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褐色細胞腫闘病記 第43回「麻酔科医の内緒話」

私は入院前、勤めていた調剤薬局で突然卒倒した。

ドキサゾシン。 初めて聞く名前の薬、この薬のせいである。
私が再発するまでの13年という長い間に、この病気のガイドラインが新たに正式に更新され、手術の前にこの薬を段階的に投与しておくことが標準治療となっていた。
だが、なんせ情報がほとんどない時代に発病した私である。そんなことは露知らず、どうして自分が突然卒倒したのかがいくら説明されても腑に落ちないでいた。

私は、術前説明にやってきた執刀医の崎森先生を質問攻めにした。
「昔はこんな苦しい薬を飲まなくてもオペしてたじゃないですか」
「そうなんですよね。でも術後の麻酔管理が本当に難しい病気ということがはっきりわかりましてね…術中の急変が多くて」
「術中の急変というと、ぶっちゃけ、急に腫瘍が無くなって血圧が下がって死んでしまうってことですよね」
私は単刀直入に尋ねる。

先生は少し間をおいて、小さな声で言う。
「…まあ、そういうことになりますね」
「じゃあ私の過去4度のオペが上手くいったのは単なるラッキーだったのですかね」
「…まあ、そういうことになりますね…」同じ台詞で徐々に小さくなる先生の声。おいおい、別に私はあなたを責めているわけではないんですが、と言いそうになってやめる。
そうか、一度クリーゼを起こして死にかけたけれど、それとはまた別のリスクがあるのか。

「入院してから生理食塩水をずーっと点滴で流してますけど、これはどうしてですか。おしっこが近くて大変困ってるんですけど」
「血管を水分で拡げて、術後に急激に低血圧になった時のショックのリスクを抑えるため…」
…うーむ、これもまたいまひとつピンとこない。
むしろ私は殆ど無症状だったため、かえってこの前処置は体に合わないような気がしていた。体がむくんできているように思える。

「今度のオペは何時間の予定ですか」
努めて明るい口調で話題を変える。
「癒着をはがすのにどのくらいかかるかで時間はかなり変わります。でも最低でも8時間はかかるかもしれません、最善を尽くします。三島さん、野乃子ちゃんが待っています。頑張ってください」
そう、執刀医は偶然、元ママ友のお兄様だった。
相変わらず医者らしくないお医者様だな、と好意的に感じながら、はいありがとうございますと笑顔で受ける。

野乃子は20歳になった。もうすっかり大人である。
保育士を目指して進学したが、実習先の重度障害者施設での実習ぶりを見込まれ、施設長にスカウトされて施設保育士として別の道を歩んでいる。
幼い頃から障害のある子にまったく偏見を持たず、いつも自然に手を差し伸べていた彼女にはこの仕事は向いていたのだろう、毎日誇りを持って職務に邁進している。
私に似ず病気ひとつせず、相変わらず優しく温厚な性格のまま成長してくれた。高校生の時に初めて彼氏ができたが、この彼が人間的にとても良識のある若者で、ありがたいことに両家公認の仲となり、早くも結婚の話がちらほら進んでいる。

「よろしくお願いします。麻酔科の稲垣です」
麻酔科医がやってきた。身長160cmくらい。小柄で丸い眼鏡で小太り、声がとても高い。雰囲気にあたたかな可笑しみがあって、好感がもてる。歳は30歳くらいか。ちょっとオポッサムに似ているなと思いながら笑顔で応える。
「よろしくお願いします、三島です」
「三島さんは確か、オペは5回目ですね。もうこりゃ大ベテランですねぇ…すごい」
お、これは ”話せる” 医者だな、と察して嬉しくなってつい軽口を叩く。
「5回目13年ぶりの久々の出場ですね。今度も優勝しないと」
「面白い人ですね三島さん」
そうなんだよ、私は本来、軽口を叩くのが大好きなんだよ。面白い会話が大好きなんだ。でもな、人見知りだからとことん人を選ぶんだ。

「褐色細胞腫の患者さんのオペ、僕は三島さんで初めてなんですけど、何か前のオペで困ったことはないですか」
眼鏡をクイっと左手の人差し指で上げながら、私を見つめるオポッサム麻酔科医。飄々としてはいるが、眼鏡の奥のその瞳は真剣だ。

私は即答する。
「そうですね、困ったことはズバリ、術後の壮絶な痛みです」
「おおお、それは麻酔科医としては腕が鳴りますねぇ…えっと、以前は何使ってましたか」
「主にボルタレンサポです」
「ボルタレン~? それはまた原始的な…」
「いろいろ試したけどそれしか効くのがなかったんですよね…」
「硬膜外麻酔も効きませんでしたか」
「いまひとつでしたねぇ…正直、オペの後のあの死にそうな痛みさえなければって毎回思ってました」


オポッサム医師がもう一度眼鏡を上げる。
「いいこと教えてあげましょうか」
彼の口元が私の耳に少しだけ近づく。
「なんですかなんですか。内緒の話ですか。私、口は堅いですから安心してください」私はニヤニヤして混ぜっ返す。
「オピオイド系の麻薬がね、数年前に日本で解禁されましてね。術後の痛みは今、劇的に改善しているんですよ」
「おおおお!! 素晴らしいじゃないですか…って、なんですかそれは」
意図せず大きな声が出てしまう。なんて朗報なんだ。

「13年前には解禁されていなかった強い鎮痛のお薬がたくさん認可されているんです。三島さんの担当麻酔科医として、プライドをかけてブレンドします。絶対痛いなんて言わせませんから安心してください」
「ブレンドってコーヒーみたいですけど医学用語でもあるんですか」
「私はよく使います。絶対痛いなんて言わせません」
・・・本当かよ。
「同じことを2回おっしゃるということは、信じていいんですね~?」
私がからかうような口調で話すと、オポッサム医師は居住まいを正し、
「任せてください」と言い、またメガネをクイっと持ち上げた。

さあ、明日は5回目のオペだ。聞けば、またベンツのロゴをぐぐぐっと開くという。勘弁してくれよ。術創大きすぎるわ。痛いやん、絶対痛くないはずないやん。オポッサムくん、信じてるからね、と心の中で祈る。

同室の3人は「待ってるから頑張ってね~」と励ましてくれる。
や、こうなったら頑張るしかないな。
きっと近い将来行われるであろう、野乃子の結婚式には、花嫁の母として和装しないといけない。キっツい固い帯をベンツロゴに締められるようになるほどまでに、絶対回復しなければならない。

病室の窓から空を見上げ、かつて同室にいて亡くなっていった宇埜さんと芳河さんに私はそっと「二人ともどうか、ずっと見守っていてね」と語りかけた。

第1回『冬でもノースリーブ』
前回『末期病棟の音楽会』


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