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ウィーン会議とメッテルニヒに学ぶ日本外交とは?

今回は「クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン」こと、メッテルニヒについて投稿します。

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メッテルニヒは「ウィーン会議」の立役者です。オーストリアの外相としてウィーン会議の議長を務め、後にオーストリアの宰相に就任しました。

ウィーン会議を知れば現代の国際情勢も分かる

ヘンリー・キッシンジャーはハーバード大学で博士号を取る際、ウィーン会議について研究しました。同級生が「そんな昔のことを研究せずに、核戦略について研究すべきだ」と言ったところ、キッシンジャーは「ウィーン体制を理解すれば、現在の国際政治の構造も説明できる」と答えたそうです。

国際政治の本質は2500年前にツキュディデスが描いたペロポネソス戦争から変わっていません。過去の歴史を勉強することは、現代の国際情勢への理解にも直結します。

ウィーン会議

ウィーン会議はナポレオン戦争終結後ヨーロッパの秩序回復のために1814年に開催されました。会議はウィーンのシェーンブルク宮殿で行われました。(下記写真)

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当初は、各国の利害対立で遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」と言われました。(実際、毎晩のように舞踏会が開催され、文字通り踊っていました。)しかし、ナポレオンが流刑地のエルバ島を脱出したことで危機感が高まり、会議が進みます。

ウィーン会議の参加者

ウィーン会議の主要参加国は、オーストリア、ロシア、プロセイン、イギリス、フランスの5カ国です。

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主要な参加者は以下の5名です。

・オーストリア帝国:メッテルニヒ外相

・ロシア帝国:アレクサンドル1世

・プロセイン王国:ハンデンベルク宰相

・イギリス:カッスルリー外相

・フランス:タレイラン外相

それぞれが傑出した人物として知られていますが、中でも中心的な役割を果たしたのが議長のメッテルニヒです。(上記の画像の左から7番目です)

ウィーン会議の結果

先に結果を記載すると、ウィーン会議はヨーロッパに安定をもたらしました。クリミア戦争を除けば、約100年にわたりヨーロッパで大国同士の戦争は起きず、ヨーロッパは空前の繁栄と栄光を手にしました。(クリミア戦争でウィーン体制は崩壊しましたが、ウィーン体制の残滓がその後の安定を築きました)では、なぜウィーン会議はヨーロッパに安定を創り出すことが出来たのでしょうか。

ウィーン会議がもたらしたもの

ウィーン会議がもたらしたのは、「バランス・オブ・パワー」と「価値の共有」でした。キッシンジャーはこの二つの要素について下記のように述べています。

「バランス・オブ・パワーは、国際秩序をくつがえす能力を禁止する。共有された価値についての合意は、国際秩序をくつがえそうとする欲望を抑制するのである。」

ウィーン会議が「力の均衡」だけでなく「価値の共有」を提供したことが重要です。バランス・オブ・パワーだけで、平和を達成することは出来ません。「価値の共有」も提供したことが、ヨーロッパの安定に帰結しました。(バランス・オブ・パワーについては以前の投稿をご覧ください。)

ドイツ問題

ウィーン会議での大きな焦点の一つが「ドイツ問題」でした。ウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)が実質的に300以上の小国家の集合体になりました。しかし、それはフランスによるドイツ侵略を誘発する結果となります。

他方で、ドイツが統一された場合、ヨーロッパを不安定化する恐れがありました。(実際に統一ドイツは第一次世界大戦の引き金になりました)ヨーロッパには「弱すぎず強すぎないドイツ」が必要でした。

・ドイツ連邦の創設

そこで創り出されたのが「ドイツ連邦」です。ドイツ連邦と言うと1つの国のようですが、実際は「ドイツ同盟連合」でした。現在のNATO(北太平洋条約機構)に近く、複数の国が互いに同盟を締結している状態です。ドイツ連邦では39の国が同盟を組み、フランスが攻めて来たら共同で防衛すると取り決めていました。また、統一ドイツではなく同盟連合なので、近隣諸国の脅威になりません。つまり、フランスの侵略を避けつつも、統一ドイツを作らせないという理想の形になりました。

敗戦国フランス

講和条約の最重要問題は「敗戦国の処理」です。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、ドイツに対し過剰に懲罰的な条約を締結し第二次世界大戦を誘発しました。「敗戦国の処理」は戦争後の安定を維持する上で非常に重要です。ウィーン会議での敗戦国はフランスでした。

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ナポレオンは実質的に上記の地図の赤線まで支配範囲を広げました。(地図はロシア侵攻前の1812年時のヨーロッパ)当然、近隣諸国の国民はフランスに対し深い憎悪を抱いています。しかし、ウィーン会議が特筆的だったのは、フランスに対し宥和政策を取ったことです。そもそもウィーン会議自体にフランスが入っていることも異例です。この時のことをイギリスのカッスルリー外相は次のように述べています。

フランスが今後も勝手なふるまいをすれば、おそらくヨーロッパをめちゃくちゃにしてしまうだろう。しかし、同盟諸国は、フランスをこれ以上たたくのをやめて、現在すべてのヨーロッパの国が必要としている休息を取るこの機会を利用すべきである。もしフランスに対するこの寛容策が失敗しても同盟諸国は単に軍事的に優位な立場からだけでなく、道徳的な力に基づいて、再び武器を取ることができるのである。

つまり、バランス・オブ・パワーに裏打ちされた宥和政策を実施したのです。フランスが再び強大な国なったとしても、それ以上の力で抑え込むことが可能であれば問題は無いと考えられました。

四国同盟

ウィーン会議ではバランス・オブ・パワーの担保として「四国同盟」が締結されました。イギリス、プロシア、オーストリア、ロシアの四カ国であり、後にフランスが加わることで「五国同盟」となります。四国同盟はヨーロッパでの「バランス・オブ・パワー」を実現しました。この四国同盟をキッシンジャーは高く評価し、下記のように述べています。

「もしベルサイユに集まった戦勝国が1918年に同じような同盟につくったならば、世界は第二次世界大戦を避けられたかもしれなかった。」

神聖同盟

ウィーン会議では「神聖同盟」も締結されました。締結国は、四国同盟からイギリスを除いたプロシア、オーストリア、ロシアです。この神聖同盟は四国同盟と全く違った性質を持っていました。

・アレクサンドル1世の宗教的理念

神聖同盟の締結はロシア皇帝のアレクサンドル1世が提案しました。アレクサンドル1世はキリスト教的理想に燃えており、ナポレオン戦争終結後に下記のように述べています。

「我が魂は今や光明を見出し、神の啓示により自分はヨーロッパの調停者という使命を帯びることとなった」

そこでアレクサンドル1世はオスマン帝国に対するイスラム十字軍を目論み、ウィーン会議で「列強が今までその相互の関係を律して来たものは根本的に変えられなければならず、それを我らが救世主の永遠の崇高な真理に基づいた秩序をもって代替することは緊要である」と述べ、神聖同盟の設立を呼びかけました。

・冷笑的な諸外国

この宗教的理念に燃えるアレクサンドル1世の提言に対し、各国の君主は冷笑的で、ロシアが覇権への欲望を偽善で覆い隠していると考えていました。(イギリスのカッスルリー外相は「崇高な神秘主義とナンセンス」と言っています)しかし、もし各国が協力しなければ、アレクサンドル1世は単独で十字軍を組織し、オスマン帝国へ攻め込む姿勢を見せていました。それはヨーロッパの力の均衡を崩す可能性があります。そこで、メッテルニヒはアレクサンドル1世の宗教的理念を「正統主義」に繋げようと画策します。

正統主義と価値の共有

メッテルニヒは、アレクサンドル1世が提案した「神聖同盟」を締結することで、ヨーロッパでの「正統主義」という「価値の共有」を達成しました。

・正統主義

正統主義とは「王政の維持」です。ナポレオンのフランス革命により、ヨーロッパには「自由主義」の火が燃え広がろうとしていました。メッテルニヒは「自国のオーストリア帝国は多民族国家であり、自由主義は帝国の崩壊に帰結する」と考えていました。そこで各国と連携して「王政の維持」を図ることで、自由主義を押さえ込もうとしたのです。

・価値の共有

つまり、メッテルニヒはアレクサンドル1世が提案した「神聖同盟」を、正統主義に基づく国内政治の安定を目的とした同盟に仕立て上げました。キッシンジャーは次のように述べています。

「メッテルニヒが、ツァー(アレクサンドル1世)の原案を神聖同盟として知られることとなるもに変え、もともとの宗教的な命令を、ヨーロッパにおける各国内部の現状維持の義務であると解釈したのであった。近代の歴史においてはじめて、ヨーロッパ列強は共通の使命を持つことになった。」

ウィーン体制で確立されたメッテルニヒの正統主義は、現在から見れば時代錯誤であり、時代の潮流に逆行していました。しかし、多民族国家であるオーストリア帝国にとって自由主義は帝国の崩壊を意味していました。そして、メッテルニヒは神聖同盟を通じて、国内政治の安定、アレクサンドル1世の宗教的理念の抑制、そしてヨーロッパに「共有する価値」をもたらしました。

メッテルニヒよるヨーロッパ秩序

ウィーン会議においてメッテルニヒはヨーロッパで「バランス・オブ・パワー」と「価値の共有」を実現しました。メッテルニヒはオーストリアの国益を第一に考えていましたが、同時にヨーロッパ全体の秩序も考えていました。メッテルニヒは1824年にイギリスのウェズリー首相への手紙の中で、下記のように記載しています。

「今に至るまで長い間、ヨーロッパは私にとって母国ともいうべきものである。」

メッテルニヒの掲げた「正統主義」は時代に逆行していました。ウィーン会議後もフランス革命から始まった自由主義は留まることなくヨーロッパ中に広がりました。そして、ウィーン会議から33年後の1848年3月にオーストリアでも自由主義革命が起き(ウィーン3月革命)、メッテルニヒは辞職に追い込まれ、イギリスに亡命しました。

価値観外交

重要なことは、メッテルニヒが追求した「価値」ではなく、「価値の共有」に注目することです。「価値」自体は時代に逆行していましたが、「価値の共有」はヨーロッパに安定をもたらしました。

日本外交も「価値観外交」を進めています。日本政府の普遍的価値とは「自由、民主主義、法の支配、人権」です。当然この価値自体も重要です。しかし、本質的に重要なことは、外交において価値観を共有する国々と連帯することです。なぜならメッテルニヒが目指した通り、「バランス・オブ・パワー」と「価値の共有」の二つの要素が組み合わさることで安定を実現することができるからです。

日本外交は引き続き「バランス・オブ・パワー」と「価値の共有」という両輪で進むべきでしょう。それが稀代の外交官であるメッテルニヒの教えです。

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