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チェーホフの戯曲『桜の園』を読む。

ようやく、私のあこがれであったチェーホフの戯曲『桜の園』を読みました。

今まで私が想像していた桜の園、そして多くの日本人が私と同じように考えていた桜の園と、この戯曲の本当の姿はまったく異なっていました。


その最大の原因は、太宰治にあると思います。

ご存知のように、太宰治は大地主だった津島家が戦後の農地改革で没落していく様子を見て、まるで桜の園のようだと考え、代表作『斜陽』を書き始めました。書き始めました、というのはこの小説の後半はこの主題とはずいぶんとかけ離れてしまっているからです。


もうひとり、この桜の園を読む世代に影響を与えたのは寺山修司です。彼は「短歌研究五十首特選」に選ばれた作品に「チェーホフ祭」とタイトルをつけました。私はこの寺山修司の短歌に、青春期独特の「希望と退廃の間にある深い谷」を感じていたのです。

その冒頭の短歌は
——マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
であり最後の短歌は
——地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり
でした。

しかし、実際のチェーホフの桜の園は、このような私が何十年も思い描いていた光景とは、全く違っていたのです。

いったい桜の園とはどんなものなのでしょう?
それは写真のような日本の桜に比べたら花の色が白い桜が並んでいる農園です。それは「さくらんぼ」を収穫する農園なのです。ですから、そこには「さくらんぼ」はありますが、はかなく散り落ちる桜の花びらのイメージはありません。南ロシアの貴族が所有するこの華やかな農園……。貴族の優雅さとこの農園で働く人々の過酷な生活の対比を、この桜の園は象徴しています。ですから、この戯曲には、この農園で奴隷のように働く人々や老いた執事、この農園を買い占める実業家などが登場人物として出てくるのです。


そして、これがこの『桜の園』が想像と大きく異なることですが、この戯曲は悲劇ではなく喜劇だということです。チェーホフははっきりと「これは喜劇である」と発言しています。

『桜の園』を喜劇だと感じながら読んでみてください。そうすると、登場人物一人ひとりの個性が際立ってきます。

それにしても悲劇が喜劇であったとは、チェーホフの作り方の「うまさ」を感じます。


そうです。人生は悲劇ではなく喜劇なのです。よく読めば存分にそう感じることができる、チェーホフの戯曲『桜の園』を是悲お読みください。



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