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シュタイナー(著)『自由の哲学』を読む。


シュタイナーの本は何冊か読んだことがあるが、どれも難しくて理解するのに時間がかかった。これらの著作の原点と位置づけされているのがこの『自由の哲学』。著者が32歳の時。1894年の初版だが、この文庫本は1919年の新版に従っている。

著者は人間の自由とはどのようなことなのかを述べたいのだが、前半は哲学の基礎について書いている。

簡単に書き直してみよう。
私たちが目の前のコップを見たとき、そのコップが大きいか小さいかは個人の判断(直感)で決まる。同じコップでも大きいと言う人もいるし、小さいと言う人もいる。個人個人の直感によってしか物ごとを見ることが(感じる)ことができないのではないかという問い。
すべての人が「そうだ」と感じることができるコップ自体(一般的には物自体)はどこにあるのかという問い。
さらに目を閉じたらコップは見えなくなる。見えないコップは存在するのかという問い。
目を閉じても、なんとなくわかる「コップというもの」(いわゆる概念)とは何なのか。
これらの疑問は哲学の基本だが、さらに大きな疑問が見逃されている。

仏教ではすべては心に浮かぶもの。すべてのものは流れ動く定まらないものであり、諸行無常である。つまり人は「ないものに惑わされている」と結論づける。

しかし著者は「じゃあ、私が自分自身について考えた時、すべては心に浮かぶ幻ならば、私自身の存在はなくなってしまうのではないか」と強く主張する。

つまり、自分が自分を考える時には、心に浮かぶものとか、目を閉じると見えなくなるコップとか、そのような考え方では「自分の存在がなくなる」のだ。

ではどう考えたらいい……。

著者はそこに「思考」をつなげてみる。直感の次に思考が来る。
その思考とはどんなものなのか。「思考について思考する」のだ。

思考の仕方によっては自分に向けられた眼であっても、自分の存在を無にすることなく、自分のことを客観視することができる。


この場合の眼は、自分自身の狭い眼ではなく、もっと偉大な眼ではないだろうか。
自分を見つめる眼、直感の後の思考を、偉大なものに結びつけることで、心がとても広くなり高度なものとなるであろう。
つまり、端的には個人だけの狭い視点で見ようとせずに、もっと高度な視点で考えよということ。

さて、この高度な思考は、内から湧いて出てくるものだ。誰の指示も強制も受けたりしない。
このような芽生えこそが私たちの自由な心なのだ。

われわれひとりひとりは自由な精神になるという使命を持っている。それはちょうど、どのばらの萌芽もばらの花を咲かせる課題を持っているのと同じなのである。

このように自由とは、すでに存在しているものではなく、高度に思考することで近づいていくものなのだ。

シュタイナーは難解だが、この本はきちんと読めば理解できる。それでも難しい人はネットに解説書が出ているので併せて読めば理解することは難しくない。

これからの時代、新しい人間は、自分の心の中に偉大なるものを持っていることが大切だ。



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