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「居場所がないなら作ればいい」

高橋源一郎さんが毎日新聞で連載としておこなっている「人生相談」をまとめたものの2冊目が2022年の7月に出まして、寝る前とか暇なときとかにぽつぽつ読んでいます。

1冊目のタイトルは「誰にも相談できません」(未購入)。
2冊目のタイトルは「居場所がないのがつらいのです」。

どちらも、実際に届いた相談の文章から取られたものだと思います。

思えば、私にも「居場所がなくてつらい」と思っていたことがあり、そういう時期があり、もちろん、今、私が自分の居場所だと思っているところもかりそめのものに過ぎないのかもしれないといった哲学的な問いを立てることもできるわけですが、それでも、この世の中で「息をするのもしんどい」「いっそ死んでしまいたい」と強く思っていた私が、なんとかこうして生きのびることができて(恥ずかしながら)、誰かを支えたり支えなかったりする活動ができているのは、「居場所がないなら作ればいい」という発想にもとづき、自分のための場所を作り、それが誰かのためにもなったりならなかったりしていることが大きいのだろうと思います。

こういう話(なければ作ればいいじゃん、という話)をすると、「あなたはその強さがあったから作ることができた。その強さを持っていない私たちはどうしたらいいのだ。作ることができない人を下に見るような発言は慎め」といったことを言われることがあります。

だいたいは、「そうですか、そうですよね、すみません」と申し上げるのですが、心の内では違うことを思っています。ひごろは言いません。ご自分で気がついてほしいな、と思っているので。

これは、よく言われる話だろうと思うのですが(特に、児童支援の分野であったり、強い(と思われている)女性の話において、良く語られることだと思うのですが)、「強い人というのは、強くならざるを得なかった」人なのではないかということです。頼るものが(少なくとも身近には)無いから、過酷な状況を生き抜かなければならなかったから、あくまでも自己防衛として強くならざるをえなかった、のではないか。

もう一点。

「自分には作ることができない」というのは本当なんだろうか。それを決めたのは誰なんだろうか。ひょっとしたら、やる前から「どうせできっこない」と決めてしまってはいないか、ということ。

居場所作りを長くやっていて、「できる人(実際にやる人)と、どうしてもできない人との違いがどこにあると思いますか?」と聞かれることがあります。

一言で言うと「覚悟」だと思うのです。

少なくとも私は、この世の中に、すこやかに息ができる場所がなかったから、自分が息をすることができる場所を作った(作っている)。ダメだったら、本当にもう死ぬしかないと思って必死で。

「作った(作っている)人は、作らざるをえなかった人」なのではないかと思うのです。

これから、現在実施中のクラウドファンディングでできる場所が、誰かが「一息つける場所」になるように、これからも頑張りたいと思います。


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