よそ様のことは分からないが、稲取屋の商いは灘萬さんあってのことだ。なぜおまえは、お得意様と灘萬さんとが同じ秤に載ると思うのだ。その料簡を改めない限り、稲取屋を譲ることはないと心得なさい」
 (山本一力『節分かれ』文春文庫)

 『節分かれ』は、一言で要約すれば、商人のあり方を問う物語である。
 江戸時代、商売・金儲けは士農工商といわれるように、そもそもが卑しい行為とみられる。
 しかし、すべての商売がそうだろうか。注目すべきは、商売という行為だけではなく、やはり、人によるのだ。商人にも商人の誇りがある。卸(大元の業者)も仲卸(問屋。卸と買出人の仲介業者)も買出人(八百屋等の小売店)も、お客さん(一般消費者)も、皆が幸せになる商売こそが、商人の目指すべき道なのだ。
 たとえば、凶作により、卸の段階で停滞してしまったとしても、仲卸が「不用意」に仕入れ元を変えるべきではない。長年お世話になってきた義理が立たないのだ。真面目な商い、そしてその商人の誠実さがいかによい関係性を生み、善き人をつくるか。
 いかに厳しい状況においても、義理を立てることの大切さを本書は教えてくれる。

 以下に物語のあらすじを述べてゆく。本稿では、筆者・山本一力氏の美しい筆致は伝わらないため、本のご高覧をお勧めしたい。

 物語の舞台は、天明(江戸時代)の江戸、深川である。
 稲取屋(いなとりや)は、町人屋敷としては破格の敷地五百坪を有する灘の下り酒問屋の大手である。下り酒とは、上方つまり京都などの畿内から来る酒のことだ。
 
 ある日、三代目稲取屋・勝衛門(かつえもん)と、その息子、高之助(たかのすけ)、一番番頭の禎二郎(ていじろう)は、酒の入荷について話し合っていた。
 例年にない昨今の米不足は、酒造りに大きな影を落としていた。酒問屋である稲取屋は酒が思うように手に入らない。蔵の在庫は日に日に減ってゆくばかりである。
 飢饉とはいえ、金貸しで儲けている札差(ふださし)は、年に三十万両以上もつかう。札差は料亭で遊ぶから、高級な酒がとにかく売れるのだ。そして、料亭を得意先とする仲卸はどんどん注文する。灘の高級な酒を扱う稲取屋にとって、お客様のご期待に応えられない苦しい状況が続く。

 稲取屋は得意先へ回って頭を下げ続ける日々。いつまでも謝ってばかりでは済まされないと、高之助と番頭の禎二郎は、当主の勝衛門へ諫言する。
 いま会津の高田屋善兵衛が江戸に来ており、会津と上州の酒合わせて十四万樽までなら即納品できるという。それだけ入れば急場はしのげる。酒蔵は空っぽで周囲の同業者からも、稲取屋は何をしているのかと不審に思われるている。上方の酒でなくとも、仕入れるべきだと交渉するが・・。

 勝衛門は言下に駄目を出す。

 「初代が上方をたずねたとき、灘萬のご当主はふたつ返事で回してくれた。その恩義を忘れずにきたことで、うちは暖簾を守ってきた。」
 「お得意様にはあたまを下げればすむ。それでお取り引きがなくなるのなら、それまでのことだ。しかし荷が入らないからといって会津の酒を扱ったりしたら、灘萬さんはもとより、紀文様やご先祖様にどんな申し開きができるんだ」

 高之助も禎二郎もこの時ばかりは食い下がった。しかし、時を同じくして、大奥の暁代(あきよ)が倒れてしまったのだった。
 勝衛門は店を高之助と禎二郎に任せ、看病するものの容態は悪化。
 上方の酒が入らないことに加えて、当主勝衛門は看病で表へ出てこない。勝衛門はどうしたのか、と他の肝煎連中は案じ始める。

 七月にはいり、深川は祭支度で賑わいはじめる。稲取屋も御酒所で振舞酒を出す。勝衛門は僅かな在庫にも関わらず、惜しげもなく酒を寄進したのだった。
 
 祭りの成功に安堵したのか、暁代は静かに息を引き取った。夫である勝衛門は妻の亡くなる最期まで手を握っていたという。

 そんな中も、酒不足の状況は変わらない。ある日、得意先から上方の酒でなくとも、どんな酒でもいいから納めてほしいと要請がくる。高之助は父・勝衛門の気概に共感するものの、お客さんが何でもいいと言っているのなら、灘の酒にこだわらずによいのではないかと考える。上方への義理も大切だが、お客さんへの義理も大切ではないか。
 しかし、勝衛門はそれを許さない。先代の築きあげてきた御縁、灘萬と稲取屋の得意先が同じ天秤に載るはずはないと話を打ち切る(本稿の冒頭に引用した箇所がその場面である)。

 もう、どうにもならないと諦めかけていたとき、奇跡が起こる。大川を渡る風に凍ての混じる十一月、無数の船が川を埋めているではないか。待ち望んだ上方の酒が江戸に届いたのだった。

 「稲取屋はんには、ほんまに難儀をかけましたなあ。この通りですわ」「なんとか一万樽が都合つきましたんや。なんぼの足しにもなりまへんやろが、納めさせてもらいます」
 「うちに筋を通されて、稲取屋はんは一切ほかの酒を扱わんとおいででしたやろ」
 「灘萬さんにしていただいたご恩を考えれば、当たり前のことです」
 「そやけど、でけんことですわ。今度のことでは、うちも大きなことを教えてもらいました。灘萬も、もういっぺん性根を据えて商いをさせてもらいます。なにとぞよろしゅうお願い申し上げます」

 勝衛門の商魂がやっと天へと通じたのであった。
 その後も、回漕は続き、江戸の酒不足は解消した。

 しかし、問題は次々起こるものである。今度は、江戸に酒が溢れ、過剰在庫となってしまった酒が樽のなかで発酵、痛みはじめたのだ。風温む春の日、通りを歩けば、酒が香るほどである。

 勝衛門は大胆な一手に出る。多くの酒屋と寄合をもち、高級な上方の酒(灘の酒)を安価な会津の酒よりも安い、一合二十文として売るように掛け合ってほしいと交渉したのだ。灘の酒は本来一合三十五文だ。
 赤字になりかねない話だが、精神論ではなく確固たる根拠がある。時代は寛政に変わり、風俗に厳しい松平政権である。今後、札差の浪費は収束する見込みであり、高級酒はますます売れなくなる。しかし、一般消費者への影響は少なく、つまり大衆の酒消費量はそれほど変わらない。したがって、会津の酒よりも安く灘の酒が飲めるとなれば、あっという間に捌けるだろうという狙いだ。

 いざ行動となると、酒屋にとっても一軒一軒まわって交渉するのは大変であった。値下げに反対の声も多かった。灘の酒を安く売れば、その瞬間だけは他の酒が売れなくなってしまう。稲取屋の得意先である小田原屋は、稲取屋のやり方を潰すとまでいうのであった。稲取屋は腐った酒を売っている、酒樽に鼠の死骸が入っている等、流言が耳に入ることもあった。稲取屋の前にごろつきがうろつくこともあった。

 そんな中、じょじょに賛同する店も増えてきて、町人の評判は上々であった。灘の酒は江戸の酒とは香りも味も格が違う。夏場には、灘の酒を二十文で売る店が三千件にも増えた。稲取屋の真似をする問屋すら出てきたのだった。

 「どれほど江戸酒がのしてきても、うちが値下げで応じることは断じてないと、しっかりみなさんに伝えなさい」
 「いわれるまでもありません。このうえ下げると儲けが消えますから」
 勝衛門が息子に強い目を当てた。
 「それは料簡が違うぞ」
 声音は目の色よりも厳しかった。
「儲け云々はかかわりがない。江戸蔵のみなさんは、血へどを吐く思いで出し値を見直されたはずだ。このうえ、うちが値を下げて追い討ちをかけるような真似は、真っ当な大店の振舞いではない」
 「・・・・・」
 「うちが大きな蓄えを背負って際限のない安売りを続ければ、相手の息の根を止めてしまう。そんなことでひとり勝ちしても、世のためにはならないだろうが」

 勝衛門は高級酒の安売りによって、同業者を一時的に苦しめてしまうこともわかっていた。

 翌年、また新たな仕入れの時が来た。そのとき、武士の借金を帳消しにする棄捐令により、札差は死に体となった。それは、勝衛門の予期した通り、高級な酒がますます売れなくなることを意味した。
 そこで、今年は酒の仕入れを減らしたいのだが、灘萬への義理もあるため、減らす量は最小限にとどめた。それは、高之助の意見を勝衛門がはじめて受け入れた瞬間でもあった。

 その後、三代目勝之助は食が細くなり身体が弱っていった。節の分かれ目に、「あとは任せたぞ」と高之助に言い遺し亡くなった。

 高之助は四代目勝之助を襲名し、先代から教えてもらったことを胸に、稲取屋の身代と奉公人の暮らし、果ては社会全体の幸福のためにと決意を新たにするのであった。

 豆を撒く
 まごに追われて逃げまどう
 足弱き鬼は面を脱ぎたり
 歌のなかの勝衛門が、胸のつかえを取り除いてくれた。ふところの短冊を確かめた高之助は、気負いもなく立ち上がった。川面を飛ぶ都鳥が陽を浴びて輝いた。

 物語はここで終わりである。勝衛門は和歌を嗜むため、物語の要所に様々な歌があらわれる。勝衛門のそのときの密かなる思いを理解するためにも注目だ。

 本物語は、文春文庫の『蒼龍』山本一力著に収録されている。

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