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「人はなにからでも学べる(のではないか)」南九州新聞20220129掲載

麻雀が好きだ。
今は無き桜デパート寿店に、お試し用として置いてあったパソコン(今思えばPC9801か8801)に簡単な2人麻雀が入っていて、そのころはルールも役もわかっていなかったので、とにかく鳴ける牌は鳴いて、テンパイ料をもらって勝つという方法で遊んでいたのが小学校3年生ぐらい。だから、もう35年くらいやっていることになる。


ゲームとしての完成度はもちろんなのだが、人とやるからこそ生じる、心理的な駆け引き、クセを読む、確率を考える、確率を超越する。
まったくやらない時期もあれば、はまってやる時期もあって、それでも、そもそも飽きっぽい私が、途中中断はあれど、これだけ長続きしているものは他に無いので、どうしてこんなに好きなんだろうと考えることがある。

麻雀は「非完全情報ゲーム」と分類される。将棋やチェスなどの「完全情報ゲーム」とちがい、見えない部分がある。だからこそ、想像をしないといけない。相手が何を考え、どのような狙いがあるのか。だが、想像は想像でしかない。ゲームが進むたびに、見えている情報が更新され、間違っていた情報は捨て、新しい想像をする。
そのようなことを考えなくてもゲームはできる。
しかし、強くなるためには、想像をして、情報を得て、また情報を捨て、想像をする。

確率的な最善の選択(少なくとも自分の想像では最善だと思えた選択)をしても、それに見合った結果が出るとは限らない。1局という短いゲームの単位で一時的な正解を選んだことが、半荘(もう少し長い1ゲームの単位)で見ると良くない結果を引き出してしまったりもする。

短い時間の中でたくさんの選択をして、うまくいくこともあれば失敗することもある。失敗した、と思って、そうしてあんな馬鹿な選択をしてしまったのだろうと思っていたことが結果的に正解だったりすることもある。何度も何度も選択をして、だからこそたくさん失敗する。いちいち落ち込んでいては、次の選択に影響してしまうので引きずらないようにする。

失敗していいとは思えないけど(今回はたまたま成功したけど、次はこうはいかないかもしれない)、失敗がいい目を引き出しているのだとすれば、失敗するのも悪いことではない(と思える)。

麻雀万事塞翁が馬。
人生もそんなものなのかもしれない(わからないけど)。

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