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線とかたち展を終えて

6/4~6/9まで仙台のギャラリー「SARP」で行われた斉藤文春さん企画の展示に21名のうちの一人として参加させていただいた。実はわたし自身の「作品」というものをこれまでほとんど発表したことがなく、書道展や公募展では書の作品を書いてきたとはいえ、今回のように本当に自由に、書なのか、絵なのか、なども本当にこだわらずに「やりたいこと」を表現した、というのは初めてに近い。

わたしはそもそもなぜ書くのか、という問いに答えを見つけたいし、そもそも「書く」という行為と「描く」という行為を、自分自身があまり分けずに(つまり美術部と書道部に所属してみたり、どちらも好きで捨てきれなかったり)のような分野横断はわたしにとって原点だ。

ということで「線」というテーマの中で、自分自身の原点に戻りたい、と思えるようになったのも、そもそも斉藤文春さんとの出会いがあったからでもある。そして何度も「これまでの積み重ねがあるからこその今です」という言葉をいただいてきた。技術として得てきた書道の基本も、師範をとったことそれ自体も含めて、「わたし」であることを励まされてきた。

師範をとったときに蒼玄先生からいただいた「朱紅」という名前は、とても赤いイメージだったが、「太陽の光の色なんだよ」と言われたのをずっと大事にしてきていた。「紅」は、ずっとお世話になっている紅雪先生の一文字も入っている。だからこそ、公募展には出さなくても、所属していなくても、この名前で表現し続けていきたいと思っていた。

歴史を塗り替えるのでも、何かを無理矢理変えるのでもなく、変容はまるでうっすらと見えている世界が徐々に濃くなっていくような、影と光が反転していくだけのような、そんな世界のイメージを「越境」という作品に込めた。さらに、わたしの生き方自体を、どこか自分自身で卑下し、さまざまなことに関心を拡げたが中途半端でなにも成し得ていないと思い込んでいたが、それすらも生き様であり、さまざまな場所に境界を感じなかった、ある意味での「越境」に向き合ってきたのかもしれない、というわたし(という、あなたへの)思いもあった。

みてくれる人はいるのだろうか、という不安は常にあった。展示するまで、本当にこの作品を出していいのだろうか、と思った。評価されることを恐れる自分と思いっきり向き合うことになる。しかしあるとき、「そもそも評価をなぜ気にしているのだろう」という思いも育っていることにも気がついた。これは今まで感じたことのない、安心感でもあった。両極端な感情が混在している。

初日。ある女性二人がじっとわたしの作品の前であれこれ話をしている。正直なところ聞くのが怖い。逃げたい。ところがその二人に、文春さんに紹介していただき挨拶をすると、それはもうすべて録音しておけばよかったとお思うくらいに褒めていだだいた。表現したかったこと、込めている想い、書きぶり、伝えたかったこと、それが伝わっているということが嬉しかった。

「誰とも比べる必要はない」
「あなたはあなたの表現でいい」
「あなたの線にわたし自身を感じる」

これはずっと自分が言い続けてきたことだった。言葉が、わたしのもとに還ってきた。

「いやいや、まだまだです」というような言葉を言いかけて、その言葉を思ってもいないことに気がついた。「まだまだ」とかではなくて「いまはこれが全て」なのだ。

「ありがとうございます」という言葉をこのたび何度言っただろう。

謙虚であること、というのは、対等に存在し続けることなのかもしれない、と思った。卑屈になることでも、優越感に浸ることでも、過剰に遠慮することでもない自分の「等身大」を認めていくこと。

自分が思い描いてきた「世界」を、自分で創ることができる。これまでのように言葉で伝えたり、場を開いたり、それだけでは足りなかった何かが埋まっていく感覚でもあった。

「体現する」という言葉があるが、それはまさに「自分がやってみる」ということでしかない。これからもすべてが自分の人生を賭けた実験だな、と思った。

このたびは本当に素晴らしい機会をいただき、出会えた全ての皆様に感謝でいっぱい。溢れてくるこの感謝をまた、還元していきたいと思う。

越境②
越境③

※今回の写真は、仕事の合間にカメラを携えて登場してくれた角田純生さん提供。
素晴らしすぎるタイミングでの登場に、感謝!!


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