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「呪いの眼」

呪いの眼

蛆と蚯蚓の蔭から
赤黒い呪いの眼が光る
毒気と退廃とでお前は生きている

私が王者の娘になって
妖艶な思想をし
その思想と媚びとで
天国に昇ろうとすると

埃のなかにいっぱいお前が溜まってきて
私を邪慳にしてしまう

私は唾を吐くだろう
そしてこういうのだ

虫め 死んじまえ

すると私は見窄らしくなってしまい
汚い廃園がそこここにひろがってくる 

(高群逸枝 「日月の上に」から、「呪いの眼」 冒頭)

高群逸枝について書いたものについては結構読んでいると思うけど、高群逸枝自身が書いたものは、ごくごく初期のものしか読んでいない。歴史学者としての彼女の業績は、正直あまりわかってないのである。でも、彼女の初期の詩集「日月の上に」は、時折開いては何度も出会い直す大切な本になっています。

最近、久々にめくっていて、再び出会ったこの詩よ……。
昔は、彼女の詩にある、強烈な自意識「出発主義者」としてのエネルギーと、社会にある女性蔑視や「わきまえない」女へのさげすみや圧力を内在化して自分を貶める負の力……まあでもこれも結局、出発のエネルギーのカンフル剤として機能しているものなんだけれども。 とにかく、その感じにとても「見覚え」があって。好きだった。この詩も、そのようにして読んでいた。

でも久々に読んでわかった。
これは、望まずして、性的な目線にさらされた、性的な被害、性的な搾取にあった女性の、なんとも、一筋縄ではいかない感情が、本当に赤裸々に描かれているものなんだなってこと。

自分が悪いわけでないことはわかっている。しかし、それでも、野卑で気持ちの悪いものがやってきて。どんなに自分が、そこから自由であろうとしても、未来への希望で胸がはちきれんばかりのエネルギーでいっぱいのときも、その「呪いの眼」にふととらわれたら、あっという間に闇にひきずりこまれてしまう。

詩の後半では、

私がまだ小さくて
かわいい子どもであった時
そして私のきれいな心が
高価な空想でいっぱいだった時

の、性被害について語られている。

だがお前は
お母さんにさえも
いいつけることのできない
古風な娘の心を
さんざんに弄んだ

「お母さんにも言えない」にも、覚えがある。世の中では、性的に魅力がある女性しかそういう対象にならないかのような物言いが、今もはびこっているけれど、私自身もそうだし、多くの女ともだちもそうだし、つまり多くの女性が、年端もいかない幼い女の子時代に、何らかの性的な被害にあっている。それが何を意味するかもわからないのに、なんだか、親にも言えないような。そんな体験。私にそれを話してくれた女ともだちもみな、「親にも誰にも言えなかった。初めて話したかも」と言ってた。


なんだか書きたいことがとっちらかってきちゃったけど。
高群逸枝のすごいのは、詩の最後に、その呪いの眼に対して、こう呼びかけるところだ。

だけど呪いの眼よ
私を そんなに呪うことが
お前の幸福であるならば
どうか構わないからお呪いなさい

そして私に会いたいならば
いつでもお出なさい

女詩人のうちはどこだと
おたずねになればわかります

静かにお話をいたしましょう
ね 呪いの眼よ

この感じも、でも、わからないでもないようなそんな気がするが、まだうまく言葉に紡げない。


しばらく、こういうことを、ひとつひとつ考えて、言葉にしていきたいなと思って。まとまったものを書こうと思うとまた書けなくなるから。メモ的に少しずつ。

数年放置していたnoteに書いてみることにしました。ひっそりと今後も書いていくつもり。ほとんどリハビリだな。


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