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いわきで『蜃気楼』を走る “ 旅先で『日常』を走る 〜episode8〜 福島編 ”

前回のあらすじ

内原で『一駅』を走る

" 走ることで一駅の長さを体感し、距離感を更新する。これも走るという行為がもたらす豊かさのひとつである。そして旅ランにPコートを着ていくことはご法度である。"


いわきで『蜃気楼』を走る

前回の茨城編でも書いたが、私は2012年に3ヶ月間、長期出張で水戸市に滞在していた。
滞在3ヶ月目に入り茨城暮らしにも慣れてきた頃、休憩時間にtwitterのタイムラインを眺めていると、友人の娘さん(4歳)が闘病しているというツイートが目に入った。

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彼は私の高校時代の大親友であり、卒業後も引っ越しを手伝ったり、彼がひとり暮らしをしている部屋にご飯を作りに行ったり、都立大学の半年分の学費を貸していまだに返済の目処が立っていなかったりと、なかなかの尽くす女っぷりを発揮している関係である 。あまり『彼』と連呼していると、まるで私か彼女面しているように見られかねないので、今後は彼のことは『O氏』と称することとする。

O氏は塾講師のアルバイトを勤めながら大学院で物理学の博士課程を修了すると同時に、学徒としての緻密で論理的な態度とは正反対な、『授かり婚』という計画性に欠けるイベントを消化した。
O氏が結婚したという報告を、私は名古屋の事務所で受けた。当時の私は、社内で最も売上規模が大きいエリアを担当しており、自分の実力では手に余るほどの重責を担っていた。心身ともに1mmの余裕もなく、彼の門出を心から祝うことが出来なかったことを今でも後悔している。なんとなく気まずくなって、それから7年ほど音信不通になった。

転機になったのは東日本大震災。当時私が担当していた新浦安の店も物理的に損壊し、休業を余儀なくされた。自宅待機の日々を送る。延々と繰り返される津波やメルトダウンの報道に嫌気が差し、SNSなど始めてみる。そこで再度繋がったのが、O氏を含む高校時代の友人たちだった。

そんなO氏の娘さんに降りかかった一大事だ、なにか少しでも力になれることはないか? そこで思い出したのは、姫花ちゃんのことだった。

福島県いわき市立豊間小4年だった鈴木姫花(ひめか)さん(10)は幼いころから絵を描くのが好きで、絵画コンクールでたびたび入賞した。「十年後の自分へ」という作文に「デザイナーになっているか、デザイナーになるため勉強しているのかも」と夢をつづってまもなく、震災で亡くなった。
(中略)
復興支援プロジェクト「やさしいハンカチ展」の一環として、姫花さんの絵をあしらったハンカチを制作した。

“デザイナーを夢見た10歳の少女 姫花ちゃんのハンカチ”


若い命が理不尽にも奪われてしまったことに対して、当然ながら深い悲しみを感じた。しかしそれを上回るほどに、姫花ちゃんが残した『絵』そのものに私は興味を持った。

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なによりもこの絵が持つ色使いの鮮やかさやキャラクターの躍動感がすっかり気にいってしまったのだ。そして姫花ちゃんのハンカチについて情報を追っているうちに、twitterで姫花ちゃんのパパと相互フォローになっていた。

そういった経緯があって、どのような思考回路の果てにそれを思い付いたのか覚えていないが、「O氏の娘さんに『姫花ちゃんのハンカチ』を御守り代わりに送ろう」と、私は決意したのだ。

2012年10月頭、常磐線に飛び乗り一路いわきへ。
いわき駅前のバスターミナル、一時間に2本しか出ていない路線バスに乗り、『姫花ちゃんのハンカチ』を販売している売店がある塩屋埼灯台の入口に向かった。道中スマホに視線を落としていて、「そろそろ着くかな?」と視線を車窓に向けた次の瞬間… 私の視界には想像を絶する光景が存在していた。

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あたり一面、見渡す限り目に入るのは津波に破壊された無数の建物の基礎、そしてなぜか大量の枯れたヒマワリの花。

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ガレキに花を咲かせましょうプロジェクト

この場所で一年半前に起こった大惨事が、マスコミの報道を通してではなく、その残骸を目の当たりにすることで一気に自分に対して距離を詰めてくる。胸が締め付けられる。正視に耐えない。思わず合掌する。亡くなられた多くの方々のご冥福を強く祈った。
そして、思慮の浅い善意が持つ醜さも同時に思い知ることになった。津波に襲われた街の残骸に、不自然に林立する枯れたヒマワリ。私には死者への冒瀆にしか見えなかった。「咲かせた花の後始末くらい自分でやるべきじゃないですか?」と心の中で叫んだ。

気を取り直して、塩屋埼灯台の入口でハンカチを販売している『山六商店』まで歩みを進める。店内では半分くらいのスペースで震災の写真が展示されていた。津波に街が飲まれる様子がつぶさに記録されていた。他にお客様も見あたらなかったので店員さんになにか話しかけようかと思ったが、この方も間違いなく被災者だろうと、思い直してなにも聞かずにハンカチだけ買って店を出た。なぜか8枚も買った。

映画『喜びも悲しみも幾歳月』の舞台となった塩屋埼灯台。ぜひ登って見たかったが、地震によるダメージが大きく改修工事中で立入禁止だった。残念だが仕方ない。またいつか、この地の復興が進んで灯台も再開した頃にもう一度来よう。
近くにあった美空ひばり『みだれ髪』の歌碑を冷やかし、くるりの『ばらの花』MV撮影場所になった薄磯海岸をぶらついて、帰りのバス停に向かった。

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バス停に向かう道すがら、夕立に見舞われた。傘の持ち合わせはない。
小走りにバス停の傍にある木陰に避難した。さっき買ったばかりのハンカチを一枚おろし、びしょ濡れになった頭や顔を拭った。

帰宅後すぐにO氏にハンカチを2枚(ふたり姉妹なので)送った。その後、幸いにも娘さんの病状は回復した。

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後日、塩屋埼行きをツイートすると、姫花ちゃんのパパから「今度近くに来たら寄ってください。」とリプライをいただいた。

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しかし、それからしばらくして、姫花ちゃんのパパはtwitterアカウントを閉鎖した。


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その後ずっと、事あるごとに「そろそろ塩屋埼灯台に行かないとな」と考えながらもなんとなく気が進まずに7年ほどの時が経過した。
2019年8月頭、当時山本寛監督がいわきを舞台とした『薄暮』という映画を完成させ、日本中で順次劇場公開していた。「どこに行けば見られるのだろう」と上映館を探したところ、なんと一番近い映画館はいわき駅前にあった。これもなにかの縁だろうと、一念発起して東京駅から高速バスに乗り、一路いわきに向かう。

いわき駅には昼頃到着した。目当ての映画は17:20からの上映だ。チケットだけ先に購入した。駅ビルのトイレでランニングウェアに着替え、コインロッカーに荷物を押し込んで、ひとまずバスで塩屋埼に向かった。7年前と同じ路線バスで7年前と同じバス停に着いた。あたりを見回す。同じ場所とは思えないほど様相が変わっている。

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全体的に盛土され、防災緑地も整備されている。一方であたり一面を見回しても、再建されたと思しき民家は見当たらない。この辺りで暮らしていた住民たちは高台に引っ越したのだろうか?
再建された防潮堤の上部が道になっている。登ってみる。防潮堤の向こうには薄磯海岸だ。なんと、多くの海水浴客で賑わっているではないか。

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元々このあたりでは人気の海水浴場だったらしい。津波が人々の暮らしを掻っさらって行ってから8年あまりで、いわきに暮らす人たちは日常をなんとか取り戻すことができたのか?それとも忘れたふりをしているだけなのか? いやもしかして、そもそもこの人たちは被災者ではないのではないか?

歩みを進める。美空ひばりの歌碑を越えて塩屋埼灯台へ。海水浴場の賑わいとは対照的に、灯台を訪れる人はまばらだった。展望台に登る。海岸沿いの街並みや太平洋沿岸が一望できる。薄磯の海水浴客がひときわ目立つ。その日の気候のせいだろうか、灯台の上からだと、海水浴場がまるで蜃気楼のように見えた。

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階段を降りる。灯台の内部に建立から今に至るまでのさまざまな資料が展示されている。もちろん、姫花ちゃんのハンカチも飾られていた。

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灯台を出て山六商店へ。この建物だけは綺麗に建て替えられていた。レジ横のスペースで、姫花ちゃんのハンカチも販売されていた。店内を軽くひとまわりした後、店頭でかき氷を注文し駐車場の縁石に腰掛けて食べた。なにしろ気温は軽く30℃を超えている。走り出す前にだいぶスタミナを消耗してしまったのだ 笑。
食べながらスマホをポケットから取り出し、GoogleMapとランニングアプリ『Strava』を起動する。いわき駅までのルート設定をして、出発だ。


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しばらくは海沿いを走る、とGoogleMapは表示している。しかし海沿いの道路は防潮堤の内側にあり、まったく海が見えない。ほんの数m先の世界は海水浴客でごった返しているはずなのに… まるで別の世界の出来事のように感じる。先ほどこの目で見たはずの光景は幻だったのか?
このあたりでは海に近付けば近付くほど、海との距離感が遠ざかるようだ。

一方で舗装されてからまだあまり日が経っていないと思われるまっすぐな道は、車の通りが少ないこともあって非常に走りやすい。自動車どころか歩行者ともほとんどすれ違わない。

4kmほど走ったところで滑津川にぶつかる。ここで左折し川沿いを登って行く。登るといっても道のりは平坦で変わらず走りやすい。最初は土手の上をしばらく走り、分岐した道を進むといつのまにか農道を走っている。農道を走りつつ左手に見える川面を眺めていると、いつの間にか民家の裏庭に至っている。壁沿いの狭い通路を抜けて、また舗装されていない道をしばらく進む。川沿いの道が突き当たりに差し掛かったので、仕方なく県道に出る。走りはじめと同様に平坦な道のりで、とにかく走りやすい。しかしいくら走りやすいとはいっても、気温は34℃くらいある。7kmを超えたあたりでバテてくる。自販機でお茶を買ってしばし小休止する。
川沿いの道は絵に書いたような、アニメにでも出てきそうなのどかな田舎道。しばらくなにをするともなく眺めていても飽きることがない。しかし映画の時間も近付いている。先を急ごう。

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国道を経由していわき市街地に出る。さすがに交通量は多い。しかし相変わらず歩行者がほとんどいない。人口30万人を超える福島県最大の市ではあるが、震災の影響なのかそれとも別の要因なのか、過疎化が見受けられる。
10kmほど走り抜けていわき駅に到着。コインロッカーの荷物をピックアップしてトイレで着替え、『薄暮』を観るとしよう。

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18:20、映画館を出て駅前のベデストリアンデッキから空を見上げる。視界に入ったのは、さっき映画で観た景色にそっくりな、美しい薄暮の空だった。

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映画の中ではこの空の他にも、先ほど走ったばかりの川沿いの道によく似た景色もたっぷり描かれていた。
この川は2ヶ月後の台風で氾濫を起こし、流域は多大な被害を被ることになった。被災と復興の繰り返し。なんともやりきれないが、自然と共生するには、その恵みを享受するとともにリスクも引き受けなければならない、ということなのだろう。


8年前の大震災と津波によって壊滅した沿岸部は近くにある原子力発電所の事故を発端とした風評被害まで背負わされ、復興には大きなハードルが立ちはだかった。8年以上の時を経て、津波が流してしまったいわきの日常は、今までとは違ったかたちではあるが回復されつつある。多くの方々の尽力の賜物であり、良いことだと思う。

しかし、今回いわきに7年ぶりに足を運び、被災地から市街地まで走った結果として、手放しでは喜べない感情も存在するのだ。

いわきの美しい空と隠された海。そして人気のない街。次の世代に残さなければならないものは何だろう? それ以前に、なにか残したところで過疎化に歯止めは掛かるのだろうか? なにより、津波がすべてを飲み込んでしまう以前の思い出を抱えて、ここで生きて行かなければならない人たちは、どのような形の復興を求めているのだろうか?
すべてが見えない。あの日、津波で大切なものや人を流されてしまった人たちは今、いったいどこにいるのだろうか? 姫花ちゃんのパパは、今どこでなにを思って暮らしているのだろうか?


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ダケドコンナニ 胸ガイタムノハ ナンノ花ニ タトエラレマショウ?


そして、姫花ちゃんが今のいわきを見たら、この景色をどのように切り取るのだろうか?




 次回予告


大槌で『復興』を走る

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