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褐色細胞腫闘病記 第44回「不真面目なオペ患者」

私は、浣腸を待っていた。

手術の日の朝である。
そわそわしていた。あの羞恥プレイも13年ぶりである。あれっ…でもその前に既に若干の便意があるんですけど…早くしてくれないかな。
「三島さ~ん、お通じありましたか?」
永野芽郁によく似た若くて可愛らしい看護師がカーテンを開ける。
「えっと、浣腸は…」
「…えっ」
「…えっ」
しばしの沈黙。
「前は壁に手をついてお尻を突き出…あの、浣腸はしないんですか」
看護師がフフっと含み笑いをする。
「ああ、今はやらないんですよ。そのための下剤です。トイレまだですか?早く済ませてきてください」
なんだよ早く言えよ、と少しムっとしながら私はトイレに急ぐ。

他にも、前と変わっていたことは多々あった。
まず、死ぬほど痛い鎮静剤の注射は完全廃止。陰部の剃毛はベッドの上でちゃちゃっと電気シェーバー。もはや病棟からは剃毛室すら消えており、床屋さんみたいに泡立てて剃刀を当てられていた日々は遥か遠い。
何かの儀式みたいだった臍の消毒も今はやらないらしい。
そして何より一番驚いたのは、手術室まで患者が徒歩で向かうことだ。

「なんでストレッチャーで運んでくれないんですか?」
疑問を素直に口にすると、看護師は再度フフっと笑って言う。
「歩ける人にわざわざ寝て行ってもらうって意味がないですしね。人員削減もできますし」
そっか。確かにそれは理にかなっているかもしれないなと素直に頷く。
…しかしまあ、本当に時代は変わったなあ。

だが、変わっていないものもる。
T字帯。ふんどしである。これはどうしても身に着けなければならない。何故なら手術室では全裸になるからだ。いちいちゴムのついたパンツなど穿いてはいられない。
また、私レベルの大きな手術後はしばらくトイレには立てなくなるため、事前に尿のバルーンも入れないといけない。以前は尿道に管を入れられるのは痛くて苦行だったが、看護師の腕前は格段に上がっており、まったく痛くなかったのだけは救いだった。
そして肩や脇にたくさんのボタンが付けられたペラペラの手術衣を着せられ、シャンプーハットみたいな帽子をかぶらされる。これらはすべて、以前と全く同じだった。

「さ、時間です。では行きましょうか」
永野芽郁看護師が笑顔で促す。
私はベッドを降りてトテトテ歩く。大股のカニ歩きになるのは尿バルーンが股間から伸びているためだ。ちょっと痛いな。点滴もあるし、歩きにくいったらこの上ない。
家族との別れも、私が完全にカニに変身しているため、まるで悲愴感が無い。エレベーターの前で「いってきまーす、バイバーイ♪」と手を振り合う私と娘と妹。まあしゃーない、相手が尿管ぶら下げた巨大カニではこんなもんである。
しかし仰々しさがない分、家族の要らぬ心配も減る効果もあるのかもしれないな、と歩きながら私は考える。

新しい病棟の手術室は案外遠い。のんびりカニ歩きしながら永野芽郁ナースと雑談だ。
「ひどい方向音痴だから今看護師さんがいなくなったら病室に戻れません」
「戻らないです。次に病室に戻るのは5日後ですね」とニコリともせずに誘導する。
5日か。というと、ICU後にリカバリ室にも行くのね。なんだかめちゃ懐かしいなあ…挙動不審の泥棒のようにキョロキョロしながら、新しい病棟のいろんな部屋を遠慮なく覗く。どの部屋も最先端機器がピコピコしている。おお、手術室がたくさん見えるぞ。どれが私のオペ室だろう。

「へええ、手術棟ってこんなに立派になったんですねぇ。あ、向こうにあるのが新しいICUですね。昔は入るのに手続きが大変でしたけど、今は入るのにガウンも必要ないんですよね。靴も履き替えなくていいのですか」
「そうです。手を消毒さえしてもらえば自由に入れますよ」(注:コロナ前である)
「へえええ、変われば変わるもんですねー、びっくり~!!」
「それにしても三島さん、なんかこれからお買い物にいくみたいな雰囲気ですね。緊張してガクガク震えている患者さんも多いんですけど、緊張しないんですか」
「あー、5回目ともなると、なんかこう、ワクワクというか」
看護師が不気味なものを見るような目つきで私をチラっと一瞥する。
「まあ、私たち看護師も患者さんがみんな三島さんみたいな人なら楽ですけどねぇ…」
おいおい、それは嫌味かい。ま、いいや。別に本当に怖くはないしな。

向こうからオペ室の看護師がやってくる。
「こんにちは~。お名前と生年月日を教えてください」
石原さとみで~すと答えそうになったがさすがに怒られそうなのでやめる。
申し送りをしている看護師たちをよそに、私はこれから入る自分の手術室をガン見する。
おお、ライトの大きさが前よりずっと大きいやん。さすがに新しくて綺麗だな。広いわぁ。学生たちも見学に来てるなぁ、1,2,3,4,5人か。あっ、器械出しの看護師さんはあの人かしら。マスクで顔が見えないな。えーっと、麻酔科医はまだ来てないのかな。
「・・・三島さん、聞いてましたか?」

永野芽郁ナースが明らかに苛立っている。ああ、すまんすまん。
オペ室の看護師が「いいですねぇ、三島さんは本当にリラックスされてて。きっとうまくいきますね」と笑顔を向けるが、明らかに皮肉に聞こえる。すまん、ここはちゃんと患者らしく怖がって見せるべきだった、とその時初めて気づくがもうかなり遅い。手遅れもいいところだ。

自分の足で歩いて手術台に乗る。
おお、ベッドがとても温かい。そうだよな、これから全裸にされるんだもんな、毎回術後とても寒いからなあ。
崎森医師と、鈴木医師、佐藤医師、そして麻酔科医のオポッサムくんが挨拶に来る。
「三島さん、なんだか余裕の表情だね。素晴らしいよ。そのまま寝ちゃってていいからね」
「がんばりましょう。予定では8時間です。血圧の管理をしますのでICUで目覚めます」
「全力を尽くしますからね」
みんな優しいなあ。嬉しいなあ。そうだそうだ、こんな感じだったよなぁ、と私は13年前のオペを思い出していた。
その頃はまだ母も生きていた。母は一昨年、持病の肥大型心筋症で亡くなっている。母は空からこの光景を見ているだろうか、と一瞬思う。

「はい、よろしくお願いします」
私は寝ながら挨拶する。ああ、これ、思い出すなあ。前の4回と同じだ。
その後の過程もすべて同じだった。背中を丸めて硬膜外麻酔の管を入れる。ああ、そうだった、これは痛いんだった。ぐいぐいと押される感覚をまざまざと思い出す。いてててて。毎度思うが、これを入れるための麻酔が欲しい。
「では、始めます。目を閉じてゆっくり数を・・・」
数える間もなく、私は深い闇の底に落ちていった。


・・・私は、こう思っていた。

「このオペでもうこの病気とはいい加減、完全に縁が切れる」

いくらなんでも13年ぶりに再発してまた腹を切って、それで治らないなんてことがあってたまるか、と本気で思っていた。
だから、この光景はすべて見納め。
もう二度とここに来ることはない。
だから、目に焼き付けておこうと思っていた。
深く考えたくなかった。おちゃらけていたかった。
このオペが最後なら、どうせなら楽しもう、そのくらい楽観的でいたかったのだ。

私は約9時間後、真新しいICUで目が覚めた。

第1回「冬でもノースリーブ」
前回「麻酔科医の内緒話」


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