《創作大賞2024:恋愛小説部門》『友人フランチャイズ』第8話 狐の嫁入り 41~
《第3章 第2節 狐の嫁入り 41~》
帰り道、ふと水穂ちゃんが、「拓星って何で拓すに星って名前なの?」っと僕の名前の由来を聞いて来た。
確か昔、お母さんと僕の絵を見に行った帰りに、お肉屋さんで買った熱々の牛肉コロッケを食べながら話してくれた事を思い出した。
「んー。確かお母さんが僕を産んで、初めて僕が泣いた時に、星みたいだなって思って、抱っこした時に幸せだって感じたから、幸せを拓いて、集まる人の心を星みたいに照らせる様な人になって欲しいって、願いを込めたって教えてもらったな」
「素敵だね。お母さん絶対いい人じゃん」
「え?怒ると怖いよ?──でも、僕が小学生の時、絵画のコンクールで賞を獲ったら、僕より張り切って、スーパーの屋上とか公民館とか、連れて行かれたよ。帰りに、1番上手だったねって褒められながら、お母さんと食べる牛肉コロッケが美味しかった」
「へー。いいなー。牛肉コロッケ。仲良しなんだね。お母さんと」
「この歳で言うのも何だけど、お母さんには凄く感謝してるよ。これ以上は恥ずかしいから、次は水穂ちゃんの番。何で水に稲穂の穂って書くの?」
「えとね、水穂は私のお父さんがつけてくれてね。稲穂って綺麗な水とその水が穏やかになっていないと育たないんだって。だから、私と私に関わる人の心に沢山の稲穂が実るように。って願いを込めたって小さい時に、クジラみたいな背中に、おんぶしてもらいながら、教えてもらったなー」
「そしたら、自己紹介の時に言ってたジャブーン、ジャブーンの水じゃ、稲穂育たないじゃん」
「あっっ。」
そんな会話をしながら、国道沿いの郵便局の角を左に曲がる。すると、周りの雰囲気が住宅街へと変わり、所々点滅する街灯の下を、歩きながら坂井酒屋を通り過ぎ、最初水穂ちゃんと会った場所を通過する。
そして、赤いポストがある角を左に曲がり、小道に入ると、水穂ちゃんが「門番だ!」っとちょろちょろと浴衣の裾を気にしながら走り出し、ある建物の敷地へと入って行った。
後を追い、敷地に入ると、袋状にブロック塀が建てられた土地の真ん中に、蒲鉾板を横に倒したような、木造アパートが建っていて、時々吹く風にガタと音を建てながら、何とか耐えている。
2階建ての木造アパートは、下の階が4部屋と錆色に塗られた階段を登って、上に4部屋。玄関の扉の上に、おまけ程度の蛍光灯が付いていて、8部屋の内2部屋がチカチカと点滅していた。正直、貧乏学生の僕が住んでいる、ワンルーム3万4千円のアパートよりも古く見える。
2階の踊り場で、水穂ちゃんは遠目からでも分かる、巨大な岩の様な男性と話していて、僕に気づくと、手招きした。
正面の階段をギジリと鳴らしながら、2階に上がる。すると、急に僕の足がすくんだ。踊り場の先で、ニコニコしている水穂ちゃんの後ろに、煙を吐きながら、腰まで伸びた髪をブワブワと靡かせ、ゴロンっと転がるように立っている巨大な岩のおじさんが、僕を睨みつけているからだ。
少しづつ水穂ちゃんに近づき、2メートルくらいの所まで行くと、タバコの匂いとそれに混じる甘い香水の匂いが、僕の鼻を擽る。その瞬間、危険です。と身体から信号が出され、足がピタっと固まって停止した。そんな僕を煙を吐きながら、まじまじと舐めるように観察している。そして、僕を見下ろすように巨大な岩のおじさんが口を開いた。
「水穂。言ってたヤツってこいつ?」っと。
低音で空気が細かく震える声に、水穂ちゃんは「そう。そう」っといつもより1つテンションが上げ答えた。そして「拓星と門番は初めまして。だよね?」っと、煙を吐く巨大な岩のおじさんについて僕に説明しだした。
「この人は門番。前、話した事あったよね?ゴリラゴリラゴリラ門番。見た目は怖いけど、私のお兄ちゃんみたいな、お姉さんみたいな感じの人で私の雇用主」
お兄ちゃんのようで、お姉さんみたいな人。って所に疑問を抱いた。けれど、それより、目の前の巨大な岩のおじさんが恐ろしくて、でも、この流れは、自己紹介しなきゃ失礼だよね。失礼って思われたら、踏み潰されるよね?っと自分の防御センサーが働き、目の前の巨大な岩のおじ……いや……門番……さん。に僕の頭の中にある、あらゆる言語をかき集めて、棚卸しした。
「は……初めまして……僕は、こ……小絲 拓星って言います。年齢は18歳で、そこの……び……美大に通ってます。絵が……好きです。こんな……夜、いや、朝……まで、な……波森さんを……お預かりして……も……申し訳ありません!」
門番さんの放つ迫力に、頭がショートしていると、その自己紹介を聞いていた水穂ちゃんは、近所迷惑にならないように、腹を抱えて、小さな球体になると、クククっと声を漏らして笑っている。
門番さんは、口から太い煙をボワっと出すと、横の柱でタバコを消し、次はその口で僕を食べるつもりなのか、匂いを嗅ぐように僕を見ている。
「あー。おもろ」っと水穂ちゃんは立ち上がると「緊張しすぎだよー。しかも、お預かりしてって……ククク……私はペットか!!……ククク……やばい。──それと、門番は拓星を見過ぎ!圧ありすぎ!お店の時とは雰囲気、全然違うよ!あれをちょっと、出した方が可愛いのに」
そう言って門番さんの肩をペチっと叩くと、「ふん」っと門番さんは鼻で鳴いた。
「じゃ、門番。今日もありがとう。でも、もう私も20歳なんだから、帰り待ってないで早く寝てよ」っと、瑞穂ちゃんは笑った余韻が残る横腹を抑え、目の前の蛍光灯がチカチカ光る部屋の扉を開けると、僕に「どうぞ。でも、びっくりしないでね」っと中に入るよう促した。
一瞬、え?びっくりって何?っと思ったけれど、檻の中で屠殺を待つ小動物の前に、いきなり開いた逃げ道に続く扉。僕はその扉の放つ光明に歓喜し飛び込んだ。
僕が入り、そのあとを水穂ちゃんが続く。そして、後ろの玄関の扉がゆっくりと閉まりはじめる。すると、閉まる扉の隙間から「水穂。何かあったら、壁叩けよ」っと、逃した小動物に吐き捨てるような声色が、僕の後から聞こえ、恐怖の余韻を残すと、完全に扉が閉まった。そして、それに続くように玄関の壁を挟んだ隣の部屋の開閉音が聞こえると、カチャっと鍵を閉める乾いた音が響いた。
「ほらほら、隣の部屋に門番が住んでるけど、私は一人暮らしだから気にしないの。バケツそこに置いていいから早く靴脱いで」っと、台所の電気を付け、固まった僕の背中を水穂ちゃんが押す。
急かされるままに僕は、玄関を入ってすぐ左にある台所の流しの前にバケツを置くと、お邪魔します。っと靴を脱ぎ部屋に入った。
キシリと床板が鳴く台所は、冷蔵庫と食器棚などの家具があるせいか、大人3人が立つだけでぎゅうぎゅうになりそうな広さ。玄関から見て正面は引き戸が閉まっていて、奥の部屋の様子は見えないけれど、多分、メインの生活スペース。台所は全体的に茶色で統一された板張りの壁。
水穂ちゃんが、台所はなかなか狭いですが。っと僕と冷蔵庫の隙間に、体を入れると食器棚からインスタントコーヒーを取り出し、2人分用意してくれた。そして僕にインスタントですけど。っとマグカップを手渡すと、引き戸を開け隣の部屋に入って行く。そして、天井から吊るされた紐を引くタイプの電気を、カチャカチャっと2回鳴らすと、部屋全体の光景がはっきりした。
一言で言えばシンプル。台所と同じ茶色の板張りの壁で正面には白のカーテン。10畳ほどの畳の部屋に引き戸の押し入れ。一人暮らしには少し大きい丸テーブルがあり、その前のテレビ台に乗った液晶テレビ。そしてその横の……
ふと、部屋を観察する流れで、テレビの横の3段ボックスに視線が向く。すると、僕の胸が突然キュッと音を立てて苦しくなった。
「門番なら大丈夫だから、こっちに来て座って。エアコン付けるから」
いや。多分ここに固まって立っているのは、門番さんのせいだけじゃない。そこに飾っている写真は何?茶色いタオルを頭に巻いてる男の人と、赤い花のネックレスを付けて笑った、僕のお母さんと同じ年齢くらいの女の人。何で2人の写真の前には、線香の燃えカスと2つの位牌があるの?
僕の視線に勘付いたのか、水穂ちゃんは棚に飾ってある2人の写真を丸テーブルの上に置き固まっている僕の方に向けた。
「拓星。2人を紹介するね。まず、こちらがお父さんで、こちらがお母さん。そしてお父さん、お母さん。紹介するね。この人が小絲 拓星くん」
そう言って、僕に挨拶をするように2人の写真を少し傾けた。
「ほら。拓星もこっちに来て、挨拶」
そう促された僕は、丸テーブルの前に正座すると2人の写真と向かい合い、お辞儀をした。
「びっくりしないでねって言ったけど、びっくりするよね。でも、そんな悲しい顔したら駄目だよ。私は2人と拓星を逢わせる事ができて嬉しいんだから」
今まで、あんなに無邪気だった水穂ちゃんの暗い部分に触れて、心がざわついた。確かに門番さんに対しての恐怖が支配していた。けれど、それを通り越して、目の前にいる水穂ちゃんの元気そうな姿がなんだか……。
「大丈夫。私は強いよ。お父さんとお母さんにずっと愛されてたから。今は門番もいるし拓星もいるから。私は幸せ」
水穂ちゃんはそう言うと、何の翳りのない笑顔を僕に向けた。
昔、テレビで見たお父さんとお母さんがいない子供のドキュメンタリー番組。それを僕は何処か遠い世界の話だと思って深く考えないでいた。何故なら、僕には当たり前のようにお母さんがいたから。でも、水穂ちゃんにはもういなくて……その翳りのない笑顔の裏には、僕の想像の斜め上を行く辛い経験があったはず。僕はそんな水穂ちゃんの悲しみを少しだけでも、背負いたいって思った。
「ねー。もっと水穂ちゃんの事、聞かせて?」
友人フランチャイズ契約を結んだコンビニで見せた、水穂ちゃんのふとした暗い表情。その時、僕はあれこれと考えて真っ直ぐこの言葉をかけれなかった。でも、今は違う。もっと水穂ちゃんの事が知りたい。僕は真っ直ぐに見つめた。
視線が重なった向こうで藍墨茶の瞳の大きな目は、白目の部分を赤く染め、少し分厚い口許をギュッと結んでいる。その表情が慎ましく悲しそうで、僕の太ももに置いた手がズボンの布をギュッと握り締めさせた。
「嬉しいな。嬉しいな。拓星。やっぱり私は幸せ者だ」
今この部屋はエアコンの以外、何も音がしない。時間にしたらおそらく1分。僕の感覚では数秒。その間、目の前にいる人の事を考えた。脳が働き始め、脳内を駆け巡る情報が僕のこめかみを痛くする。でも、少しでも、水穂ちゃんがそんな顔をしないで済むなら、僕の頭の1つくらいあげたっていい。
水穂ちゃんは懐かしむように、視線を丸テーブルの2人へ移すと三月座りになり、顎を膝に乗せた。
「お父さんが私の4歳の時、お母さんは去年死んじゃったの」
「うん」
「お父さんは腕のいい大工さんで、お母さんは飛び抜けて優しい人」
「うん」
「お父さんは、元門番の親方で仕事から帰って来たら、私をおんぶしてくれて、頭に巻いた茶色のタオルを握って、髪の毛についた木のクズを取るのが好きだった。大きな背中にしがみつくのが大変で、クジラみたいだなって思ってた」
「……うん」
「お母さんは、子守唄が凄く上手で、私が眠い時、仕事で疲れていても、いつもお布団の横に入って歌ってくれてたの」
「うん」
「お父さんは仕事中の事故で、お母さんは去年の夏に急に。お母さんには、もっとしっかりお別れを言いたかったな」
「うん」
「でもね、ものすっごく愛されてたって分かるの。だからね、私は寂しくないんだよ」
「……うん」
「うん。しか言わないのね」
「だって……」
聞かせて?って言った。けれど、僕の貧弱な経験じゃ、頭一つを犠牲にしても受け止めれなくて、それより、それを受け入れている水穂ちゃんに、なんて言葉を掛けたらいいか分からなくて、ただ僕は涙でぼやけた視界で、2人の写真を見つめる水穂ちゃんの横顔を見ながら、ズボンの皺を増やすことしか出来なかった。
「ほら。涙拭いて!そんな顔しないで。私からしんみりさせちゃったけど、聞いてくれるだけで嬉しいから」
そして、僕の顔が暗かったのか、いつもの明るい空気に変えるように、さてと。っと水穂ちゃんは立ち上がり冷蔵庫に行くと、缶ビールを蓋をプシュっと開けた。
「へへ。もう朝だけどいいよね。拓星が家に遊びに来てくれた記念。って事で」
何を飲み込もうとしているのか、350mlの缶ビールを一気に飲み干すと、目を赤くして炭酸で苦しくなった胸を抑えている。
私は強いよ。って言ったけれど、水穂ちゃんの心を少しだけでも受け止めたくて、聞かせて?って言った。けれど、あまりにも軟弱な僕の人生経験では気の利いた言葉も掛けれず、息を撒いて分厚い壁に体当たりしてもグニャリと曲がって……それが悔しかった。でも、そんな僕でも何かできるはず。
「ねー。水穂ちゃんのためにできる事、僕にある?」
「なーんもない」
なんもないって……奥歯にぎゅっと力が入った。
そして、冷蔵庫からもう一本缶ビールを取り出し部屋の電気を消すと、水穂ちゃんはそんな僕の左に座った。もう外は明るいのか、正面の白いカーテンの隙間からは朝の光が入って来ている。
「ほらほら、あそこ」
水穂ちゃんが小さく指差す所を見ると、畳の一角にゆらゆらと光が泳いでいる。
2本目の缶ビールを開け1口飲むと、丸テーブルの上に置き、カーテンから漏れている光が逃げないように、膝を抱えて小さくなった。
「今は、ゆらゆら、昼は暖かい陽だまりで、現れる場所はいつもばらばら。そして出てきたらずっとそこにいて、時間が経つと、光が揺れてた場所の畳が暖かくなるの。いつも朝まで起きてる時とか、昼に起きた時に見つけたら、拓星は今、何やってるのかな?って自然と考えちゃうんだ。そしたらね、心が暖かくなるんの。だから、曇りとか雨日は少し残念だな。って思うんだけど、それでも拓星の事を考えたり」
隣に座る僕の手を握ると、水穂ちゃんは自分の膝の上に置いた。そして、細い指で僕の右手を包み込むと、右手に視線を縫い付けるように眺めている。
「会う度に見てた、ここの中指のたことか、ここの爪の間に挟まった、沢山の絵具が混じりあってできた藍色とか、どんな優しい事をイメージして、どんな素敵な絵が生まれてくるのかな?って拓星と会った後に想像してみたりして……私はそれを考える時間が幸せなの。でね、そんな拓星から、私の事を聞きたいって言われた時は夢みたいだな。って思った。だから、拓星は私からこんな話を聞いて、何か特別な事を私にしなきゃって、苦しまなくていいの。拓星は拓星のまま、私の友人でいてくれたら私は嬉しいし、それが私にとっての特別な事だから」
そう言って、僕の右手をそっと太ももの上に返した。そして、ビールを一口飲むと「だから、もう、うじうじタイムはお終い。ほら、お父さんもお母さんも見てるし、いつまでも泣いてたら笑われるよ」っと、ニッといつものように笑い、目の前の2人の写真を小さく指差した。
いつの間にか奥歯を噛み締めているのを止めていて、代わりにこめかみが疼いた。悔しさで震えていた腕も、力が抜けて痺れだけが残っていた。
何も出来なかった。そして、ふわりとまた包み込まれてしまった。僕の頭を1つ犠牲にしたくらいじゃ、まだまだだって思った。でも、水穂ちゃんは僕が友人でいてくれたら嬉しいって言ってくれた。だから、僕は何があってもずっと一緒にいるって決めた。水穂ちゃんのお父さんとお母さんの前で、そう誓って涙を拭いた。
「ねー。水穂ちゃん。僕がずっと水穂ちゃんの1番の友達でいるよ。って言ったら、お父さんとお母さんは喜んでくれる?」
「当たり前じゃん。だって私のお父さんとお母さんだよ?」
「そうだよね」
もう外は明るくなっていた。白いカーテンの隙間から漏れる陽だまりが、僕の座っている畳の前でゆらゆらと形を変えながら、そよいでいる。僕は人肌まで温くなったコーヒーを飲んだ。渇いた喉に甘めのコーヒーは、顎をぎゅっとさせた。けれど、全て飲み終わる頃には、疼いていたこめかみの痛みも、いつの間にか何処かへ連れ去ってくれた。
水穂ちゃんは2缶目を飲み終え、3缶目のビールを手に持ち、こくりこくりと眠そうに体を揺らしている。
時計を見ると8時を過ぎていて、そろそろ大学に行かなければっと、横で眠そうな水穂ちゃんの体を優しく揺する。
「そろそろ大学行かないと」
すると「うん」っと手を付き、バランスをとりながらフラフラと立ち上がった。
「大丈夫?飲みすぎた?」
「少し眠いけど、大丈夫。最後までお見送りするよ」っと、半分夢の中にいるのか、目を閉じながら言っている。
あまりに眠そうに見えたので「大丈夫だから、寝てて」っと体を支えると「大丈夫」っと手を振り解き、そのまま玄関まで歩いて行くと、ペタリと座り込んだ。
待たせないように急いで、丸テーブルに置いてある水穂ちゃんの両親に挨拶をすると、元々あった3段ボックスの上に写真を戻し、合掌した。
目を開け、立ち上がろうとした時、3段ボックスの2段目に置いてある水色の本に目が止まる。
夢日記っと書かれたタイトルのハードカバー。長年使っているのか、角の色が少し剥げていて、年季を感じる。確か、夢日記をつけるのが趣味って言ってたよな。どんな夢を見てるんだろう。少し読んでみたいかも。っと興味がそそられた。
「拓星。それは、秘密だから見ちゃ駄目だよ」
玄関から今にも寝そうな水穂ちゃんの声が、僕のちょっとした好奇心にブレーキを掛けた。
「ごめん。ごめん。眠いよね?もう、出て行くから」
そそくさと玄関へ行き、靴を履いていると、水穂ちゃんは体の力が抜けたのか、頭を垂らして眠りにつこうとしている。部屋の中とはいえ、座っているお尻から、ひんやりとした冷気が伝って来たので、さすがにここに置いて行くのはっと思い、もう一度身体を揺すって起こしてみた。
「水穂ちゃん。見送りはいいからお布団を準備して寝て?風邪ひいちゃうよ?」
一瞬。んっ?あ?っと頭を起こして反応した。けれど、また力を無くした。
時計を確認すると、大学に行かなきゃいけないけれど、まっ。走ればいいかと、靴を脱いで部屋に戻り、丸テーブルを端に寄せ、失礼します。っと押し入れを開けた。そして、部屋の真ん中にお布団を敷くと、台所で力を無くして座り込んでいる水穂ちゃんの横へ行き「お布団敷いたよ」っと声をかけた。でも、その呼びかけに反応せずスースーと気持ちよさそうに寝息を立てている。
もー。だから、お酒飲みすぎなんだよ。っと水穂ちゃんに言い聞かせるように漏らすと、膝の裏と首の後ろに手を回し、水穂ちゃんの体を持ち上げる。ずっとスポーツをやって来なかった僕でも持ち上げれる程の重さに、少し胸がキュッ鳴る。
浴衣の上からでも分かる、僕の左腕に収まる脚の細さと跳ね返る肌の弾力。薄い耳たぶの下の綺麗に揃った頸。プラモデルのような精巧な作りだけど、落としたりしたらすぐに壊れそうな、華奢な体つき。そして、アルコールの匂いが乗った寝息が僕の首筋に掛かって来る。
僕はゆっくりと水穂ちゃんを落としてしまわないように、隣の部屋に敷いた布団に運んだ。
そして、寝かせると水穂ちゃんは横に寝返りを打つ。すると、肌けた浴衣の裾から熱を帯びたピンク色の太ももが露わになった。
少し胸が踊った。でも眠っている水穂ちゃんが何だか微笑ましくて、そっと着崩れを直した。風邪をひかないよう肩まで掛け布団掛けると玄関に向かった。
「拓星……泣いてくれてありがとう」
靴を履いている僕の背中に、小石をぶつけるような声がした。振り向くと布団に顔を押し付け、眠っているようだ。
僕は気持ちよさそうに眠る枕元に「うん。おやすみなさい」っと言葉を転がすと、ゆっくりと扉を開け、眩しい朝日を浴びながら、アパートを後にした。
《第3章 第2節 狐の嫁入り 41~ へつづく》
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