谷崎潤一郎「刺青」と教員時代の黒歴史

このnoteの2本目の記事を書こうと
谷崎潤一郎の「刺青」の本文を読んだが、
なかなか書くことが浮かばない。

私にとって「刺青」はつかめない作品のひとつである。
「刺青」が大好きな方、「刺青」を大絶賛したい方には
非常に申し訳ない。

その代わり、といったらなんだが、
「若気の至り」「黒歴史」と名付けて
永遠に葬り去りたい過去についてあえて晒してみる。

私には「全体の奉仕者」という言葉を知らないで
生意気にも公立高校の教壇に立っていた時代がある。

当時、「今日の谷崎潤一郎」と題した
読書案内的なフリーペーパーを生徒に配っていた。
創刊号の題材が谷崎潤一郎の「刺青」だった。

職員室で地歴公民科(日本史)の男性の先生に
「足フェチ新聞」と言われた。

私は良くも悪くも
言われたことを真に受ける性分のため、
その日本史の先生が私に向かって皮肉を言っていることに
当時は気がつかなかった。

その会話を側で聞いていた英語科の女性の先生は
「キャー」と叫んでいたが
「好きなものは好き」で通す私は
一向に気にしなかった。

ところで当時私は2-Cの副担任だった。

「今日の谷崎潤一郎」発行にあたり、
いちおう2-Cの担任に伺いは立てていた。

しかし12月のある日、その2-Cの担任から突然
「発行をやめろ」「(発行するなら)せめて月1に減らせ」などと
言われた上に、
経緯は忘れたけれど私について「バカに見える」などと侮辱までされた。

その2-Cの担任に侮辱等された日から
私の体調は明らかにおかしくなった。

国語総合の授業のため
1年生の某教室へと向かったが、自力で立てない。
黒板のレールを掴み、倒れないよう必死で踏ん張った。

「ごめんなさい、今日は授業できません。
自習にしてください。」

始業の挨拶をかろうじて済ませたあと、
生徒たちにそう伝え、わずか授業開始3分で教室を後にした。
保健室で熱を測ったら体温が39度近くまで上がっていたことが判明した。

その後、10日近く仕事を休んだが、38度台の熱が一向に下がらない。
おまけに口元に激痛が走るようになり、
会話や食事さえもままならなくなった。

その年のクリスマス、病院で診てもらったところ、
ただの風邪ではなく、脳の病気のために
不調をきたしていたことがわかった。

そのまま私は病気休職をすることになった。
その後、治療を進めたものの、
学年末までに寛解が間に合わなかったため退職し、
それきり教員の道を閉ざした。

当時同職した先生方は今も殺人的に忙しい学校現場で
滅私奉公されているだろうから、
私のことなどもう頭の片隅にこれっぽっちもないことだろう。

私自身も今は別の業界で仕事をしており、
教員時代よりも時間的にも精神的にもかなり余裕があるが、
当時同職した先生の顔は思い出せても、名前までは思い出せない。

前述の2-Cの担任に関しても
「目が笑わなかった」あの顔以外思い出せない。
名前をスッカリ忘れてしまった。

当時の教え子たちが何をしているか
時折思いを馳せることがあるが、
年度途中でフェードアウトした私のような者には
当時の教え子と再会したいなどと言える資格はない。

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