見出し画像

起業してみて

栄養士養成学校を卒業し就職したのは最大手証券会社だった。自分は株が何かも知らない状態で好きも嫌いも何をしたいかもなく、親の希望のようなもので就職した。

厳しい世界なのですぐにしんどくなり行きたくない日が続いた。先生をしてくれる数年先輩の女性は鬼のように厳しくノートを取らせチェックされ、そして客には怒鳴られ誹られ、、

しかし、女性を戦力にしようではないかと言う試みの時代で毎月のように研修に行かせてもらい3年目には新人を教育できるまでになり、そして顧客も数百人、億の取引をするまでになり、4年働いた後結婚し子供を産み、また証券に復帰した。

そして、50歳を目の前にした時に私はこのままでいいのかと初めて思った。

金融機関というところはある程度以上のサラリーをきちんと渡してくれる。ストレスは溜まるが子育てでお金のかかる私にはとても都合の良い職場だった。しかし、リーマンショックの後あたりから、証券会社のサラリーはそんなに良くなく3人の子供を大学まで出すには充分ではなかった。

それでもどうにか頑張り3人目の末っ子が大学に入った時に証券を辞め、若い時よりやりたかった栄養士に

でも、栄養士はひどいサラリーの上肉体労働で、もはや歳をとった私がする仕事ではなく、私はフリーの栄養士になり数年は請負で特定保健指導をしながら茶懐石をやりたくて京都に習いに行っていた。

1日に1グループの茶懐石の需要があればどうにかなるかなと思って数年通ったが、我が県では需要もあまりなく、これでは商売にはならないのではと思った頃、茶懐石の中で師匠が外注してる和菓子に着目した。和菓子ならシンプルで手のひら大で美しくていいなと思ったのだ。

早速教えてくれる人を探して通い詰めたのだが、一人ではなくもう一人練り切り専門で教えてくれる方の菓子が美しく神戸へ通うことに。

こうして私は和菓子の世界に入ったわけだが、二人の師匠は一人はお年を召した熟練、もう一人の女性はお教室専門の方。しかし、彼女は凄くて、どんどん教室を大きくして今やビジネスコーチである。

私はそんな中、地元の動向を見て教室やWSを中心にしようと決めたわけだが、自宅ではないところでとなると場所はレンタルになり資金はその都度予約でかかるのに人を集客出来ないという開店休業に追い込まれていった。

これではどうにもならない。

そこで、サロンのような教室ではなく和菓子を売ってる人が教えている教室という差別化を図ることにした。

そうして生まれたのが、琥珀糖専門店「山下透明菓子製作所」である。

なぜ琥珀糖かと言うと、まずは見栄えのいいのは練り切りなどの上生菓子だが日持ちがしないのと、実店舗ではなくネットで売るので注文をもらって作る場合、非常に効率が悪いということもあった。
琥珀糖なら味も変えやすく、色も綺麗だし何しろ日持ちがするのではと考えたわけなのだが、その時点で私は琥珀糖を作ったこともなかった。

それから、琥珀糖作りを試行錯誤して研究しながら菓子製造許可のある施設を探し回るのだが、そのころそんな場所もなかなか見つからず、ネットで数年前にそう言う施設を作ったと言う人の新聞のネットの記事を見つけて電話突撃をしたわけだ。

その頃には初夏に思い立った構想だったがもう季節は巡って春先になっていた。

その施設の主人である女性は大変厳しく、私の資格は免許の提示を求め、それは当たり前なのだが、作るものの品質表示に至るまで何度も何度も提出させ「これではダメです」といい、なかなか施設を貸してくれなかった。
最終的に合格を頂き貸していただいたのだが、「物を売る厳しさが少しは分かりましたか」と言われゲンナリしたのだが、その時の指導が今となっては本当に有難いと思う。
食の安全が危ぶまれる昨今、皆に指導をしてほしいくらいだ。

そうして私はまず、近くにできた施設でそこを借りて制作した琥珀糖とわらび餅をもってポップアップ出店をした。

もう後に引けない

と思った瞬間だ

商品は、売れなかった

店舗はネット上で実店舗がないと言うとなぜか引かれた。

時はコロナの一年前

ネットで個人事業主が売ってると言うことだけで胡散臭く見られる

まだそんな時期だった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?