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『落語と働く』 看板のピン (笑い話から学ぶ、心地よく働くための深・義・体)

まだひとり暮らしをしていたころ、浅草演芸場の近くに住んでいたこともあり、落語に触れる機会は日常的だった。いまは浅草から離れ、パンデミックということもあり、ライブで聴けぬ寂しさを滲ませながらYoutubeやSpotifyで落語を嗜んでいるわけだが、よくよく聴いていると、案外働き方の教訓にもなるのではないか、と感じている。

粋な噺の中に、人情的な人との関わり方、できなかった人の成長、大きな失敗、などなど私たちの働くシーンを思い起こさせるタネが散りばめられているのだ。

そこで『落語と働く』では、そんな落語から「働き方」や「働くこと」にも応用できそうな学びや教訓を紐解いてみたいと思う。せっかくの落語が堅苦しくなってしまう申し訳なさを覚えつつ…


看板のピン

今回取りあげる落語は「看板のピン」。展開やオチは単純明快で、仕事で疲れた頭をリフレッシュしたい、というときに最適な落語だ。

ざっくりのあらすじはこんな感じ。(ネタバレになるので先にお聞きになりたい方は以下から…)



若い衆がいつものようにチョボイチ(親が振ったサイコロの目を子が予想して金を賭けるゲーム)という博打に興じていると、そこへ隠居の親分がやってくる。若い衆は親分に親になってもらうように懇願し、親分はサイコロを振った。
すると、ピン(1)が出たサイコロが壺から飛び出し、転がっている。そこで若い衆は皆、ピンに賭ける。そして、親分は言う。「勝負は壺の中。それじゃあこの看板のピンは下げて…俺の見立てではグ(5)だ。」
若い衆がざわつくなか、壺の中はその通りグであった。そして親分は、博打ではどんな手を使われているかわからないのだからもうするな、と言い残して場を後にする。
若い衆はみな関心し、博打をやめようと決心するが、一人の男はよい手を知ったと、他の場で試すことにした。
男は、親分の語りややり口をそっくりそのままマネて親をとる。するとその場の者たちはみなピンに賭け、男は看板のピンを取り下げるわけである。みながざわつく中、男は「俺の見立てはグだ!」と言って壺をあげると…「ああ、中もピンだ」

文章にすると簡素で、噺家さんの素晴らしさを改めて感じる。とはいえ、なんとも阿呆らしくもかわいらしい噺なのだが、ここから私が得た学びは以下の3点である。

①【深】表面を模倣することの脆さ
②【義】利己的な目的の不幸せ
③【体】体得した学びの強さ


①【深】表面を模倣することの脆さ

まず1つめの学びは、とても直接的だが、他者の言動をそのままマネて実践することがいかに脆いかという点である。

これは男が親分の語りややり口をそっくりマネして他の場で実践したことからの学びだ。そんなこと実際にはしないでしょ、と思っている人もいるかもしれないが、これと似た出来事は結構日常に潜んでいるのではないだろうか。

その1つが「受け売り」だ。
たとえば、尊敬する先輩が「資本主義の崩壊」について熱く語っているのを聞いて、面白いトピックだと感心し、それを得意げに別のグループに語る、みたいなとき。
物知りに思われたかった、斬新な切り口を持つ人と思われたかった、とかさまざまな動機が考えられるだろうが、受け売りは、「資本主義ってどういう意味?」など根本を問われたときに結局恥ずかしい思いをするのである。

つまり、表面的な情報で理解したつもりになってマネることは、本質や深み、もしくは魂をその言動に吹き込むことができない。先の例なら、そもそも資本主義って何か、なぜそんなことが議論の対象になっているのか、それが起きたらどのような社会になるのか、など表面的な情報に構造的な思考の肉付けを行うことが語りに自分らしい魂を吹き込むことになるだろう。

別の例でいえば、受験で公式を丸暗記しただけでは少し捻られた応用問題に太刀打ちできなくなる、みたいなこともそうだろう。

表面の情報を知ることは素晴らしいことなので、そこに自分の思考を加えて「深み」を持たせないと本質が空洞化して危うい、ということが1つめの学びであった。


②【義】利己的な目的の不幸せ

2つめの学びは、自分の利益だけを目的とした行動には結果も運もついてこない、ということである。

噺に出てくる男は、人を騙して自分が儲けることを目的に看板のピンを利用した。一方、親分は、若い衆をよい道へ導くためにそれを利用した。

つまり、男は利己的な目的で、親分は利他的な目的で、行動したわけである。

科学的ではないと言われるかもしれないが、世のため人のためになる行動をするときはその所作に自信が纏い、成功を導きやすいと感じる。
看板のピンは博打であるため運の要素が大きいが、男や親分を企業に置き換えると分かりやすい。

イメージとしては、「男」は自社の利益を追求する企業、「親分」は社会や社員の利益を追求する企業といった位置付けだろうか。後者はSDGsやウェルビーイングなどに投資をしている企業であり、いわば「社会善」を追求している。ESG投資の盛り上がりからも想像できるように、そういった企業には、金も人もついてきて、社会的な成功を収めやすくなっている。

これは一個人にも当てはまるだろう。利他的とまでは言わないまでも、社会や仲間など「義」を重んじて行動をする人にこそ、結果も(人が運んでくる)運もついてくるのだと思う。


③【体】体得した学びの強さ

そして、3つの学びは、身を以て得た体験が人を強く変身させる、ということである。

これは噺のその後を想像した私の仮説だが、看板のピンを実践した男と他の若い衆では、将来の行動に違いが出るだろう。この男は大失敗を身を以て体感したことでおそらく博打には手を出さないだろうが、ひやりとしただけで実際には損も得もしていない他の若い衆(の一部)は親分の戒めが薄らいでまた博打を再開するのでは、と思う。

完全に経験的だが、先輩や同僚から教訓を伝え聞いて、成功も失敗もしていない状況では、失礼ながら記憶や学びは日に日に遠のいていくのだ。
逆に、「うわ、やってしまった…」「これだとうまくいくんだ」みたいな実感を身を以て得られたことはいまだに鮮明に蘇ってきて、その実践的な学びは、これからの行動の精度を高めてくれるのである。

結果はどうあれ、まずは身を挺して実践するという点に関しては、看板のピンの男から学ぶよい面なのかもしれない。もちろん、①②の学びを念頭に置きながらではあるが。


話がややピンボケした感は否めないが、この場が朽ちぬよう私も日々学びと実践に精進したい。



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