サルトル(著)『聖ジュネ』を読む。
とうとうサルトルの『聖ジュネ』の読後感想を書くことになった。ネットで探してもこの本の感想は極めて少なく、私の文章が公開されて読まれることを想像すると少し緊張している。
上下巻二冊を重ねて測ってみると五センチ。ページをめくると内容は哲学書で、ほとんどすべてのページが文字で埋まっている。よく読み終えたものだと思う。
正直読み飛ばした箇所も多い。妻が私の読んでいる姿を見て「どうしてそんなに速く読んでるの」と尋ねたほどだ。「難しいからだよ」と私は答えた。
「読んだが理解してるのか」と問われるとほとんど理解していないと答えるしかない。しかし話の流れはわかるし、著者が言いたいことが少しはわかる。なぜなら著者は同じ内容を言葉を変えて繰り返し書いているので文字数が多い割には少しは理解しやすい。しかし哲学書である。
私がなぜこの本を手に取ったのか。それはジャン・ジュネの『泥棒日記』を読んだからだ。なぜ『泥棒日記』を読んだのか。それはエミール・ゾラの小説を読んだから。フランスつながりなのだ。この一連の読書で私のフランスのイメージも変わった。
では主人公のジャン・ジュネについて書こう。
ジュネは七か月のときに母親に捨てられた。日本語版のwikipediaには母親は家政婦で父親の名前も書かれているが、英語版では母親を売春婦で父親の名は無い。いずれにしてもジュネは七か月で捨てられた。1910年のことだ。第一次世界大戦が始まる四年前。七歳で木樵(きこり)の夫婦の養子となった。貧困で食べるものがない時代だっただろう。それでも木樵の夫婦だったからよかった。そうでなければ悲惨な戦争に巻き込まれて、幼い命は危なかっただろう。まだ戦争が終わらない。ジュネは何も持っていない。それは多くの少年が同じだった。
ある日ジュネは養母の財布を覗いた。何かを所有することこそが、自分の存在を確かめることだったからだ。それをみつけた養母が咎めた。
「あんたは捨て子だから、そんなことするのよ」
この一言がジュネ少年の胸に深く突き刺さった。
「俺は悪くない。ただ何かを持ちたかっただけだ」
捨て子になったのは自分の責任ではない。この時からジュネ少年は糸の切れた凧のようになった。犯罪を繰り返すようになり、少年院にも入った。それでもなんとか抜け出したかったのだろう、十八歳の時に外国人部隊に入ったり、フランスから抜け出したりして自分の場所を探したが、事態は悪くなるばかりだった。
乞食、泥棒、麻薬密売、男娼までした。彼には信じる人がいなかった。
どこに神がいるのか。誰が今の私を作ったのか。もしそれが神であるなら、神は悪である。彼には絶望しかなかった。
三十歳を過ぎてついに刑務所に入った。
ジュネはそこで一生懸命に考えた。善と悪について、美と醜について、真実と偽りについて、そして存在と不在について……。ふと彼は思った。これらはすべて反対のものだ。ひっくり返したらいい。ひっくり返したら悪は善になり、善は悪になるのだ。
ある日、刑務所の部屋で笑い声が起こった。
「ほら見てみろよ、入れ歯だって頭に載せたら、王冠になるんだ!」
老いた受刑者が自分の入れ歯を頭に載せて笑っている。
私はこの光景が大著『聖ジュネ』の要点をよく表していると思う。
ジュネはこの考えを言葉でやってみた。つまり、奇妙な文章の組み合わせで、この「ひっくり返し」を表現したのだ。出来上がった詩集を自費出版した。そして作品をジャン・コクトーに送って自分の文才を認めさせることに成功した。
終身刑の判決だったジュネは、コクトーやサルトルの影響で自由の身になることができた。
その後ジュネはベトナム戦争反対や移民問題、黒人問題に関心を寄せるようになる。PLOの提案でヨルダンでアラファトとも会っている。捨て子だったジュネは社会活動にまで踏み出しているのだ。
この本を社会的に適応できないと思っている若者や、孤独を感じている人、社会的弱者の人に読んでもらいたい。
捨て子だったジュネが何を考え、どうやって克服してきたのかが書かれている。
本の厚さや難しさは工夫すれはどうにでもなる。
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