生活のリズム
「ふう、気持ちよかった」
久しぶりの入浴を終えて思わず声が出た。新型ウイルスの影響で家から出ていくことが減り、なかなかタイミングがつかめずにいたが、ようやくゆっくりと湯を浴びることができた。
濡れた体を丁寧に拭きあげて、髪を乾かす。おろしたての新しい下着も気分がいい。部屋に一人だから下着のままソファーに身を投げると、大きめのうごめく毛玉が近づいてきた。
「ん? なんだお前、腹でも減ってるのか」
白と薄茶色からなるパンのような見た目のそれは、二つの水晶玉に反射した光をこちらに向けて、怪訝とも不機嫌ともとれる表情を作って見せている。しっぽをゆらりとなびかせながら、ゆっくりと足元に寄ってくるそれに手を伸ばしてみたが、寸でのところでひゅっと距離をあけられ、文字通り空を切らされた。
「おやつとか、あるかな」
自由の代名詞のようなこの生物を前に、仲良くなろうという魂胆はさらさらなかったが、スティック状のおやつをぺろぺろと舐めている姿は、実は犬派である俺をも癒す魅力があった。
「お前はいいな。上司に訪問先増やせとか、今月のノルマにいくら足りないとか、言われなくて済むもんな」
ニャーという他に物言わぬ物体には普段の愚痴もすらすらと出てくる。いくら仲の良い友人や同僚であっても、酒の力でも借りなければここまでスムーズにはいかない。いや、どれだけ酔っていても職業柄か生来の気質か、本音を語るのはなかなか難しいのだ。というか、そこまで仲の良い友人がそもそもいないわけなのだが。
「おっと、もうこんな時間か」
少しうたた寝をしてから時計に目をやると、6時まであと十数分というところであった。慣れた手つきでカバンに荷物を詰めて身支度を済ませ、この部屋のマスターである毛玉に別れの挨拶をした。
玄関のドアを開けると、あいにくの雨が差し迫る冬の寒さに拍車をかけている。仕事のことを思うと気が滅入るが、大きめの黒い傘はそんな自分を自然に隠してくれた。
「ただいまーっと。パンちゃん、いい子に留守番してた?」
久々の出社勤務はやっぱりこたえるなぁ。慣れてたはずの通勤経路は変に長く感じるし、部長のセクハラはかわさなきゃいけないし。自宅勤務は自宅勤務で一人だとなんだか虚しさはあるけど、今はこの子を飼い始めたからだいぶマシになったね。
少なくとも以前のような、一人暮らしの寂しさが薄れるから。
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