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【自由律俳句・青紫蘇】くるくる巻いたは良いが手には鈍ら

庭生え草目を凝らせば超食用

畑にバジルが生えていると母が言う。
ならば摘みに向かおう、と外に出たら庭に見知った形状の草が生えている。
鼻を近づけると明らかな紫蘇臭。それも割とかなりの量が生え誇っている。
小さなしあわせを感じた。

うわのそらで摘み梅を思う

紫蘇を摘みながらもオートで脳は梅を思い浮かべている。
梅と紫蘇はワンセットでインプットされている。梅と漬ける紫蘇とは違うが、そんなことは関係ない。紫蘇ときけば梅なのである。
目に見え、触れている紫蘇よりも梅の存在感が強まる。紫蘇が不憫になり、紫蘇と梅をたたいたささみで巻いてレンチンして食べた。

くるくる巻いたは良いが手には鈍ら

紫蘇といえばくるくると巻いてカットするのが常套手段だ。
今日も私はそうした。しかし、手元には鈍ら包丁しかなかった。私はそこですぐ研ぐほど俊敏で勤勉ではない。
鈍らで挑んだら案の定スパッとは切れず、にちゃっという音を立てる。残念でならない。

人参が最後ではなかったのか

人参をカットし、しっかりまな板を洗った後に、紫蘇をカットしないといけないことに気づく。調理バサミで切れば良いが、今日は使っていないので、新たなギアを出して、それを洗わないといけないのも億劫だ。
逡巡の後、洗い終えたまな板をまた引っ張り出して、紫蘇を切る。包丁も相変わらず鈍らだから、にちゃっと色素をへばりつけて肩の力が抜ける。ふふっと笑えたから今日の私はまだ余裕があるようだ。


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