ヘルマン・ヘッセの短編集『メルヒェン』より『詩人』を読む。
私の祖父母が生まれたのは九州山脈の奥、川に沿って、国道がS字を描きながら奥に伸びていました。
村のバス停からまた細い道を右に左に折り重ねながら登り、ようやく小さな集落にたどり着きます。
谷の向こうの山はまるで屏風のようです。
夜になると、谷向こうの山の中腹に家々の明かりが灯ります。
明かりは人が住んでいる証拠です。
あたりは真っ暗ですが、明かりが五つ、六つ見えます。
目を上に向けると、同じような光が見えます。
谷向こうの家があんな高いところまであるのかと思いましたが、すぐに
「あれは星だ!」
と思いました。
真っ暗い夜、谷向こうの家の明かりと星の明かりの区別がつかないのです。
真冬の空気が冴えた時は、どれが星でどれが家の明かりかわからないだろう、と思いました。
山奥の家の明かりは、夜空の星と区別がつかない。
家には家族の団欒があり、星にはぬくもりがある……
なぜ、こんなことを書くのでしょう。
それは、ヘルマン・ヘッセの短編集『メルヒェン』を読んでいるからです。
ヘルマン・ヘッセは『車輪の下』や『デミアン』が有名です。
この短編集にはヘルマン・ヘッセが書きたい、エッセンスだけが収められています。
ヘルマン・ヘッセの入門書としては、とても良い本です。
子ども向け、というよりも18歳くらいの少年の胸に響く小説がヘルマン・ヘッセの特徴です。
短編集の中に『詩人』というごく短い小説があります。
『詩人』の最後には次のような描写があり、私の祖父母の家を思い出したのです。
水に映った燈明とほんものの燈明とかもはや区別することができなかったように、心の中でも、このお祭りと、青年のころここに立って、見知らぬ名人のことばを聞いた、あのはじめの時の祭りとのあいだに区別がつかなかった。
水に映った燈明とほんものの燈明が区別がつかない。
なんと美しい情景でしょう。
この『詩人』が発表されたのは1913年です。
この翌年(1914年)に、あの悲惨な第一次世界大戦が起こりました。現代の戦争は電子戦争なので、まるでゲームのようであると言われます。それもとても気持ちの悪いものですが、第一次世界大戦はもっと気持ちの悪いものでした。
なぜなら、まだ戦車もなかった時代ですから、まったく肉弾戦だったのです。
戦車は肉弾戦があまりにも悲惨なので発明されたのです。
相手の顔がわかるのです。目の前にいるのです。
塹壕という隠れている穴に、偶然に敵兵と二人きりになった場面を描写している小説があります。
レマルクの『西部戦線異状なし』です。
みなさん、狭い塹壕に敵兵(フランス人)と二人だけになるのです。
そんな時には「銃剣よりもスコップの方が殺しやすい」などと書いてあるのです。
この『西部戦線異状なし』は反戦文学と名指しされ、ナチ政権下では持っているだけで検挙されました。
作者のレマルクは追求され、国外に亡命しました。
このような人類史上もっとも悲惨な戦争が第一次世界大戦なのです。
その前年に、ドイツ人であるヘルマン・ヘッセはこのような夢のような小説を書いているのです。
文学とはいったい何でしょう。
今にも戦争に突入しようとしている国で、このような夢物語を書いていいのでしょうか?
国民全員で一致団結して国家安寧のために尽くしている時なのです。
『詩人』のような国威高揚に反する文学など許されるでしょうか?
みなさんはどう思いますか?
ヘルマン・ヘッセほど、戦争と文学について考えた人はいません。
日本では太宰治です。
意外に知られていませんが、日本で戦時中も「しっかりと」小説を発表したのは太宰治だけです。
太宰治の小説は全文削除になったことがあります。それでも、考えに考えて、小説を書き続けました。
全文削除の次は発禁処分、その次には身柄拘束になります。
それでも太宰治は、なんとかくぐり抜けながら作品を発表したのです。
ヘルマン・ヘッセの文学が愛されるのは、静かな物語の中に強い意志が感じられるからです。
『詩人』などというまったく平凡なタイトルです。
ただただ「人間が自然と溶け込んでいる」ことを静かに語っているだけです。
しかし、そこには「人間らしさ」がにじみ出ているのです。
国民みんなが戦争に向かおうとする時に、ヘルマン・ヘッセは人間そのものを見ていました。
自然と人間が溶け合うことを物語にしました。
「この非常事態に、そんな本など読むべきではない!」
この日本で、もしこのような発言をする人がいるのであるならば、それは歴史を知らない人です。人類は何回も戦争を起こし、その度に反省をしてきているのです。
第一次世界大戦ではお互いスコップで殺しあったのです。
文学に何ができるのか。
文学の力は強いのか、弱いのか。
文学など、握りつぶしてしまえばいいのか。
『メルヒェン』など書くのは非国民なのか。
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