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褐色細胞腫闘病記 第25回「ふたつの夕陽」

「ね、明日、うるさい看護師がいない日だから、3時の検温の後にちょっと冒険しない?」

4回目の手術を明後日に控えた日、芳河さんが声を潜める。

「でね、明日は見舞客はシャットアウトしてほしいんだ。病室にいないと放送で探されちゃうからさ。散歩するテイで私の車椅子押してくれないかな」
「え、でも私が車椅子押して歩いたら目立つじゃない」
「大丈夫、病院の中では電動車椅子よりそっちのほうが目立たない」
「目立たないって…それは難しいと思うよ。芳河さん、モルヒネの点滴外せないじゃん。ガラガラ引きずって歩くの?」
「大丈夫、手は考えてあるから、全部任せて。私、慣れてるの」

私はまだ半信半疑だ。
こんなことがバレたら即、強制退院だ。本当に大丈夫なのだろうか。

次の日、私は言われるがまま芳河さんの車椅子を押した。
彼女がゆっくり、ゆっくり私を誘導する。
「へへん、今日午前中に肩と腕にブロック注射しちゃったから大丈夫、今日はどっこも痛くないよ。モルヒネも要らないのよ」
彼女の顔は輝いている。いったいこの先にどんな楽しいことが待っているというのだろう。

「はいはい、そのまままっすぐまっすぐ」
いつも医療スタッフが使っているドアが開く。(※7)
私はものすごくドキドキする。患者が立ち入れないゾーンに入ろうとしているけど、大丈夫なのこれ。
「こっちよ。三島さん。ほら、あれ見て」
彼女が指さす暗い方向には、エレベーターが一基。

「あれが、霊安室直行エレベーターね。さすがにあのエレベーターは患者からは見えないようなところに設置されてるのよね」
そのエレベーターの周囲は陰の気が澱んでいるように見える。
明らかにその場所だけ暗く陰鬱だ。私は背筋がゾクっとする。私もいつかアレに乗るのだろうか、と縁起でもないことを考える。
「やだもう怖いなあ、なんでわざわざあんなもの私に見せるのよ」
私は少し不快に思って尋ねるが、彼女は答えない。

長い廊下がずっと先に続いている。
まだ先に進む気なんだろうか。芳河さん、本当にどこも痛くないんだろうか。
「ね、少し休む?」
「休んでる暇はないわよ。まだ秘密の部屋の探検は続くわよ。次はね、自由に使えるパソコン室。ここよ」
「え、防犯ブザーとか大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、今まで見つかったことなかったよ一度も。鍵もかかってないのよ、不用心な病院ねえ」(※8)

私はそっとドアを開けてみる。パソコンが3台ひっそりと置いてある。
おっと、3台ともウチのパソコンとおんなじだ。急にネットの仲間が懐かしい気持ちになる。
「ね、これ使ってもいいのかな」
「うん、大丈夫大丈夫。私、何度も使ってる。念のため履歴は消しておいたほうがいいと思うけど」
私は自分で作った掲示板の様子が見たい。あれからどうなっているだろうか。

…う~ん、相変わらず東京のSさんの独壇場だ。
〈私たち稀少病サバイバーは、人のわからない痛みを抱えたからこそ優しくなれるんですよねっ♪♥〉

舌打ちしそうになる自分をなんとか宥めながら、私は溜息をつく。なんだよサバイバーって。自分でサバイバーって言っちゃうのかよ。きっしょ。

「どうかした?」
そんな私の様子を見ていたのか、彼女が私が観ていた画面を覗く。
「へえ、こんなのあるんだね。三島さんはこの掲示板のメンバーなんだね」
「あ、うん、実はこれ作ったの私なの。管理人やってるんだ」
「すごい活動的じゃない!」
「違うよ、あんまり患者が少ないからインターネットで募っただけ。でもなんだか管理人って面倒だよ。ほら見て、こんなに自分語りしてる人がいても、どうしようもないのよ」
芳河さんがSさんの書き込みをザっと見る。

「え? この人、別に普通じゃない? 何をそんなにイラついてるのかわかんないなあ」
「だってさあ、私が一番つらい、私が一番大変ってそればっかりじゃん」
「・・・」
芳河さんは苦笑いして別のパソコンを立ち上げる。
なぜ何も言ってくれないんだろう。

私は芳河さんの目を盗んで、内緒で書いている自分のブログを覗く。
更新がしばらくないので、心配のコメントが溢れている。
どうしよう。そうだ、ブログの中の人も入院していることにしてしまおう。
そうすればしばらく更新がなくても大丈夫だろう。
私はダーっと記事を更新し、エンターキーを押す。
幸い芳河さんも観たい漫画があったらしく、熱心にそれを読んでいる。
よし、今のうちにコメント欄に返信もしてしまおう。
私は「タイピングコンクール優勝者ですか?」くらいのスピードでキーボードを叩く。
よし、これでしばらくは大丈夫だ。
ブログにつけたアクセスカウンターが信じられない勢いで増えている。
これは本当に死ぬわけにはいかない。早く退院して続きを書かなければ。

「もう、いい?」
芳河さんが私の様子を見て声を掛ける。
そうか、待っていてくれたのかとここで気づき、途端に退屈させなかったかと気にかかる。
それを察したように彼女は「漫画読めてよかったぁ」と先回りする。

「よし、じゃ、今日のメインディッシュ行くよ。本当はまだ見せたい場所があるんだけど時間が無くなっちゃったから」
彼女は右方向を指さす。お、これは一番奥の棟、特別棟と言われている場所に続く廊下だな。
あっ、向こうから白衣を着た人が来る。やだ、マズイ。どうしよう。
私は焦る。「ね、どうしよう、引き返したほうがいい?」
すると白衣の人がこちらに向けて手を振る。
「おー、祐子ちゃん、また探検?」
笑顔の白髪の医師。私のほうををチラっと見る。
「篠瀬先生こんにちは。今日は明日オペの人にアレ見せようと思って」
「早くしないとブロック注射の効きが切れるよ」
「わかってる」

旧知の人、という感じの優しい会話だ。何にも言われないやんけ。本当に彼女はここのヌシなのか。
私はペコリと会釈をして、車椅子を押す。いつも外側からしか見られない綺麗な建物に入る。エレベーターもガラス張りでキラキラだ。
「はい、一番上までよろしくー♪」
彼女の息が、少し上がっているように感じる。大丈夫だろうか。

「ちょっと夕焼けには早かったかな」
そう言いながら、彼女が手すりにつかまってゆっくりと立ち上がる。
えっ。やめて、無理しないで、と言う間もなく、彼女は一度車椅子から腰を上げたら思いのほかすくっと立ち上がる。
「腕が痛くなければ私だって立てるのよ。ほらね」
うん、わかった。わかったから、もう座ろう、と心で叫ぶが、なぜかまったく声が出ない。

「ほら、見てよ。綺麗でしょう。こんなに高いところから見る景色なんて、私はここからしか見られないの」
彼女が倒れてしまわないかが気にかかって、私は正直、景色どころではない。
「私ね、何人もの人をここに連れてきたの。一緒に綺麗だねって言いたかったから。最初は私も歩いてこられたのよ」
「そうね、ホント、綺麗ね」
それより早く車椅子に座って、とヒヤヒヤする私。

「ふふ、"早く座って" って全身が言ってるよ、三島さんは声が体に出る人だね」
「え、顔に出るっていうのはよく聞くけど」
「違う。顔に出る人と体に出る人がいるの。三島さんは後者ね。だから何を考えてるかすぐわかっちゃう」
え、なんだそれは。私は戸惑う。なんかオカルトっぽいこと言われてるのかな、とちょっと気味が悪くなる。
「あ、私、霊能者とかそういうんじゃないからね、そういうの大嫌いだから大丈夫よ」
おいおい、また私の心を読むのか。

「充希ちゃんとも何度かここに来たよ。まだ二人とも自分だけで歩けるときにね」
「そうなのね」私は返す言葉が見つからない。
「あのさ、またここに来て一緒に景色を見ようって三島さんには言うことはできないんだよね、三島さんにはもう、治ってほしいしさ。だから今日が最初で最後の景色ね。私も、ブロック注射が効かなくなったらもうここまで来られないし」彼女が一気に喋る。私は窓の外に目をやる。

彼女はどんな気持ちで私をこの場所に連れてきてくれたのだろう。
「うん、でも私、今日のこの景色のこと、一生忘れないよ」
私は彼女をまっすぐ見てしっかりと伝える。

その時だった。太陽の色が、フッと変わる。
緩やかに、ゆっくりと茜色が、ここにいずる。
その光が芳河さんの頬をあでやかに彩り始める。
「ほら見て、三島さん。向こうの棟に夕陽が反射してふたつに見えるよ。すごく綺麗でしょ。ここからでしか見られないのよ、あのふたつの夕陽」

そうだね、宇埜さんは今、ここにいて一緒に観てくれているかな、と私は宇埜さんの、はにかんだ笑顔を思い出す。ああ、涙が出そうだ。

「三島さん、あのね、私のことかわいそうだと思うでしょ?」
え、何を言い出すんだ。
「私もいつも私より重症の人をみつけては ”ああ、あの人かわいそう、私はまだあの人よりはマシ、まだ生きていける” って思って生きてる」

私は言葉を失う。なんと返せばいいのだ。

「さっきの三島さんが管理してる掲示板の人は逆。自分が一番つらい人だって誰かに思ってもらわないと頑張れない人。甘ったれだよね。ムカつくよね。でもさ、いろんな人がいるの。自分の病気に折り合いをつけるのって、本当に大変よ。人それぞれに前を向く方法を見つけてる。そうでしょ?」

鮮やかな夕陽。彼女の横顔が夕陽の茜色に染まりゆき、静謐で美しい空間を作り出す。
10歳から痛みを感じ、13歳になるまで確定診断されず、毎日毎日痛みと向き合ってきた彼女。彼女は今、どんな気持ちでこの色を見ているんだろう。私は心が委縮しそうになり、そんな自分を持て余す。

「三島さん、大きくお腹切るの、大変だよね。本当に頑張ってると思うよ。でも、私はね、どこを切っても治らないし、病気を削ることもできない。三島さんは切って摘れるんだから、すごいラッキーよ。どんなに痛くても、私なんかよりずっと前が向ける。もちろん、痛いのはつらいよ。怖いよね」

私は黙って彼女の頬を見る。

「でもね、もしこの先、どうしてもダメになりそうだったらさ、”芳河よりはマシ”って思ってくれていい。どんどん思って。それで勇気が湧くなら、私を踏み台にして、ね」

なんてことを言うんだ。
どうしてそんなことが言えるんだ。
どこまで強いんだ。

彼女はよっこらしょ、と言って車椅子に戻る。
「そろそろ帰ろうか。放送で呼び出されたら面倒よ」
心なしか彼女の顔に苦痛が見て取れる。
「どこか痛い?」
「ううん、全然痛くない」
いや、痛いはずだ。早く帰らなくては。あ、その前にきちんと言おう。

「芳河さん、こんな素敵な場所に連れてきてくれてありがとう。また来ようね」
「だからあ、また来ちゃダメなんだってば三島さんは」
二人であはははと笑う。乾いた笑い声は、空に飛ぶ。そして、茜色の空に混じり、散って行く。

ずっと一緒に闘ってきた宇埜さんを失って、今彼女はどんなに悲しんでいるだろう。私では埋められないその心の隙間を想い、涙が出そうになる。
でも、彼女が泣いていないのに、私がまた泣くわけにはいかない。

そうだな、私は手術ができる。切ることが出来る。悪いところを切って出せる。私はなんて幸運なんだ。

よし、二度と弱音など吐くものか。
絶対負けない。絶対、絶対しぶとく生きてやる。
帰り路、彼女の車椅子を押しながら、私は胸に誓う。

さっき通った霊安室行のエレベーター。わざと止まる。

「ね、私も、芳河さんも、あのエレベーターの中には絶対乗らないようにしようね。あれは、こうして外から見るものだからね」
「よく言った! それ、帰りに私が言おうと思ってた言葉よっ!」
彼女が思いのほか、大きな声で言う。
「あれは、外から見るもの!」二人で同じ言葉を言う。

私も自分にもう一度言い聞かせる。
あのエレベーターには絶対乗らない。乗らない。乗らない。

そうして翌日、私は4回目の手術に臨んだ。

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注(※7)
この記事は約20年前のお話です。
当時のこの大学病院は建設して20年経過しており、セキュリティも甘々でした。今現在は取り壊されて新設し、ガチガチのセキュリティを敷設しており、もうこんなことはやりたくてもできません。

(※8)上記同様。病院の名誉のために言いますが、今は絶対にこんなことはできません。

よろしければ、サポートをお願いします。いただいたご芳志は、治療のために遣わせていただきます。