権威と正義の便乗者に騙されるな
Zmaskの弾きこもり語り2
200823
価値の押し付け
人間って本当に我がままですよね?
自分の世界を唯一の世界と思って錯覚している人が多い気がする。
私もその錯覚に時々だまされる。「自他の区別」が付いてないってやつ。
自分の価値観、ものさしを他者に押し付ける。
結果的にお互い息苦しくなる。
自分を許すことは、相手を許すこと。
許すことは、愛すこと、理解できなくても理解しようとすること。
最近そんな風に思いますが、皆さんはいかがでしょうか?
Aさんというある人物が自分の認識している世界だけを世界のすべてと錯覚していたら
他者が見ている世界は全く別だと想像すらできないであろう。
自分の認識世界は、世界全体のほんの一部であって、全体から見たら
米粒ほどの世界観の中にいることを自覚するって本当に大変ですね。
例えばなんですが、「リンゴ」という言葉一つとっても、そのイメージは
十人十色。赤のリンゴ、白のリンゴ、半分に割ったリンゴの断面等。
ひとり一人違うでしょ。でも、同じ「リンゴ」という言葉で表す。
つまり、その言葉から発する各自の頭の中のイメージはまったく一緒ではない。
その部分が忘れられて、自分の発した言葉のイメージの通りに相手に通じてる
と錯覚している。
だから。その違いについては対話ですり合わせていかなくては埋まらない。
ところが、空気と忖度文化の日本ではあまり対話や討論、多様性にまだ慣れていない。
そこで、ディスコミュニーケーション(本音の双方向対話?)が起これば、まだ
問題の本質があらわになりそうなのだが、「言わない文化」ではそこが
ハッキリわからないまま、モヤモヤする。隠蔽される。
責任回避で立場守る方が大事だから。
結局、力関係の弱いほうに最終的にしわ寄せがいく。
勉強や仕事しすぎて怒られないけど、ゲームや遊びをしすぎたら怒られますよね?
家にひきこもっていて、学校行かなかったら、やれ不登校だ、引きこもりだと
問題視されますよね?
何ででしょうね?
多数派から見た視点を普通で正しいとした視点見て、少数派の行動を「問題行動」と
定義してるだけでしょ。
世界観の立脚点が違うだけ。誰かにとって都合がいいとか、悪いだけ。
問題があるっちゃあるけど、ないっちゃない。
見てる視点が違うだけだから。
そういう点でいうと「ヤンキー」って結局自分の視点を押し通した人間だったのかなと。
いくら注意されても、違反のズボン、ロン毛や茶髪。自我の視点を押し通す。
それに対して、中学生だった当時、優等生の私は
親や学校の先生から見たら、やりやすい都合のいい人間だったのだろうな。
自我が育ってないから、外側世界の言いなりだった。
というか、自我がない操り人形的「良い子」
ヤンキーに勝っていたところは、テストの点数だけだった。
そんなもん、社会出たら吹き飛んでしまう。
むしろ、ヤンキーだった人間の方が戦い方や、自分の守り方を実践で知っていた。
反抗期がなく、大人になった人間はどっかでガス欠になる。
鬱や自殺が、中高年に多いのも気づくのが遅くてゆでガエルになった
「元良い子、いい人」だったのかもしれない。
そういう人ってもしかして日本人に多いのではないだろうか?
よく見てみると、日本人全体が巨大な羊の群れで
政府や官僚に都合の良い人形にされてんじゃないのかな?
そして、そのはけ口としてタブーに触れた者への集団バッシングで
心の深層にある気付かないルサンチマン的感情の解消してるとか・・・。
人間は多面的動物
よく、A型の人は几帳面とか、日本人は働き蜂とか、一つの性質を取り上げて全体を形容して
しまうことがありませんか?
アメリカ人はフレンドリーとか明るいとか、全員明るくてフレンドリーなわけないし。
サッカー下手糞なブラジル人いてもいいし、キムチ嫌いな韓国人いてもいいでしょ。
万物は常に変化し続ける。朝の自分と夜の自分ではすでに気が付かないだけでどんどん
変化していってるし、周りの環境に多かれ少なかれ影響しあって生きているお互いに。
いつも明るいと思われてる人が、ちょっと普通に黙ってるだけで、落ち込んでるのかな?
とか思われたり。
ちょっと既定のルールに合わないだけで、障害扱いされたり、排除され不登校児に仕立て上げ
られる。
その人はその人以外の何者でもないのであり、不登校は病気でも何でもない。
その個体ひとり一人の特性を色眼鏡なく見て、今ここ自分、その人をそのまま見ればよかったん
じゃないのかな?
子どもを育てるなんてもしかしたら思い上がり。その子は育つように育つ。
力関係の強い側の都合をなるべく押し付けないように、健康でいたくれたらまずは
OKかな。
「権威」や「正義」の便乗者に騙されるな。
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