FC町田ゼルビアの歴史 ざっくりノート
この記事は?
元は友人にゼルビアの全体像を説明することになり整理用に箇条書きした歴史メモ。消すのも勿体ないと思いnoteに残す。
書こうと思ったもう一つの動機。ゼルビアのHPで2019年に創設30周年企画として公開された『守屋実の未来への言霊』が埋もれてきて探すのが面倒くさいと感じたのでそのリンク保存も兼ねている。守屋先生の言葉は貴重だ。
2021/7/2 初版
2023/5/15 ④追加
FC町田ゼルビアの歴史
ゼルビアの歴史は大きく3つの章に区分される。そして新たに4章が始まった。
ここでは箇条書きメモで記載しているので、もっと興味ある方はWikipediaやヒストリーページなども参考されたし。
① ルーツ
・1977 小学生選抜「FC町田トレーニングセンター」
FC町田 85 ジュニアユース 86 ユース 89 トップチーム結成
※ゼルビアは創設年を1989年としている
・トップ創設の動機「町田市民が応援できるチームを創る」
→“少年サッカーの街”では有力選手が各地に散らばるため、社会人がプレーできる受け皿を町田市内に整備した
・他クラブと異なり育成年代からピラミッドを築いたことをアイデンティティとしている
② Jリーグ前史
・91年の都4部参戦から7年で都1部へ
→町田にプロクラブを創る機運が高まる (活動団体)
・92年 全日空の町田誘致断念、富士通も失敗
・町田ドリームチーム のマッチイベントを開催
→市民のプロクラブへの関心を高めつつFC町田に注目させる
・93年頃よりFC町田の愛称とクラブ理念を固める
→地域愛(子ども、市民、行政、企業)
・98年 FC町田ゼルビアに改名 Jリーグを目指す
・低迷期 解散危機→03年〜 NPO法人化、元プロ加入
・05年 関東2部昇格
・06年 関東2部 優勝、07年 関東1部 優勝→JFL昇格戦敗退
・08年 株式会社化 、下川浩之社長就任、プロ監督 戸塚哲也就任、JFL昇格
・09年 JFL Jリーグ準加盟 J2断念(成績× スタジアム×)
クラブエンブレム・ロゴを変更、ゼルビー登場
・10年 JFL 相馬直樹就任 唐井直GM就任 J2断念(成績〇 スタジアム×)
・11年 JFL ランコ ポポヴィッチ就任 J2昇格
③ Jリーグ編 (CA前史)
・12年 J2 楠瀬直木アカデミーダイレクター就任 オズワルド・アルディレス→楠瀬(代行)→秋田豊 最下位(22) JFL降格
・13年 JFL 楠瀬強化・育成統括本部長、秋田→楠瀬(代行) J2昇格ならず(4)
・14年 J3 丸山竜平強化部長就任 第2期相馬体制 楠瀬アカデミーダイレクター就任 J2昇格ならず(3)
・15年 J3 2位で入れ替え戦、大分に勝利しJ2復帰
・16年 J2 7位、唐井GM就任、17年 J2 16位
・18年 J2 4位、大友健寿社長就任、徳永尊信アカデミーダイレクター就任、最後まで優勝争い、CAグループ入り発表、J1ライセンス不交付(スタジアム× グラウンド× クラブハウス×)
・19年 J2 18位、上の原グラウンド利用開始、J1ライセンス交付、チーム改称騒動、相馬監督退任
・20年 J2 19位、第2期ポポ体制 、コロナ禍
・21年 J2 5位、コロナ禍(昇格プレーオフなし)、菅澤大我アカデミーダイレクター就任、バックスタンド完成、三輪緑山グラウンド完成
・22年 J2 15位、コロナ禍、クラブハウス完成、ポポヴィッチ監督退任
④Jリーグ CA編
・23年 J2 -位、CA運営が本格開始(藤田晋CEO、上田武蔵COO=事実上社長)、大友氏退社(クラブアドバイザー→Jリーグカテゴリーダイレクター就任)、黒田剛監督就任、原靖フットボールダイレクター就任、クラブ初のJ2 6連勝、コロナ5類
おわりに
町田ゼルビアの歴史について一通り列挙した。このポイントを把握して足し算なり引き算して話せばゼルビアの語り部としては十分だろう。
歴史は大事。ゼルビアはクラブもファンも歴史を大切にしていると思う。とても良いことだが、過去を重んじ過ぎて今を軽んじていないか心配になることがたまにある。
まあこれはきっと老婆心。みんな精一杯いまを楽しんでください!
貴方の心の中にいる神に祈りましょう。
それでは🙏
[その他 参考資料]
(おまけ)
ゼルビア(町田市)がアイスランド代表を模倣できないか考えてみた過去記事を唐突にぶっこむ。