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私は考察が上手い……すごく上手い!ので、進撃の巨人はフェミニズムから見ても最高だって話ができる!!

※進撃の巨人最終話までの内容です。

※形式上断定口調のような文章が続きますがあくまで個人の感想・解釈です。

※ちなみに私の推しはジークで、初期から好きなのはライナーです。

【導入】 

確かにユミルが初代フリッツ王とかいうクソ野郎なんかを愛する理由がない!と一瞬感じはするが、 

私はそんなこと無いと思う。 

何故ならずっと英雄的な存在とは、ヒーローとは、いつも大体こんな感じだったから。 

戦いだとか、世界のための大義だとかのことばかり優先したり、女性にはセクハラしたり、ハーレムしたりして、その献身を顧みることはない。 

そんな女性にとってはクソ野郎だが、でも世界を救う英雄を一途に想い続ける「ヒロイン」は、いつも物語の中に必ず存在してきたじゃないか。 

1、ユミルとは果たして何なのか 

【女の子らしいということ】 

二千年前、というくらい昔々から。 

神話でもおとぎ話でも古典でも、ドラマでも映画でもラノベでも漫画、「少年漫画」でも、ユミルは常にそうやってヒーローの下支えをしながらも評価されず、顧みられなかった「ヒロインキャラクター」の概念だ。 

現代の目から見ればクソとしか思えん男でも何故か愛し続けてきたヒロインたちの怨念である。 

「フリッツ王を愛していた」の部分を「愛していたっていうよりは……」と解釈しようとするよりも、ここは素直に「信じられなかったけど……ユミルはフリッツを愛していた」[引用]というエレンの言葉をそのままの意味で読むべきだと思う。 

ミカサがエレンを愛していたのと同じように「愛していた」。 

ユミルが巨大な力を持ちながらも王の元に戻ることを選択したのは確かではあるが、しかしこれはたとえ女性の方が優秀でもそれでも男性の下につくという構造を思わせる。 

女性は結局男性に評価してもらわなければならなくなる。 

ミカサもエレンより強い力を持っているが、しかしミカサはあえて彼の後ろを走る。 

愛されるためには一歩引いて男性を立て、献身していなければならない。 

そしたらいつか報われるはず。 

いつか、いつか、今度こそは…そのうちきっと……期待し、待ち続け、「」見ることをユミルもミカサもなかなかやめられなかった。 

しかし、そんな日は来ない。 

典型的なヒロインは決して典型的なヒーローの目的にはならない。 

ヒーローの目的は偉大な何かを成し遂げることで、ヒロインは単なるそのおまけ、トロフィーである。 

【「待っていた」の意味】 

ユミルの「待っていた」は明確な誰かを意識していたってわけでも待っていることを意識しているわけではない。 

意識していないけどでも「苦しみから解放されたい」という願いが潜在的にあった…といった曖昧なものなので、それゆえ決して全てを操っているってわけではない。 

「待っていた」の感覚を現実の話で言うと、 例えばMe too運動が起こった時、今まで苦しんでいた女性達が「苦しんでるのは私だけじゃない!声を挙げていいんだ!」と思えた瞬間のようなもの。 

女性達は明確にその瞬間をイメージしてたわけじゃないが、 その事象が起こった途端、ほんとはずっとそうしたかった!ずっとこれを待っていた!!と気づいた。 

そしてこの「気づき」は、解決ではなく、戦いの始まりである。 

あの日、女たちは思い出した。 

支配されていた恐怖を。 

鳥籠に囚われていた屈辱を。 

2、進撃における“男性描写“ 

【ライナーという宿題】 

いくら世界を救う英雄でも現代の女性の目から見ればクソとしか思えん男の姿は、残念ながら今でも男達の「憧憬」である。進撃でも繰り返し言及されてきた「」である。 

強く特別で偉大なことを成し遂げて人々(同性)から尊敬され、そしてその背後ではこちらから明確な愛情を示さなくてもいつも想い続けてくれる女が存在してくれることが。 

そんな憧れが少年漫画などのヒーローにおける女性消費の忌むべき慣習を形作って来た。 

そしてそれゆえにユミルのようなヒロインは生まれる。 

「英雄色を好む」という言葉もあるくらいで、「偉大な存在になる」の裏には暗に「そして女性にモテたい!」が実はセットになっている。 

そのある意味正直な表出が最終回ラストのライナーの「ま、ヒストリアは俺にちょっと気があったからな…」と今でも思ってるような後方腕組み彼氏面と露骨すぎる振る舞いや、ジャンの言う「後世の女子高生にモテていたい……」という様子に現れているように思う。 

ライナーの振る舞いはヒストリアを搾取した描写というよりは、ヒロインたちはもう我慢ならん!!とそんな男達を想って支え続けることから卒業しようとしているが、 

しかしそれでも自分を想ってくれる理想的な女性への妄執をなかなかやめられない男たちなのであった……という姿のように見える。 

【男らしいということ(キース、ライナー、エレン)】 

女性への搾取構造を作り出すのは個人よりも大義や世界を重視し、戦いに身を投じたことが報われて英雄になることを夢見る男たちである。 

その男たちもまたその夢が存在するがゆえに苦しみ、男たち自身もその構造に搾取されてしまう。 

何故なら現実はそんな風に報われることが確約されているわけではない上に、なにか偉大なことを成し遂げよう、英雄になることを見ることは女性たちへの加害と実は結びついてしまうからだ。 

104期生の教官だったキース・シャーディスは自分が特別な人間ではない上に想いを寄せていた女性すら手に入らなかったというとは程遠い自身の状態に恥入り、耐えかねて、その女性であるエレンの母カルラを「酒場で愛想を振りまいているだけの女に何が分かる!!」と侮辱する。 

ハンジは憧れていたキースの話に、そんなくだらない劣等感のために大事な情報を黙っていたのか!と「幻滅」する。 

しかしエレンはその告白に感銘を受けた。 

自分もそうだ。自分も世界を救うヒーローでありたかったのにそうではなかったことが、もう世界にとって自分はいらない存在であるかのように感じ、消えてしまいたいと思うほど苦しかった。 

このシーンはエレンに大きな影響を与えていて、それがやがてライナーに対する「俺もお前と同じだ」に繋がる。 

ライナーもまた英雄になることを夢見た。 

しかし実際やっていることはその目的のためにベルトルトやアニを脅し、マルコを殺した事実から目を逸らし、そしてさらに自分の恥多き記憶を見られたくないがためにガビを鎧にさせまいとファルコを脅したのである。 

ライナーの理想は兵士をしていた頃の強くたくましく皆から尊敬されるようなアニキである。 

それが実際の自分とはあまりにもかけ離れていることへの恥ずかしさと自己嫌悪が、彼を自死寸前にまで追い詰めた。 

つまりライナーが死のうとした理由はただ自分が理想として夢見ているマッチョイズム的な姿から本来の自分があまりにも乖離しているが故に「カッコ悪いから」「幻滅されたくないから」である。 

えっ、しょうもない。 

でもこれが「男のプライド文化」にとっては死にたくなるほどのコンプレックスを引き起こしている。 

エレンのようにミカサに「忘れてくれ」[引用]とカッコつけ続けて死ぬこともできる。

でも本当にそれで良いのか?ほんとにほんとにそれが自分の意志なのか?自分が本当にやりたいことなのか?と言うことを極限まで自問自答し、大前提は皆「生まれてきた以上は死にたくない」[引用:タイバー]のである。

ライナーは生きることにした。 

だから彼は幻滅されたくなくてファルコを脅した責任を引き受けて、我々に幻滅されるべきなのかもしれない……

なぜなら生きるとは、カッコ悪くても、幻滅されたとしても生きるということなのだから……。

「もう俺には…何が正しいことなのかわからん…ただ、俺のすべきことは自分のした行いや選択した結果に対し、戦士として最後まで責任を果たすことだ」[引用:ライナー] 


進撃には「男らしさ」の限界物語がある。 

自分の弱さを隠したい(特に女性に知られたくない)という男性的な苦痛があり、でもその惨めさから目を逸らしたいばかりに他人に圧力をかけてしまい、そしてそんな自分を嫌悪する、という悪循環に陥っている。 

キースはそれを自分の元部下や元教え子の前で告白し、「幻滅」されることで、森から出る行いをした。 

【本来の自分へ】 

男らしさのために、英雄になるために、「戦いを課される」ことで男たちは本来の自分を殺し、異なる自分、「強い男」に成るに必要に迫られる。 

これはキースが訓練生を罵倒することを「それまでの自分を否定して真っさらな状態から兵士に適した人材を育てるため」として実践している。 

どこか現代で言う「圧迫面接」に似ている。 

ライナーは本来気弱な性格の持ち主であったにもかかわらず、戦いを続けるために、英雄になるために別の人格を要した。 

グリシャはレイス家から始祖の巨人を奪おうというときに、「私は人を救う医者だ……」と、壁の中で過ごすうちに本来の自分を思い出した。 
ニコロはサシャに料理を絶賛されることで自分が本来は軍人ではなく、料理人であることの喜びを思い出した。

英雄になる夢を追えば追うほど、本来の自分を殺し続ける苦痛が伴うのである。 

これは女性に例えると「“母親“に成ることを課される」ようなものではないか。 

今までの自分とはまるで違う自分に変身しなければならない。 

そして際限のない“強さ“を要求され、応えなければならない。 

そのようなことが男性側にも女性側にもある。 


本来の自分に立ち戻るという描写は、ハンジの最期に顕著である。 

ハンジは男性か女性か読者の間で意見が分かれるがゆえに両性を兼ねる、あるいは性別を問わない形で物語ることが可能である。 

難しい状況に苦悩してきたハンジが、もう団長としてこれ以上自分にできることはないと痛感した時、最後に自問自答したのではないか。 

私は一体なんだ?私は一体何がしたかった?私らしさとはなんだ? 

もっと最初には……そう、私は巨人が好きだった。私は巨人が好きなハンジ・ゾエだ。 

本来のその私なら、あの壮大な地ならしの巨人を、もっと近くで見たいと思うだろう………! 


そしてエレンも、マーレ編以降から我々のよく知るエレンとは程遠いクールな人物像を演じ続け、そして全ての戦いが終えようとする最終話、アルミンとの会話の中で、やっと我々のよく知るエレンらしい姿を見せる。 

【「夢」に囚われないために】 

世界のために勇敢に戦えば英雄となって人々から尊敬される。 

一途に献身すればいつか王子様に見初めてもらえる。 

このようなおとぎ話を夢見ることの大きな問題は、 

報われる」ことをエサに、男女どちらも世界や国にとって「善良たれ」「いい子であれ」という義務を課すことである。 

何か大きなことを成し遂げなければ、立派な人物にならなければ、生まれてきた価値がないと感じる強迫観念が人々に「世界を救う」という魅力に駆り立て、そして戦争に利用され、男たちもまた搾取される。 

このような苦しみから逃れる方法として進撃の巨人は以下のことを提示する。 

一つは、カルラの「特別でなければ特別じゃなきゃいけないんですか? ……偉大になんてならなくても、この子はもう偉いんです。この世界に生まれて来てくれたんだから」[引用] 

もう一つはアルミンの「僕は何故か思った。僕はここで、三人でかけっこをするために生まれてきたんじゃないかって……」[引用] 

偉大な存在になることや、大きなことを成し遂げることが人生の全てではない。 

特別な才能など無かろうが、他人から「かっこいい」と思われている自分でなかろうが、なんでもない一瞬を、ささやかな日々を、ありのままの自分を蔑ろにせず慈しむという価値観である。 

3、巨人化能力の意味 

【それはマイノリティの特徴か?】 

エルディア人が巨人化する理由を、ついそういう「血筋」だからだと思ってしまいがちになる。 

エルディア人の血、或いは遺伝子、肉体そのものに巨人化の体質が備わっているのだと。 

でもそう考えると辻褄の合わないことが多々ある。 

血筋ならばエルディア人全員がユミルとフリッツの子孫ということ? 

とすると「王家の血筋」は一体どこからどこまでのことなのか? 

ライナーのように父がマーレ人母がエルディア人のハーフ(ダブル)でもそうでないエルディア人と全く同じように発現している? 

巨人化の原因は肌の色のような体質ではなく、エルディア人の血統をあくまでもを条件としてユミルが道を通して巨人の力を送り込んでいることにある。 

ユミルが死に際にフリッツ王から言われた「起きて働け、お前はそのために生まれてきたのだ」[引用]に従い、まだ王のための仕事を続けていたからだ。 

概念的に言うなら、巨人は、なにか大きなものになろうとする、大きなものにたどり着こうとする肥大化した人間の姿への皮肉のようでもある。 

大きなものになろうとする人間はいつの間にか世界にとって都合のよい意志なき傀儡と化してしまい、それが他者を食らうことになっているとは知らない(無垢)ままでいる。   

巨人は例えば生きることに伴う「罪深さ」を表していて、それは本来エルディア人だけではなく人類全てにあるものである。 

しかし、ユミルの力によってエルディア人にだけ目に見える形で具現化していたため、エルディア人だけがその罪を背負わなければならないかのようになっていたのである。 

しかしマイノリティの特徴としても、エレンがしたことはマイノリティを救うことではない。 

巨人化能力がなくなった後、エルディア人は総人口の2割と比べてもはやそれほど少数派ではない。 

大陸の方が衰退を余儀なくされて文明もなくなり、島が壁内で中世の生活を営んでいたのと似たような状態になり、今や島の方が技術発展した軍事大国である。 

つまりマイノリティとマジョリティの立場を逆転しただけであり、その間の格差を解決するものではない。 

マイノリティからマイノリティゆえの特徴を失くしたのだとしても、それは「何の解決にもなっていませんよ」ということは、最終回に既に示唆されていることとして受け取れる。 
(マイノリティの側面からの話はまた別の記事を設けられたらここにリンクを入れます)

【親から子へ受け継がれる呪い(カリナ、アルマ、グリシャ)】 

巨人化能力とは体質的なマイノリティの特徴というよりは親から子へ受け継がれる「呪い」と捉えてみたい。


突然だけど、進撃におけるヒロイン的女性を私が挙げるなら、それはミカサ、ヒストリアはもちろん、そしてライナーの母カリナ・ブラウンもいる。 

彼女を見ているとミュージカル『レ・ミゼラブル』のファンテーヌという女性を思い出す。 

ファンテーヌはある男性と恋に落ちたが、その男は季節が変わる頃にはどこかへ消えてしまう。 

ファンテーヌはその時身籠った娘を養うために髪や歯や、体を売ることになった後、彼女は『夢やぶれて』を歌う。 

あぁ若い頃思い描いていた理想とは程遠く、なんて惨めなんだろう……それなのにいつかまた彼が自分を迎えにきてくれるのではないかとまだ夢見てしまう……でももう実現することはない…… 

カリナは自分が息子を立派な英雄に育て上げれば、いつかマーレ人の彼が戻ってきてくれると夢見て待ち続けるヒロインである。 

しかしその「夢」を見続けることが、息子ライナーに対する過大なプレッシャーとなってしまう。 

カリナは無責任な男の被害者ではあるが、しかしライナーにとっては加害者になってしまうのである。 

これと同じことはヒストリアの母アルマにも言える。 

アルマは子を産むことでロッドの妻になれると夢見た。 

しかし実際はお払い箱にされただけどころか、最後は自身が殺されることになってしまう。 

アルマはヒストリアに呪いの言葉を吐く。 

「お前さえ産まなければ……」[引用] 

連鎖は父と子の場合にも言える。 グリシャはマーレを倒し、不遇のエルディア人を救い出すのだという英雄的な「夢」を見続けていたことで、息子ジークに過大なプレッシャーをかけてしまう。 

ユミルが「善良な女の子」であることでいつか愛する人に振り向いてもらいたいと見続けた「夢」は、叶わなかったことで「呪い」へと変化した。 

「お前たちなんか産まなければよかった」と。 

それが子孫に連綿と押し付けられた無垢の巨人や13年の寿命である。 

そうしてエルディア人は「善良なエルディア人」として従属し続ける運命を母であるユミルに押し付けられた。 

ジークはそんな親から子へ繰り返される呪いの連鎖を断ち切るために、もう子供が産まれない方がよいと考えた。 

しかしこの男に殴られた女性が男を殴り返せないが故に今度は子供を殴ってしまうと言う状況に対して、エレンはもっと根本的な解決が必要だと感じた。 

4、ヒストリアの妊娠考察 

【ヒストリアは何を考えたか】 

最終的に、彼女の妊娠は「国のため」のものではなくなった。 

巨人化能力がなくなったことで王家の力を存続させねばならないという“意味”合いは無くなったからだ。 

ヒストリアの件は空白が多く、それゆえ推測の多い話になることは認める。 

でも女性が子供を持つことを選択したことに、たいそうな“意味”も意義も、説明も必要としない。 

これが本来一番良いことではないだろうか。 

「どうもこの世界ってのはただ肉の塊が騒いだり動き回ってるだけで、特に意味はないらしい。 そう 何の意味も無い だから世界は素晴らしいと思う」[引用:そばかすのユミル]

最後の展開から遡って考えると、ヒストリアは「私が子供を作るのはどう?」と話していたタイミングでエレンから「未来がこうなるから、別に子供を産む必要はないんだ」と言うネタバレ説明を受けていたのではないかと思う。 

エレンは彼女が国のために妊娠し、犠牲になる子供を産むことに強い拒否感を持っていたため、その可能性は高い。 

しかし、ヒストリアはそれでも子供を持つことを、結婚することを選んだ。 

進撃は土壇場で自体が膠着すると、エレンもミカサもハンジも「ええい!!自分の一番やりたいことをやったれ!!」となる流れがある。(何故そうなるのかは5章でも説明する) 

国家存亡の危機の時に、国のためではない結婚をした。 

なんでそんなことを?と問われたら、それは「やりたかったから……」でしかないかもしれない。 

上層部の人物も発言していた「こんな時に妊娠するなんて……」と言うようなことは、働く女性がうんざりするほど聞かされる。 

だからこそこのタイミングでの妊娠の描写には、妊娠にまつわる様々な嫌悪感を浮き彫りにするだろう。 


最終回にあるヒストリアの一家が描かれたシーンは、子供の誕生日をお祝いしているシーンである。 

自分の母に「お前さえ産まなければ……」と言われたヒストリアが、自分の子供の誕生日を祝福しているシーンである。 

親から子へ受け継がれる呪いは、問題が解決していないせいで起こる。 

「国のために」産まなければならないと言う問題が解決していなければ、ヒストリアはまだ自分の子供にも「お前なんて産まなきゃよかった」と言う呪いをかけることになってしまう。 

でも、呪いは解けた。 

【ヒストリアの夫】 

ヒストリアが積極的に結婚を選んだと考えるなら、つまり二人の結婚は政略結婚ではなく、恋愛結婚であると言うことになる。 

カップルを見てそれがお互いに相応しい相手かどうかを他人がジャッジするのは本来無粋だけれども、 「彼」を見ていると私は『赤毛のアン』に登場するギルバートという青年を思い出す。 

ギルバートは少年の頃アンの赤毛を「にんじん」とからかったことでアンを大激怒させる。 

アンを傷つけてしまったことに気づいたギルバートは以降もずっとこの件が気がかりでアンを助けては謝罪しようとした。そして大人になってからも、アンに自分の教師職を譲るという行いでついにアンと和解することができ、二人は結婚する。 


好きな子を、女の子をからかってしまう男子。 

よく聞くし、微笑ましいものでは全くなく、この上なく不快な行動である。 

でもその時のことをずっと覚えていて、それが女の子を深く傷つけたことに気づいて、それをずっと償おうとし続け、謝罪しようとする人がこの世にどれだけいるだろうか? 

大抵は「子供の頃のおふざけだから……」で済まされているように思う。 

「彼」は、子供の頃ヒストリアに意地悪をしてしまったことを気に病み、彼女を手伝おうとし続けた“稀有な”男性である。 

進撃で重要な倫理は、「過ちを犯さない」ことではない。もちろん犯さないに越したことはないだろうが、しかし問題は「過ちを犯してしまったあと、罪の意識があるか、どのように責任を取り、償うか」である。 

グリシャはジークに告発された後、自分がジークに酷いことをしてしまったのだということに気がつき、そしてエレンが産まれた後も忘れることがなく、もっとこうすべきだった……と悔やみ続けていた。 

これもまた稀有なことだと私は思う。 

普通は「なんて親不孝な息子だ!」で終わるだろう。 


私は自分がした間違いに気づけること、反省することのできる人は、それをやったことのない人間よりも遥かに信頼できると感じる。 

何も間違ったことのない人間なんて、ただ間違ったことに気がついていないだけである。 

ヒストリアの気持ちまでは正直わからない。 

ただ、私は「彼」にそのような理由で好感を持っている。 


ヒストリアのような可愛くてみんなのマドンナ的存在で、しかもプリンセスである女性は、誰か英雄的な男性のトロフィーになってしまいやすい。 

ヒストリアは女王の夫に相応しい英雄的な男ではなく、ちゃんと自分のことを考えてくれて、自分と一緒に過ごすことを喜んでくれるような人間を選んだ。 

ほんとに愛する女性と結ばれることができるのは、英雄的な行いを見つめてほしいと密かに期待する男ではなく、ただその女性への贖罪のために黙々と行動してきた名もなき「彼」であった。 

ヒストリアとその夫は、灰だらけで働いていたシンデレラのもとに王子様がやってきてくれた!の男女逆版である。 

マッチョイズム的男性像を理想とするライナーは、「クリスタは俺に気があるよな」[引用]と言う。 

気になってるのはライナー自身だろう。 

でもそうではなく、「俺はクラスで一番可愛いあの子から想われている」とアピールする。 

そのようにカッコつけ続けることは決して誠実な態度ではない。 

「想われている俺」に酔いしれてグズグズとし、「自分はあの人が好きだ」と言うことに向き合わず、その人のための行動を起こさないなら、結局手紙の匂いを嗅ぐことしかできない。 

5、エレンの責任 

【虐殺の理由】 

単純な結論から言うとそれは「時間がない」からではないか。 

エレンにはいくつかの選択肢があった。 

A、パラディ島の軍事化(抑止力としての地ならし) 

B、話し合い(アルミン案) 

C、安楽死計画 

D、地ならし決行 

エレンはこれらの選択肢を考慮した上で自分の結論を導いていく。 

A、国際社会と渡り合える技術を持ち、世界連合との戦争に備える。 

問題点:血統維持のためのヒストリアの出産、戦力維持のために13年の寿命を仲間たちに課すことになる。 

B、自分たちは危険な存在ではなく、平和を望んでいることを大陸の人々に知ってもらう。 

問題点:それは大陸ですでにされているような「善良なエルディア人」であることを常に証明し続けなければならないことを意味する。 

C、緩やかな滅びを迎えていくことで、今現在生きているエルディア人は殺されることなく平穏を得る。 

問題点:確かに虐殺も行わず、かつ仲間の命を守るためを考えるとこれが最良なのかもしれない……でも、でも、「納得できない!」 

このどれを選んだって、結局自分が「自由」になれないではないか。 

軍事化してそれでいずれ世界に勝利できたとしても、自分はもう寿命で生きていない。 

何年もかけて話し合いを進めて和解することができたとしても、自分はやっぱりもうそこまで生きていない。 

安寧ではあるが滅びを待つだけのあり方など、結局壁の中で巨人に怯えていた頃と何も変わらないではないか…… 

今すぐ!自分が!子供の頃思い描いた「自由」を見たいのだ!壁の外全てを駆逐して…!! 

これは私たちが現実の差別問題と対峙するときにも感じるもどかしさである。 

一体いつになったら解決するのか……いつになったら平等は実現するのか……少しずつ良くはなっていくのかもしれない……でも本当に解放される時、その頃まで私は生きているだろうか……?その喜びを享受することができるのだろうか!? 

従来の物語ならこう言う。 

「次世代に託そうじゃないか」と。 

でもそうじゃない。 

そうやって「時間がいつまでもあると思」[引用]ってズルズルと問題を先送りにし、いつか「報われる」と期待する間にも迫害をうける人々はどんどん傷つけられ、結局引き継がれたものは「呪い」ばかり……。 

一瞬で状況を覆すことをしなければならない。 

今!自分が!自由になりたいのだ!!! 

この真に迫った渇望が、エレンに最後の選択肢を選ばせた。 

【責任を引き受ける自由】 

「ごめん……!」[引用] 

エレンは移民の子供に謝罪する。 

移民の子供はマーレがやってきたこととは関係がなく、むしろ彼らもまたエルディア人と同様差別を受ける側である。 

彼らもまた自由を求めて立ち上がる可能性もあったが、エレンはそれごと踏み潰すことにした。 

エレンは激しく失望した。こんなはずじゃなかった……。 

自分は世界を救う英雄なんかでも、仲間のために行動する正しい人でもない。 

そうありたかったのに……そうであればどんなによかったか……。 

でも自分は自分のために世界の人々を虐殺するという恐ろしいことをするのだ…… 

何故なら人類のためとか、世界のためだとかいうことはまやかしで、そんなものはなかったからである。 

このように思い至る理由は4つある。 

一つは真実が明らかになったこと。 

壁の中で思い描いていた「人類を救う」という夢は、壁の外の世界を知った後ではもはや幻であった。 

壁の外から顔を覗かせていたのは倒すべき悪魔などではなく、ただ“現実“だった。 

「壁の外に人類が生きてると知って…オレはガッカリした」[引用] 

それは壁の外から見ても同じだった。 

ガビは島に悪魔がいて、それを倒せば皆救われるのだと信じていた。 

パラディ島のことをすでに知っている私たちから見ればガビの様子は異常で、洗脳されていて、愚かに見えたかもしれない。 

でも、壁内でベルトルトの目に移ったエレンも同じように見えただろう。 

悪魔を倒せば全てが報われ、全てが解決するのであればどんなによかったか…… 

人間は悪魔を憎んでいるようで実は悪魔が存在することを願ってしまう。 

同情しなくてよくて、倒してもこちらの心が痛むようなところのない悪魔は、人類にとって正義の味方の存在以上に理想的な存在かもしれないと私も思う。 

一つは生きている以上誰にでも自分の感情、エゴ、欲求があるからだ。 

人類のために心臓を捧げることを先導してきたエルヴィンですら、リヴァイですら、自分自身の感情を消し去ることはできない。 

よく男性は理性的で、女性は感情的……などと言うが進撃はそれに反論する。 

誰であれ感情を抑える、というか感情に基づかない機械的な判断をすることなど誰にもできない。 

私情を排しても、それは結局排したつもりになっているだけか、それを正当化するもっともらしい言い訳をしているだけにすぎない。 

だからいつもエゴは「世界を救うため!」という甘美な響きによって誤魔化されている。 

何故なら人は基本的には自分個人の欲望や願いは「世界のために」のような大義以上の価値や説得力を提出できないと感じてしまうからである。 

世界のためのことをしなかったり、逆らうということは、それは世界にとっての敵に、悪になってしまうというリスクもある。 

だから人々はあくまでも「世界のため」というような“善良な“行いによって認められたいと考え、生きること死ぬことに“意味”を求め、そしてこの忍耐が「いつか報われる」ことを密かに期待するのである。  

もう一つは、そうしてエゴを押し殺して善良であり続けても、報われることはないからだ。 

それなのに「報われる」と思ってしまうのは大抵のおとぎ話、昔ながらの物語などは「いい子であれば報われる」と説くからだ。 

グリム童話に『星の銀貨』という話がある。 

少女は困っている人々に僅かな持ち物を次々と譲っていき、最後には丸裸になってしまう。 

彼女を認めた神は銀貨降らせ、彼女は裕福に暮らした。 

進撃は、いや現実はそんな報いのない世界である。 

少女はそのまま飢えと凍えで死ぬ。誰も彼女を見ていない。 

人のことを思いやれる良い子であろうとすればするほど、他人の要求はどんどん大きくのしかかり、最終的には自分の命すら明け渡すことになるのである。 

「良い人か……それって、自分にとって都合の良い人のことをそう呼んでるだけのような気がする」[引用:アルミン] 

4つ目は、自由の定義について。 

自由とは何にも縛られず自分の好き放題にすることではない、とは誰もがどこかの眠たい道徳の授業などで耳にしたことはあるかもしれない。 

自由とは厳密に言えば他者理由(誰かのために)ではなく、自己理由(自分のために)で行動することであり、かつそれは単に自分の欲望に振り回されて好き放題することではなく、ある種自分で自分を縛ることである。 

人々がそれでも「誰かのために」という誘惑に惹かれてしまうのは、その方が一見「正しくあれる」からだ。 

そのためにどんな犠牲が出たとしても言い訳できてしまう。 

世界のため、誰それのためなんだから「しょうがない」と。 

自分が責任を引き受けずに済み、楽だからだと、自由の責任を放棄してしまう。 

そんなふうにならないためには、結局「自分がどうしたいのか」に向き合うしかない。 

「自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても……結果は誰にもわからなかった…だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ」[引用:リヴァイ]

「人類のために」とか「誰かのために」で望まない地獄を歩むことになってしまった人間の苦しみを、エレンは見てきた。 

それゆえにエレンは自分の意志の在処を慎重に見定めた。 

「皆「何か」に背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ。大抵その「何か」は自分の意志じゃない。他人や環境に強制されて仕方なくだ。でも、自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ[引用]」 

「自分のためのこと」をやるから、世界のためだからしょうがない……と言い訳することはできなくなる。 

だからそれは自分自身の選択となり、全ての責任を自分に“引き受け”なければならない(責任を“負う”よりも積極的な意味)。 

エレンはジークにもアルミンたちから「父親に操られているのだ」「ジークに操られているのだ」「だからエレンは何も悪くないはず」と思われることを強く拒否してきた。 

何故なら罪と見なされないということは責任を問われないと言うことであり、責任を問われないということは自分の意志で何も選ばなかったということであり、それは不自由であると言うことだからだ。 

世界のために、仲間のためにと言い訳できたら楽だ。全てそのせいにしてしまえる。 

でもエレンはその楽な道を選ばない。 

「やりたかったから……」[引用] 

だから全て自分の責任なのだ。 

エレンは恐ろしい罪の大きさ、責任の苦しみを全て自分自身に課した。 

壁の外の真実を知らなければ、そんな思いをしなくてよかっただろう。 

でも、それでも自由を求めて外へ出た。 

【虐殺に肯定か?否定か?】 

大量の殺人を行うということは「あってはならないこと」だというのは問うまでもない当然の大前提である。 

しかしこれは正しくてこれは間違ってる!とスッパリ完結するような話だったらエレンは苦しんでない。 

重要なのはそれが正当化されているのかどうかではなく、なぜエレンはそこまでのことをしなければならなかったか、「虐殺」の現象が何を意味しているのかである。 

戦争の話だけではなくてもっと身近な日常で、「自分かそれとも虐殺か?」のようなトロッコ問題を迫られて苦しんでる人間がいることを考えないといけないのではないか。 

例えば一人の女性が性被害を受けたとする。その犯人はある有名な大企業の社長であった。 

しかし女性はこのように言われる。 

それくらいのことで事を荒立てるな。 

あの社長は立派な功績のある有能な人で、その人無くてはこの会社は成り立たない。 

もし性被害のことを訴えて逮捕などされれば会社は回らなくなる上に企業のイメージが悪くなり、業績が低下すればそこで働くたくさんの社員が職を失って困窮してしまうかもしれない。だから黙っていろ、と。 

実際に多くの女性の声がそのような理由で口を塞がざるをえず、泣き寝入りをしてきた。 

大多数を保全するために、一個人の苦しみが黙殺される。 

具体的な事例を挙げて別の話もしよう。 

ディズニーランドのキャストたちはこれまでの労働環境の劣悪さについて訴えた。 

今まで訴えることができなかった理由は 「夢を壊してしまうのではないか…」という恐れである(以下のURL記事参照) https://www.google.com/amp/s/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/15588116/

個人の実質的な苦しみよりも、全体の「消費しやすさ」の方が優先されて、お前が黙っていなければ多くの人間が迷惑を被るんだぞというプレッシャーを受けてしまうことは日常的にまかり通っている。 

エレンの苦しみによって表現されているのは「それでも声を挙げる」ということの心理的過酷さである。 

進撃はその過酷さを虐殺を選択するというそれくらいショッキングなものとして表現した。 

それとこれと虐殺は全く違うものだ!なんていう区別をつけずに。 

声を挙げようとすれば、それは大勢を犠牲にする責任を負うことになるという苦しみとプレッシャーがのしかかるということである。 

だが本来そのような負担を個人だけが負うことは、「あってはならない」のである。 

「世界一悪い子」になることは一見解放的な響きなようでいてかなりの葛藤と責任の重さを負うことになる。 

本当は世界一悪い子になどならなくても、個人を尊重される世界になることが一番いい。 

【ありがとう】 

「エレン、私にマフラーを巻いてくれて、ありがとう」[引用] 

「クサヴァーさん、僕とキャッチボールをしてくれて、ありがとう」[引用] 

この「◯◯に◯◯してくれて、ありがとう」という語法は進撃において自己の恩人への至高の感謝である。 

虐殺を肯定することはできない。 

しかし、ジークが両親を楽園送りにしなきゃならなかったのと、エレンが人類を虐殺しなきゃならなかった状況は、同じである。
どんな理由であれ虐殺はいけない!なんて"他人が"エレンを責めることは、ジークに「どんな理由であれ両親を死なせるのはいけない!」と責めるのと同じことだ……

いけないことは、分かってるのだ。

アルミンはエレンが既に堅く決意し、他人が責めようがないほどに自分自身を追い詰めていることを見て取った。 

そしてその苦しみのおかげで、アルミンもまた13年の寿命から逃れるという恩恵を受けることも。 

だからアルミンもこの3節に全てを込めた。 

「僕たちのために(アルミン側にとっての結果)」 

「殺戮者になってくれて(エレンの実際の罪)」 

「ありがとう(アルミン自身の気持ち)」 

「エレンは僕たちのためにしてくれているから悪くない」ではなく、自身の感謝を伝えた上でエレンが自身で罪を負う意志については尊重したのである。 

最後の対話は、これまでにないほど二人が対等な関係にあるように私は感じた。 

アルミンもミカサと同じようにエレンに遠慮してるような部分があり、アルミンもエレンをいじめっ子から守ってくれるヒーローだと思ってたところがあったのかもしれない。 

「あぁ…そう…そこまでカッコ悪いことを言うとは…」[引用] 

ある意味「幻滅」である。 

でも、幻滅することされることは避けるべき忌まわしいことではないのかもしれない。 

幻滅を恐れて自分の首を絞めてしまったり、余計に人を傷つけてしまうよりは。 

[4/25加筆修正]
ところが、アルミンのあの言葉はエレンに寄り添ったというだけではない。
寄り添いの言葉であると同時に、進撃の最初から最後までを貫く「何かを得るためには何かを捨てなければならない」という言葉に則って言えば、「エレンを捨てた」言葉でもある。

「この過ちは絶対に無駄にしないと誓う」[引用]

これはつまり、「エレンは人類の8割を捨てる責任を受ける」「そして僕はエレンを捨てた責任を受ける」ということである。
それは白夜でリヴァイがエルヴィンの命と引き換えに獣を殺すことを約束したのと似た誓いの言葉だ。

アルミンは優しいが、優しくて酷いところがある。
それはベルトルトのことを「アニが拷問されている」と脅すことを思いついたときに、ネットミームで"ゲスミン"と言われたような部分は最後まで健在であるという意味である。

ジークとの最後の会話も、寄り添ってはいるが、その目的はジークを座標空間から出して死にに行かせるためのものである。

しかしこういう状況は別に従来の物語でも珍しいことではない。
「敵役を改心させる心優しいキャラ」がいて、そしてその敵役が改心したがゆえにみんなを守って死ぬ!という感動的な展開も帰結としては同じである。

「失ったのではないぞ。兵は勝手に死んだわけではない。ワシの命により死なせたのじゃ。……人類が生き長らえる為ならワシは 殺戮者 と呼ばれよう」[引用:ピクシス]

進撃はそうして犠牲にしているもののことを決して誤魔化さない作品だ。
だからアルミンも自分が決して「良い人」ではないことを片時も忘れることはない。

こうしてアルミンは今まで憎き敵であったジークにしたことを、大事な親友であるエレンにも同じようにした。
このような点は決して身内贔屓ではなく、どちらかというと分け隔てなく公正な面を示していると言えるのではないか。

「お前なら、壁の向こう側へ行ける。人類を救うのは……アルミン、お前だ」[引用] 

アルミンはいわゆる「男らしい」キャラクターではない。 

見た目もそうだし、メイン104期の中ではドベで、喧嘩も強くない。 

でももはや世界を救うのは英雄的な男らしさや力の強さではなく、アルミンがアニや、ジーク、そしてエレンにしたように、相手との話し合いや寄り添いの姿勢を続けること、そして犠牲にしてきたもののことを、自覚していることだ。

【行ってらっしゃい】 

「自分を想ってくれる女性に存在していてほしい」という願望について今までにも触れてきた。 

エルヴィンは想いを寄せている女性がいたが、調査兵団で成し遂げたい自身の夢を優先し、その女性は自身の友人と結婚することになった。 

理想は自分が夢を追っている後ろで「素敵!どこまでもついていき、いつまでも支えるわ!」と言ってもらうことかもしれない。 

でも、エレンのエレンたるところは、そのような理想をミカサに持つことが、ミカサに従順な家畜であるよう強いることになると薄々気付けていたことにある。 

「いつも無理して顔作ってる感じがして…不自然で正直気持ち悪かった」[引用]

エレンは「思いやりがあって優しい女の子」を見てそのまま「思いやりがあって優しい女の子なんだな」と思うのではなく、そこに違和感を持てる男の子であった。 

だからエレンはユミルの「解放されたがっている」という潜在意識に気がついて、それを「解放されたいんだろ!」とユミル自身に気づかせることができた。 

それゆえエレンはユミルに干渉することができた。 

でもユミルはこの時点では英雄に城から救い出されたお姫様のように男性に手を引かれた男性主導の状態でしかない。

苦しみの本当の意味は、ユミルと同じ「ヒロイン」にしか分からない。 

だからエレンはミカサが「何か」をやろうとしていたことに全てを託すことにした。 

女たちが何を分かち合い、女たちが何から解放されようとしているのか、男たちにはまだよく分からないから。 

でも、エレンは女たちが何かを断ち切ろうとしているところへ逆らわずそのまま進み続けた。 

男たちが殴り合って肩組んで夕日を眺めて男たちだけで問題解決!ではない。 

女たちが分かち合い、女たちが立ち上がり、男にはまだよく分からないところで解決が起こるのである。 

これは女たちの連帯によって英雄的な妄念に縛られた男性を断ち切る話であった……しかしエレンは何が起こるのか分からなくても、そこに向かってまっすぐ進み続けた……… 

自由を求め、見たいと願う、自由を何よりも大事に思っていて、自由でない苦しみが分かるからこそ、女たちが女たちの自由のために「何か」しようとしていることに逆らわず進撃した…………それが自由への道だからだ。 

「どうしてエレンは壁の外に行きたいと思ったの?」 

「そんなの…決まってんだろ…オレが!!この世に生まれたからだ!!」[引用アルミン、エレン] 

6、ミカサの行動の意義 

【自由への道(リヴァイ)】 

リヴァイはいつもエレンの意志を尊重してきた。 

調査兵団の切り札となったエレンを単に兵器として扱うのではなく、常にエレンを意志ある人間として、力の持ち主であるエレン自身がどうしたいかを問うてきた。 

そしてエレンの選択に託したこと自体を自身の責任と捉え、結果について決してエレンを責めなかった。 

また、ケニーをはじめ、何か大きなものになろうと足掻く男たちのなかで、リヴァイはそんなに大きな夢には関心を持てなかった。 

リヴァイは別に特別な存在になろうとか偉大ななにかを成し遂げたいと思っているわけではなく、「心臓を捧げよ」も言ったことがなかったくらい戦いに陶酔したこともなかった。 

思い描いたのはただみんなが屈託なく笑いあえるなんてことのない日々である。 

先述した偉大な夢を見る苦しみから逃れるあり方を、リヴァイはすでに持っている人であった。進撃においてそういう意味で「理想的な人物」として描かれている。 

リヴァイは生まれたことがすでに偉大であった。 

アッカーマンはその存在が王政にとって不都合であり、迫害を受けていた。 

リヴァイの母も劣悪な地下街で暮らす身の上であり、身ごもったとき産むことを周囲から反対された。 

しかしこの「生まれてこない方がよい」と思われるほどの迫害の吹き荒ぶなか、リヴァイはそれでも生まれてきたのである。(それゆえに「生まれてこない方がよかった」を掲げるジーク・イェーガーと対決することになる) 

リヴァイはただみんなで笑いあえればよいというささやかな情景を、朋友エルヴィンと共有することができなかった。 

エルヴィンはそんなささやかなことよりも、世界の真理を自分が目にすることの方がなによりも肝要だと言い切ってしまった。 

それらが何か大きなものを追いかけようとする人々のなかでリヴァイが感じてきた孤独であり、(本人は特別なものを望んでいるわけではないにも関わらず)人から憧れられるような最強の力を持っているがゆえの葛藤である。 

強い力のある者は強いから特別だから偉大だから、生き延びられるのではない。 

強いから死にゆく者の希望によって生かされる。 

強いからこそ、切り札として先に行ってもらわなきゃならないと、弱いものが肉壁をしてまで強い者のために屍の道を作る。 

だからどんなに苦しくとも、その者たちのために、悲願を遂げるまで生き延び、戦わねばならない。 

リヴァイはそのことを片時も忘れなかった。 


現実の場面において、親しい人や恩人や愛する人が、不意に差別的な、誰かの自由を迫害する言動を行ってしまうことは十分ありうる。 

よく知った人だからと見て見ぬふりをしたり、今までに素晴らしい功績のある人だからと曖昧のままにするのではなく、大事な人だからこそ、止めなければならない。 

止めたり糾弾したりしたことで、その人が破滅することになったとしてもこういう風なことを言わなければならない。 

「夢を諦めて死んでくれ」[引用]と。 

その人間がその立場における夢にすがり続けることが、人類の自由を塞ぐことになってしまうから。 


リヴァイが白夜にて、運び込まれたエルヴィンを見て咄嗟に注射器を持つ手を引っ込めてしまったのは、自分が獣を仕留められなかった、誓いを果たすことができなかったからでもあるだろう。 

だからリヴァイはエルヴィンを眠らせることにしたとき、その責任を引き受けるために獣を倒すことを“自分自身に”誓い直した。 

「獣を殺す」という課題は、その瞬間には意味があったが、しかしその後の壁の外との問題に揺れる情勢のなかで、その課題にこだわり続けたところで何の解決にもならないように思う。 

しかし、本当は一個人が世界のために直接どうこう出来ることはなにもなくて、その個人個人が、例えどんなに個人的なことであろうとも自分の責任を果たす行為を積み重ねていくことで、心臓はどこかに辿り着けるのかもしれない…… 

【戦え!戦え!戦え!!】 

「あなたはある物語を作りだした。それは王子様と世界を救う奇跡の物語」 

「まるで自分は違うとでも言わんばかりですね。一体私とあなた達の何が違うと言うのでしょう」[引用:ピーク、イェレナ] 


こんなはずじゃなかった…… 

人々を踏みつぶしていくエレンを見てミカサは苦しんだ。 

エレンは勇気を貰った相手だから、自分に良い影響を与えてくれた人間だから、そんな相手のことを否定することには、壮絶な葛藤と苦しみが伴った。 

ずっとエレンはなにも悪くない、エレンは優しいはず、エレンは自分たちのためを思ってくれているはず……だからいつか私のところに帰ってきてくれるはず……と思ってきたが、もはやそれは実現しない。 

ある種ミカサはエレンの信奉者だった。 

それはエレンの兄ジークの信奉者であるイェレナと対比になっている。 

イェレナは地鳴らしが発動された後でこう言う「ジークは敗れた……でも正しかった」[引用]。 

この「正しかった」はジーク本人が最期に言う「(安楽死計画は)間違ってなかった」とはニュアンスが異なる。 

「正しかった」は「だからそのための犠牲は仕方がなかった」であり、「間違ってなかった」は「でもそのために人の命を奪ってしまったことは自分の責任だ」である。 

最終的にミカサがエレンにしたことは、イェレナの態度とは真逆となる。 

なぜならミカサに「戦う」ことを教えて救ってくれたのがエレンだからだ。 

それなのに、今エレンがやっていることは人々の戦う意志ごと奪いつくしてしまうことである。 

しかし「戦え!」という意志は、もうエレンが言うからというだけではなく、いつの間にかミカサ自身の意志になっていた。 

いつから? 

もう既にかなり冒頭からである。 

「私は…強い…あなた達より強い…すごく強い!…ので私は…あそこの巨人共を蹴散らせることができる…例えば…1人でも」[引用] 

ミカサはエレンが巨人に食われた後も戦い続けようとした。 

一度は自分ももう死んでしまおうと膝をついたが、 

でもそれは「できない」[引用]。 

なぜならエレンが言ってくれた「戦え!」が、エレン無しでももうミカサ自身の意志、ミカサ自身の信念、ミカサ自身の人生になってるから。 

エレンが教えてくれた「戦え!」という意志がミカサのなかで生きている、燃えている。  

だからこの意志を守るためにミカサはエレンと戦った。 

ここで戦わなければ、その「戦え!」という意志すら死んでしまい、それはエレンのことを忘れてしまうことと同義なのだ。 

エレンの行いをミカサ自身で否定するからこそ、ミカサはエレンへの愛や思い出を守り、持ち続けることができる。 

否定しなければ、その愛や思い出までも虐殺の罪に塗れてしまう。 

ミカサはそれを断ち切ったのだ。 

その人間を大事に思っているからこそ、その過ちを止めねばならない。

【真実の愛のキス】 

エレンを愛しているがゆえに、今までずっとエレンの3歩後ろを歩き、エレンのためだと思っていたことから脱し、この絶望的な最中にミカサの奥底に眠っていた独善的である真の愛と向き合い、ミカサは自分のためにキスをした……… 

真偽はともかく、彼は自分のことを嫌いだと言っていた相手である。 

だからこそ今までエレンの意向を伺い続けてきたミカサがエレンの意思を問わないという世にも強引なキス。 

ミカサによるミカサのための、今まで抑え込んできた自分の心へのキスである。 

エレンが残りの余生を穏やかに生きることよりも人類を皆殺しにして今自分が自由になることを選んだのと同じように、 ミカサはずっとエレンと一緒にいる夢を見続けることよりもエレンを殺して今自分が彼にキスすることを選んだのだ……… 

この愛は、それを成し遂げるほど強いものであることを、そして決して隷属のためにあるものでもないことを、ミカサはエレンと自分自身に、そしてユミルに証明したのである。 

ヒロインからのヒーローへの想いは、それこそ様々な物語で男が目指しているような世界の為の使命や大義からすると他愛のないもの二の次であるものとして描かれてきた。 

例えどんなに献身的でもまさに「大多数のためにないがしろにされる一人」だから、進撃がこのような展開を持ってくるのは筋が通っている。 

愛されるためにはそうして一歩引いて献身していなければならないのだ……そしたらいつか報われるはず…………という思い込みというか、それが世界の摂理かのように見えたことが、「そうじゃない」とミカサによって打ち破られた。

すなわち王の奴隷にすぎないと思われたアッカーマンこそが、実は最も自由への道に近い人間であった。
アッカーマンにユミルの力が効かないのは、それこそユミルが誰か自分の苦しみを打ち破る人間がいてほしいという願望の現れゆえではないだろうか。

2000年前、フリッツ王が暗殺されようとしたシーン。 

暗殺者はおそらくフリッツが起こした戦争によって国が滅ぼされるなどしてフリッツを憎んでいるものだ。 

だから、それは残虐な戦争を続けてきたフリッツが受けるべき責任であった。 

しかし、ユミルはそれから彼を庇ってしまったのである。 

フリッツが彼女を人間として愛していたなら、ここで過ちに気づいたかもしれない。 

でもフリッツは気付くことなく戦争を続け、巨人を増やし、マーレからの恨みを蓄積することになる。 

こうしてフリッツが引き受けなかった責任が、後世のエルディア人に負わされていくことになるのであった。 

ユミルが苦しみから解放された理由は様々なことが言えると思う。 

ミカサが自分にできなかったことをしてくれたからとか、ミカサと気持ちを共有することができたからとか。 

とにかくユミルは王に仕えるのをやめた。

愛することとは献身することだけではないと、 

「彼を愛している」ことと「彼のやっていることは許されることじゃない」を両立するすることはできると分かったから。 

さて、おとぎ話のセオリーですが、真実の愛は魔法を解く。 

城中にかけられた眠りの魔法から目覚めるように、巨人と化した仲間たちが元の姿へと戻った。

おとぎ話ではキスは王子様から眠れる姫にするものだが、ここではその男女逆版である。


こうして恐ろしい怪物も、世界を救う立派な英雄も、愛する人を想い続ける優しいお姫様も、この世界から消えていなくなってしまったのでした。 

めでたしめでたし。 


7、まとめ:進撃の巨人から受け取れること 

【解放されるということ】4/23加筆

進撃は序盤こそ「死んだ甲斐があったな…」[引用]と、人類の命運という大いなる意味のために死にゆく者たちの物語が繰り広げられる。
しかし、中盤でのそばかすユミルの「この世界に大した意味は無い、だから素晴らしい」はそれとは真逆の在り方を賛美する。

意味、それは過酷な状況におかれているからこそ死ぬことの意味(それが何かの役に立つか)、生きることの意味(人に必要とされてるか)が強調されてしまうとも言える。
その先は実は意味のあるゴールにたどり着くことではなくて、意味など無くてもいい世界になることが実は一番良いというところに帰結していくのではないか。

シンデレラはただ王子様を待つことしかしなかった弱い女か?
いや違う。彼女はもう強かった。強くあらねばならなかった。
一人で屋敷の家事という負担を担い、人格を奪われても、一人で理不尽に耐え続けてきた。
それでも強くしなやかでわきまえた「いい子」であらねばならなかった。

進撃が促しているものは、強くなって今までの自分と全く違うものになるということではない。
何故ならもともと男も女も今までもう十分「強くあらねばならなかった」「強いことにされてきた」のだから。
「戦う」ことで目指すのは強さではなく、本来の自分を思い出し、元いたところへ帰れること。
強さを要求されなくとも、生きていけるようになること。

「帰りたい……私達の家に…帰りたい」[引用:ミカサ]

【夢との決別】 

フェミニズムに初めて触れた頃、女性でも、特に昔からディズニーのようなファンタジーが好きだった人には、こう思った人がいるのではないかと思う。 

もう今までのようなプリンセスは見られないのか………という寂寥感が……。 

それどころか、もう忘れなきゃいけないのか……。 

今まで好きだった女性像はもう弱い女で、もう古びたものとして、それをあぁ素敵だな、好きだなと思ってきた自分ごと捨ててしまわなきゃいけないのか………って……… 

そしてそれは少年漫画などにおけるヒーローの存在も同じである。 

もう時代にそぐわないから、今までのヒーローはなにか穢らわしいもののように扱わねばならないのだろうか? 

でも、子供の頃ヒーローに憧れた大事な思い出がある。 

勇気をもらったこともある、大切なことを教えてもらったこともあるのに……? 

壁の向こうを知ったあと、急激な時代変化への対応を迫られた壁内の人々にように、変わりゆく価値観のなかで私たちも戸惑い、置き去りにされないように進み続けなければならない。 

自由をつかむためには今まで好きだったものを否定しなければならないことがある……その寂しさ、幼心から引きはがされるような苦痛……でも、でも、それでも前に進まなくちゃならない……という葛藤に、進撃は寄り添ってくれたと思う。 

進撃の巨人は、私たちを育んだ夢のある物語への郷愁、そしてそれにお別れを言う新たな物語の黎明だったと私は思う。 

よくあるフェミニズムを描こうとする作品は、そのように白馬に乗った王子様を待ち続けたような従順なヒロインの存在などもうなかったことにして、もうすっかり古いゴミ箱に捨てて忘れ去ろうとしてしまう。 

でも進撃はそのいにしえのヒロインの存在を描き、二千年前から遡ってその不当な仕打ちを糾弾し、我々に突きつけ、そして「自由」への道のあらゆる複雑で過酷な側面を描きながらそれでも取り戻すべきものとして、ヒロインの苦しみを解放しようとした。 

ミカサがしたことは、良い子にしていればいつか王子様が振り向いてくれる……というプリンセス願望からの、 

そしてエレンがしたことは偉大なことを成し遂げれば英雄になれる!というヒーロー願望からの、"苦しみ抜きながらの"夢の世界との決別。 

つまり自由を求めるということは、夢を諦めて死なねばならない。 

少なくとも、自由を得ようとするなら今までの自分を捨てなければならないことがある。 

夢に縋りつき続けることは、自由への道を阻むことになるからだ。 

人々はいつまでも夢を名残惜しそうに思い出して、あぁ昔はよかったと懐かしがり続けるでしょう。 

しかし自由への道を踏み外さず、ステレオタイプな夢の過ちを、問題をしっかりと認めていれば、 

昔のヒーローやヒロインの思い出を、今でも好きなままでいることはできるのである。

巨人がいなくなった世界は、もはやファンタジーではなく、「私たち」現実世界と同じ舞台へと合流を果たす。 

夢と決別し、自由のための私たちの戦いが、まだまだこれからだ……。


以上、たいへん長くなりましたがここまで読んでくださりありがとうございました…!

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●ローラン向けのおまけ

こんにちは!あなたはなんかRevoが進撃の巨人とかいうアニメの曲作るらしいからいっちょ覗いてみっか!という軽い気持ちでえらいところまで連れてこられたローランですか? 

私はそうです。 

【進撃の結末とNeinの類似】 

進撃でしていることをサンホラでいうと、 

詩人ルーナが偉大な行いをして死んでしまった恋人を想い続けるのをやめてパン屋の主人と幸せになることにしました!とか、 

偉大な英雄として死にに行こうとする愛する兄に「私と一緒にいろーー!!」と手を引っ張って、世界が滅ぶのも構わず二人で過ごすことにした話によく似ている。 

「こんなことするなんて、私悪い女ね」といった歌詞が出てくるが、それはまさに「世界一悪い子」のことである。 

Neinは「女性らしさ、ヒロインらしさ」という檻のなかの悲劇的な女性たちを、その檻から出すことで、男性や運命に対する従順さから解放する試みだ。 

Revoはどうしてこんなことをしたのだろうか。 

先の進撃考察からの話で言うと、 Revoは自分で自分が作った物語の「首を獲った」のではないかと私は思っている(いや……グラサンを取った、か?)。 

こうして今までの物語にはジェンダーやセクシャリティ、倫理的問題や欠点が含まれていることを自らの手で明らかにし、作者として認識していることを提示しておく。 

それによって改めて「否定しないでくれ」と言うことができるのである。恐るべし。 

最近、「このキャラクターが苦しんでいるのはお前らが夢のある物語、完璧な強い人物像を望んで消費してきたせいです」と突きつけるので、読者を傷つける性質のある作品が増えてきているように感じる。

ゆえに人によって大きく賛否両論が分かれ、時に論争となる。 

『絵馬に願ひを!』でも「お前らの解釈と選択のせいです」と責任を突きつける仕様になっている。 

諌山先生も展示会の映像のなかで、「読者を傷つけたいんだと思う」と言っていた。 

その傷つきから何か気がついてほしいという我々への宿題があるように感じる。 



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