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ものがたる線ものがたり④

書道を小学校2年生から習い始めたが、その前から、祖父が自分で墨を擦り、スクラップブックや自分で買った本を補強してタイトルを書く、などの工作をよくやっていて、わたしは幼い頃からそばにいて墨を擦る手伝いをしていた。硯のすべすべした感触が好きだった。雄勝硯の美しい彫刻の入った硯は形見として今でも使っている。

書くことがとにかく好きだった。だから落書き帳がすぐなくなって、祖父はわたしの落書き帳をチラシや包装紙の裏を製本して作ってくれた。紙に、土に、道路に、あらゆるものが画材になった。アスファルトになってからはジョウロに水を汲んで、水で書いたりもした。すべてがあそびで、すべてが材料で、幼稚園をやめてからはますます自分の世界に没頭した。

当然、学校に適応することができなかったが、近所にできた書道教室に行ってみたら学校では「消極的で大人しい」と評価の低いわたしは、「静かでよく書く」ということで褒められ、書道の先生に可愛がられた。

価値の変換。
戦わなくていい場があること。
評価軸の変化。
弱くも強い芯の部分はここで培われた。

競争しないけれど負けたくない世界ができた。自分のこだわりを徹底して追求できる世界だった。思った通りの線を書くために誰にも言われなくてもひたすら練習していたが、思えばあれはわたしにとっての「あそび」だった。

いまだにそうだ。気になることがあるから追求する。損得より興味関心。興味関心ということから始まるから、他人から見れば真面目なことに見えるあれこれも、わたしには「あそび」だった。王道から外れ続け、なぜか真っ直ぐに歩いていけない自分がいたが、だからこそ出会えたのは最高の変態たち(と書いて「いい大人」と読む)だったのは多分間違いない。

「神遊ぶ ゆえ 人遊ぶ」という言葉がある。「すみあそび」も神々とのあそびかもしれない。

つづく。


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