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新浦安で『10年』を走る “ 旅先で『日常』を走る 〜episode36〜 千葉編 ”


前回のあらすじ

札幌で『公園』を走る

“ それぞれの土地にはそれぞれの魅力が満載だ。「失われた30年」のとばっちりを受けて、すっかり元気がなくなってしまっているが、まだまだ多大なポテンシャルを北海道の各地は持っていると、私は感じている。”

新浦安で『10年』を走る

2021年2月28日、日曜日。午後2時すぎ。私は、新浦安駅に降り立った。

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じつは2011年3月11日、私はこの地で東日本大震災に被災したのだ。震災から10年を迎えるこの機会に新浦安を久々に訪れ、当時のことを思い返しながら走ろう、と考えたのだ。

到着して早々、10年前に店長をしていた店を訪れるために、駅ビルに入った。久々に目にした店は、ぱっと見以前と変わりばえがしない。内外装もサンプルケースの中も、そして、10年前に会社には無断で私がレイアウト変更した客席の配置も、当時のままだった。
当時と変わっていたのは、そこで働いている従業員と、営業時間くらいだ。新型コロナウィルスの蔓延による緊急事態宣言が発令されており、その影響でランチ営業のみとなっていた。もしこの店が営業していたら軽く食事でもと考えていたのだが、すでにラストオーダーの時間は過ぎていた。

入店はあきらめて、館内をしばしブラついた。懐かしい店やそうでない店、多くの店が館内にひしめき合っている。その中でも、おそらくコロナの影響であろうが、閉店してしまった店がポツポツと目に入った。
そんな光景を眺めつつ、当時のことを振り返ってみる。

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じつは、新浦安については苦い思い出の方が多い。

当時、私はテイクアウト事業のエリアマネージャーをしていた。業績は社内でもトップクラスで、次期統括マネージャー候補との声も掛かっていた。しかしハードな業務を繰り返した結果、30代半ばにして私の心身はかなり蝕まれていた。自律神経がズタボロになり酷い首凝りと睡眠障害に悩まされ、また極度のストレスから蕁麻疹などを発症していた。この状況を会社は把握していたが、特になにか手を差し伸べてくれることはなかった。
そんな最中、私は当時のトップと意見の食い違いで関係が悪化し、ジョブローテーションの名目で、島流し的に新浦安のレストランに店長として赴任したのだった。

新浦安店には、2010年4月に赴任した。当時の私は会社からの仕打ちにすっかり不貞腐れていた。一方で、この店で成果を上げてさっさと元のポジションに戻ろうと画策していた。そのために店が現状抱えている問題点を一気に改善しようと躍起になっていた。しかし、店の主力従業員である大学4年生のアルバイトたちの抵抗に遭って、私が発案した改善策は赴任から1年近く経っても、なにひとつ前に進んでいかなかった。

そんな最中、2011年3月11日14時46分、店内で震災に遭遇した。

従業員の間で軽い揉め事があり、ちょっとミーティングでもしようか?いや別にそこまでトラブってるわけじゃないからいいですよ、なんてやり取りをしていたところで、店内に大きな揺れが襲って来た。

店内のお客様に、テーブルの下に隠れる様に促した。同時に、厨房には電気・ガスの元を切らせ、フライヤーの側から離れるように指示を出した。そこまでしたところで、第二波の揺れが到来した。
直後に厨房では2メーターくらいの高さがある冷蔵庫がバタリと倒れ、客席ではメキシコ伝統工芸の置物が地面に落下した。その上、スプリンクラーが誤発砲した。客席に大雨のごとく大量の水が降り注ぎ、店内が水浸しになってしまった。

私はこの建物の避難誘導担当者だった。避難経路を確保するために店外に出たところで、第三波の揺れがやってきた。ついに立っていられなくなり、その場に座り込んだ。目の前でサンプルケース内の棚が崩落し、組み上がっていた料理のサンプル(ゴムでできた料理の見本)がケース内に散乱した。
「遠くでとんでもない大地震が発生しているな。」と直感した。状況を報告しようと、上司に電話を掛けたが、まったく通じなかった。

ようやく揺れが治まったところで、自分の店だけではなくこのレストラン街にいるお客様全員を避難させようと試みた。しかし、非常口にいたる通路もスプリンクラーが噴射しており、大勢の人を通すことは困難だった。仕方なく、エスカレーターを降りて正面入り口から避難するようにフロアのお客様を誘導した。
お客様に続いて従業員も全員避難させた後に、自分も建物を出たところで駅前の広場に視線を移す。なんと、広場は液状化をはじめていた。放置自転車が地中に沈んでいく。改札前の階段は傾き、エレベーターの前は地割れが起きている。

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私は、駅ビルの2階出入口の前から、壊れていく駅前広場をただ茫然と眺めていた。

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などとあの日のことを思い出しながら歩いていると、ちょうど建物の2階出入口の前で、14:46を迎えた。

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ここで黙祷を捧げることにしよう。


黙祷の後、今度は駅前広場に降り、震災で生じた亀裂が今どうなっているかを確認した。

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以前はこんな感じだったが、

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すっかり元通りになっていた。
ただ、よく見ると元々平らな広場だったところに若干傾斜が付いている。また、実際に歩かないとわからないが、路面に不規則な凹凸がある感覚を足裏がとらえる。

そろそろ走る準備に入ろうか。日が暮れる前には走り終えたいところだ。

駅前広場の向こう側にある建物。かつてはダイエーだったのだが、イオンに変わっていた。運営会社が変わる際にリニューアルをかけたのだろう。以前はけっこうボロめの内装だったが、すっかり小綺麗になっている。買い物客で賑わうフロア内を対角線上に進み、小綺麗なトイレで着替えた。そして、正面入口横にあるコインロッカーに荷物を預けた。ここもSuicaが使えるようにリニューアルされていた。

さあ、準備は万端だ。新浦安の街に向かって走り出そう。

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駅前広場をスタートし、まずは右折して海に向かって走る。
少し進むと右手に明海大学のキャンパスがある。日曜日×春休み×コロナ禍のトリプルパンチで、人影はまばらだ。一方、歩道を歩く通行人は多い。いかにも休日の昼下がりらしく、家族連れが多く目に付く。

少し進むと、一気に歩道が広くなる。歩行者と自転車の通行路が、街路樹を挟んで明確に分けられるほどだ。都市計画がしっかりとなされた上で開発された住宅地なのだろう。歩道に木漏れ日が降り注ぎ、心地よく走れる。
しかし、ランナーは歩行者の道を走れば良いのか、それとも自転車の方が邪魔にならないのだろうか? 迷いながら、心の中で蛇行しながら進んで行く。

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さらに進むと、街路樹は椰子の木に変わり、一気に視界が開ける。青空が広がり、ちょっとしたリゾート感が感じられる。

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今走っているような目抜き通りは、セレブが住むタワマンやリゾートホテルが目について、高級住宅地の趣きがある。しかし、通らなかった駅裏の方には公団住宅が山ほどあり、まったく違う雰囲気だ。そういえば、私の店のお客様の多くは、公団に住んでいる人たちだった。

椰子の木に沿って進むと、大きな交差点に差し掛かった。この一帯は特に液状化の被害が大きく、配水管が地中に飛び出たり地割れができていた場所だ。TVのニュースでも頻繁に取り上げられていた。

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信号待ちのタイミングで、周囲を見渡す。ぱっと見では、ここで10年前に液状化が起きたなんて信じられないくらいにすっかり元通りになっている。それでも、横断歩道の横、車道の段差だけは今でも少し残っていた。

当時の私は、この一帯の被害状況に胸を痛めながらも、じつはこの辺りに住んでいるセレブな住民にはあまり良い感情を抱いていなかったので、ライフラインが寸断されて困っている彼らを見て「ざまあみろ」という感情も少なからず持っていたのだ。
そんな、すっかり忘れかけていた感情も、心の底の方からフッと湧いてきた。

信号が青に変わった。ふたたび走り出そう。
海まではもう少しだ。進みながら、また当時の感情が次々と湧き上がってくる。

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目の前で液状化する駅前広場に茫然とした私は、とにかく情報を得ようと駅まで動いた。改札前まで来たところで、目の前のモニターに映っていたのは、町を飲み込む津波の映像だった。そして太平洋沿岸に発令された『大津波警報』。映し出された日本列島図の右側が真っ赤に点滅し、警告音が鳴っている。
このままここにいたら津波が来て死ぬなと思い、私は駅ビルの4階にある自分の店へ戻った。幸いにも津波はここまでは到達しなかったが、電車も不通になり、新浦安は陸の孤島と化してしまった。私は、水浸しの店内に椅子を8脚並べて横になり、一夜を明かした。

翌日は、朝一でシフト通りに出勤して来た大学4年生Aに起こされた。しばらくすると出勤予定のない大学4年生Bも現れた。とりあえず、3人がかりで倒れた冷蔵庫を元に戻した。そうこうしているうちに卒業旅行帰りの大学4年生CDも現れた。5人がかりでテーブルと椅子を外に出し、水浸しの客席の床を掃除した。初めて彼らと気持ちを一つにして働いた気がした。不思議な感覚だ。
彼らの歴史や想いも、この店には刻まれているのだ。それは後から来た上司の私がなにを振りかざそうが変わらないし、指示や命令で簡単に変えられるものではない。そんな当たり前なことに、私はその時はじめて気付いたのだった。

客席以外にも配管の破損などもあり、店の復旧には一週間以上かかった。それでも私の店はマシな方だった。地域の上下水道はこれ以上にダメージを受けており、復旧に1ヶ月以上掛かったのだ。公園には仮設トイレが並び、自衛隊が給水車を出してくれた。シャワーを浴びるためには、電車に乗って出掛けなければならない始末だった。
従業員たちとは、だんだんと同じ境遇にあるもの同士での連帯感のようなものも生じてきた。お店の雰囲気は日に日に良くなっていった。

しかし近隣のお客様は外食どころではなく、ディズニーランドも休業中であり、お店の売上は苦戦した。

上司である営業部長や担当役員も心配してくれて、様々な策を一緒に立案してくれたが、トップの人間にことごとく却下された。彼にとっては首都圏に被災地などないという認識だったのだ。
挙げ句、震災後3ヶ月の売上低下の責任をすべて私が被ることになり、給料も減らされてしまった。

当時の私は「震災に人生を狂わされた」と、我が身が置かれた境遇を呪っていた。

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当時のことをいろいろと思い出しながらしばらく走っていると、スタートから3kmほどで、海に突き当たった。

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海沿いには、浦安総合公園が整備されている。2008年にできたというこの公園の存在を、私は今はじめて知った。2年以上新浦安で仕事をしていたのに、地域のことを知ろうとする余裕が当時の私にはまったくなかったということになる。

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公園は家族連れやランナーを中心に賑わいを見せている。コロナの影響で休日といえども遠出は憚られるから、特に人が公園に集中するのだろう。芝生にテントを張ったり、凧を上げている人も多い。

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住民のうち比較的セレブ的な人たちが多数を占めているような印象だ。みんな一様に、日曜日の昼下がりを満喫している。とても楽しそうな光景だ。

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当時は「セレブ系の住民は自分の店とは関係ない」と視界から外していたが、この街では彼らの暮らしも間違いなく営まれているわけで、当時の自分がいかに視野狭窄に陥っていたのか、改めて思い知った。

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海沿いの公園を1kmほど走り抜けたところで、ふたたび突き当たりになった。右に曲がり、一旦内陸に戻る。道なりに進んでいくと、道の両側にそびえ立っていたタワマンの姿は消え、工場や倉庫が並ぶ一帯に入った。

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先ほどまで感じていたハイソな雰囲気は、微塵もなくなってしまったが、この一帯は私の地元である京浜工業地帯に似た雰囲気がある。走っているうちに、徐々に気分が和んでいく。

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日曜日なので人影もほとんどなく、快調に走り続ける。しかし、新浦安の近辺にこんな地域があったとは気付かなかった。

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その名も『鉄鋼通り』。ここを経由することで、この街に対する心理的な距離感がグッと縮まった。

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さらに道なりに右・左と曲がり、鉄鋼通りの端までたどり着いた。ここから、目の前に架かる橋を渡れば舞浜地区に突入だ。コンビニで小休止して、ドリンクを買おう。

休憩しながら、当時のことをまた思い出していく。

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新浦安の店は売上がなかなか回復せず苦労を重ねた。主力メンバーだった大学4年組は卒業してしまった。私は、自分で採用した従業員を中心に据えて、地道にリピーターを獲得する策を取ることに尽力した。
なにも、そんなに大げさなことはしていない。必要なことは、美味しい料理を出して感じ良く接客するだけだ。そのようにごくシンプルなことを繰り返した結果、翌年1月になんとか前年の売上を超える事ができた。震災から暦がひと回りする前になんとか結果を出すことができて、心の底から安堵を覚えた。

店の業績が回復したことを区切りとし、ほどなく私は会社に辞表を提出した。この会社にいても、今まで担当した以外の新しい業務を担当できる見込みはなかった。そしてなによりも、一度しかない人生をこのトップの下で過ごすのはごめんだった。震災を通して私が一番真剣に自問自答したことが「一度しかない人生をいかに過ごすか?」だったのだ。

そういった経緯で新卒から15年以上勤めた会社を勢いよく辞めてはみた。しかし、前途は洋々ではなかった。直近の職務が店長だとほとんど店長職の求人にしか引っかからないのだ。
こうなったら腹を括って一から出直す覚悟で、引き合いがあった会社の中で最も業態の幅が広いところに転職した。自分の引き出しを広げるために、今までに経験したことがない業態もやってみたかったのだ。

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だんだんと日が傾いてきた。考え事ばかりしていないで、先を急ごう。休憩を終えて、ふたたび走り始める。

しばらく直進したところで、突き当たりにぶつかった。このあたりは埋立地なのに、なぜか目の前には山がそびえている。海底火山かなんかだろうか?
などととぼけてみたが、もちろんこの山は偽物で、この先のあるのは東京ディズニーリゾートである。

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このまま直進すると入場料を取られるので、左折して海に向かってしばらく進む。右手がディズニー、左手に運動公園がある。この両者を隔てる片側2車線の広い道をひたすらまっすぐに走る。休憩の効果もあって、ペースが上がる。快調に1kmほど進んだところで、海に突き当たった。

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海沿いの堤防が遊歩道になっている。ランナーも多いが、親子連れや若者の集団も目に付く。広大な海を目の前に、ここにいるすべての人たちがのんびりと過ごしている。私も一転してペースを緩めて走ることにする。左手に東京湾・右手にディズニーシーを眺めながら海沿いを進む。

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左手では、海に向かって陽が傾いていく。先ほどよりも雲が多くなってきた。雲ごしに太陽を見る。太陽が、徐々に海に近づいて、まるで吸い込まれてくかのように錯覚する。そして、吸い込まれれば吸い込まれるほどに反射した日の光が海面に広がり、太陽の存在感がどんどん増していく。
海は波も少なく穏やかだ。夕凪とはこのような状態を指すのだろうか?

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一方右手では、ディズニーに建造された偽物の山が、なかなかの勢いで噴煙を上げている。ディズニーリゾート内をつなぐモノレールも走っている。なかなか非日常的な光景だ。しかし、これくらいの遠景で眺めると、なぜか内部にいる時よりも偽物感が強く感じられる。
左手の方を眺めながら走る方が、断然楽しい。

そういえば、ここに見える海の対岸の方、お台場にも思い出があったのだ。

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転職した会社は大阪に本社を構えていた。その会社は、ちょうど関東に本格的に進出するタイミングだった。人材の供給が追いついていなかったため、私は入社早々に当時社内で最も売上が高かったお台場店の店長をいきなり任された。
関東地方全部で8店舗しかなかったのが、3年間で30店舗まで増えたので、私もしばらくは様々な店のオープンを担当した。行く先々の新店で、新人の従業員や店長候補の社員を育成しながら、店の運営を軌道に乗せることに専念した。
その業務は前職を超えるほどの忙しさだった。私生活は以前にも増してなくなっていたが、とても充実した日々を送っていた。

そして、転職してから3年が経った2015年に転機が訪れた。会社が労働基準法違反で書類送検された。そのことによって、現場の労働環境が一気に改善されたのだ。
なんと、週休2日とか残業の上限が月30時間とか、今までよその世界のルールだと思っていたこと次々に実現されていった。

突然、学生時代以来に人並みの可処分時間を手にした私は、ひさびさに『趣味』に費やす時間と精神的な余裕を得た。休日に寝て過ごして終わることはなくなり、映画や舞台・展覧会などを観て回るようになった。また、遅ればせながらAKB48にハマってしまい、日本全国の常設劇場に遠征するようになった。これをきっかけに、アイドルとは関係なくても、暇を見つけては旅に出るようになった。
仕事一筋だった今までとは違ったかたちで、40歳を超えてから、私の人生が充実しだしたのだ。

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自分の思い出をなぞりながら海沿いを走り続け、道なりに右に旋回する。右手のディズニーは見えなくなり、リゾートホテルが立ち並んでいる。左手には葛西臨海公園が視界に入ってくる。

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観覧車がひときわ目に付く。

新浦安に来てしばらく、なにをやっても上手く行かなかった頃、口実を見つけて店を離れ、葛西臨海公園で時間をつぶしていたことを思い出した。なにをしていたかは思い出せないが、ただただ途方に暮れていた。自分では認めたくなかったが、本当は震災に遭う前にすでに私の人生は狂いはじめていたのだ。
そして今振り返ると、私にとっては震災がスイッチとなり人生のギアを変えることに成功したのだ、と感じる。もしあのまま以前の会社で以前のように仕事を続けていたら?と想像するとゾッとする。もう私の命はこの世にはなかったのではないかと、本気で思う。

ついでに、記憶の扉が開いた。
2010年に職場放棄してサボっていた葛西臨海公園で、2019年にはバーベキューを楽しんだのだった。バーベキューの10日前、私は『趣味』のランニングの途中で転倒し利き腕の手首を骨折し、手術をしたのだ。それでも退院した翌々日にはもうバーベキューに参加して、そこで飲食業の血が騒ぎ、率先して肉を焼いていたのだ。それも、折れている方の手で。しかも、会社は休んでるのに 笑。

などと、いろいろと回想している間に、舞浜駅に到着した。シンデレラ城の上に夕焼け空が広がっている。ここをゴールとしよう。

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ここから一駅戻って、新浦安で荷物を回収することにする。新浦安に戻る電車の車中で、ふと思う。

あれから興味の赴くままに、いくつか転職をした。
今はコロナ禍の影響で飲食業界自体が大打撃を受けている。一寸先は闇だ。遂に今勤めている会社も飲食事業からの撤退を決断し、私の今の業務は事業清算だ。ところが、こんな状況でも先行きにあまり不安は感じない。
この10年で自分にはできることが増えたので、環境が変わっても自分ひとりが食べて行くくらいの稼ぎは難なく得られるだろう、という安心感があるからだ。

震災によって多くの貴重な命が失われて、心の傷を今でも抱えている方々も多数いらっしゃる。私にも心の傷は少なからず残っている。今後も被災地と何かしらの関わりを持つことによって、互いの傷を癒やしあっていきたい。
しかしその一方で、自分にとって震災はネガティヴなことだけではなかったのだなと、今回新浦安を走ったことで改めて実感したのだ。


次回予告

倉敷で『夜景』を走る


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