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真面目さと面白さ

真面目な人が嫌いだ。つまりは勉強のできる人が嫌いだ。

ずっとこう考えて生きてきた。真面目な人を忌避し、面白い人になろうと努力してきた。今でもその考え方は変わっていないし、面白い生き方がしたいと日々模索している。しかしある時、一体真面目とはどのようなことなのか、面白いとはどのようなことなのかとても気になった。

僕の嫌いな真面目な人と言って真っ先に思いつくのは大学受験の勉強を必死こいて行なっていた人たちである。このような人たちの中には部活もやめ友達とも遊ばずずっと勉強ばかりしていたような人もいる。高校にある「内職」という悪しき文化(授業中に他の科目や塾の勉強をすること。例えば国語や体育の授業時間に数学や英語をやったり。主に重要でない教科の授業中に行われる。)は僕が最も毛嫌いするものであったし、「内職」をするくらいなら授業中に寝ている方が何倍もマシだと心から考えていた。だがこう言った人が成績を伸ばすのは至極当然であるし、それのおかげでレベルの高い大学に入ることができたのなら社会では評価されるということもあながち間違いではないのだろう。

しかし、果たしてこの人たちは「真面目」なのであろうか。部活もせず授業中には内職し、掃除の時間にもまともに掃除はせず勉強に励む。文化祭にだって力は入れず準備期間は勉強に充てる。少なくとも面白い人ではないだろう。だがそれと同時に真面目な人でもないような気がする。僕の思う真面目とは部活も文化祭も掃除も手を抜かず授業はしっかりと受け、それでもなお自分自身で勉強時間を確保することにより良い成績を取れる人のことだ。少なくとも内職をするような人は真面目ではない。

では、面白い人とはなんだろう。僕は面白い人とは、「頭の良い人」であると思う。では「頭が良い」とは何に起因するのだろう。僕が考えるに頭の良さは人生における経験値に起因する。人生の経験値とは文字通り経験してきたことの多さである。経験なんて言うものはなんだって良く、留学や学生運動にとどまらずそれこそ趣味や部活だって良いしなんなら喧嘩や夜職だって立派な経験だと思う。キャバクラのボーイをしていた人や元ヤンに面白い人がいるのはそれだけ人と違う経験を積んできているからなのだろう。

先述の内職をするような人たちが面白くないのは部活や遊びのような経験を積んできていないからだと思う。一方で、真面目な人、つまり何にも手を抜かず部活や文化祭などの多くの経験を積んでいる人は面白い人なのではなかろうか。一見両立しなさそうな真面目さと面白さは、実は両立するのではなかろうか。「面白い人ならば真面目である」と言う事象は必ずしも成立するとは限らないが、「真面目な人ならば面白い」と言う事象は常に成立するのかもしれない。

「真面目な人」と聞いて成績が良い人を思い浮かべる人は少なくないだろう。かく言う僕も真面目な人になんかなりたくないとあえて勉強をしない日々を送っていたこともあった。だが、勉強も立派な経験である。勉強を忌避したところで面白い人になれるかどうかは関係ないのだ。真面目で面白い人になるために大事なのは勉強をしないことではなく、勉強も含め様々な経験を積むことなのだろう。

「面白い人」には様々な種類がある。勿論その中には勉強が全くできないような人もいるのだろうが、勉強もできる「真面目で面白い人」だって世の中にはたくさんいる。「面白い人」になりたいと考えたときに勉強をするという選択肢を排除するのは勿体無い。勉強はした方が良いのだ。真面目に生きた方が良いのだ。それで十分面白くなれる。

今までの僕は面白い人になりたいと思い真面目な人になんてなるものかと考えていた。だが真面目な人も面白いのだと知った今、僕の人生には真面目な人になると言う選択肢も浮かび上がってきたのである。大事なのは勉強も含め沢山の経験を積むことなのだから。


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