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30代で『商売の厳しさ』を知りました

どこのどいつが書いた記事にもかかわらず「スキ」を頂いて本当にありがとうございます。
以前、20代で『商売の楽しさ』を知った話を書かせていただいたのですが、
今回は20代後半から30代の時の話をさせて頂こうと思います。

奥さんに何と言って辞めたかというと
『俺、小説家になる。俺、直木賞作家になる。だから1年俺に時間をくれ』
というセリフでした
次回、『俺、小説家になるってよ』です!?

前回の記事より

今、思うとこの言葉は【逃げ】も多分に漏れず入っていたなと思います。
でも【逃げ】てよかったです。
もともと一つの小説にめぐり逢ったことで大学進学を考えたので小説は好きでしたが、『子供と会えない』『売上ノルマがきつい』『体がきつい』という現実から逃げたいというのを妻は感じ取っていたんだと思います。
子供が生まれて数か月で旦那が所謂ニートになるのですから、奥さんとしてはたまったものではなかったと思います。
今後についてたくさん会話は重ねましたが
①1年という期間で結果が出なければ就職する
②奥さんが以前から勤めていた会社に復帰するので子育てに積極的に参加する
というこの2つの条件を守ることで小説家の道を歩きはじめました。
ちょうど1年後に新人ミステリー小説の応募があったので、そこを目指して自分なりに邁進しましたが、結論としては最終選考の5名に残りましたが見事に落選という結果になりました。
今思うと、この1年間というのはとても貴重な時間だったと思います。
特に子育てについては生まれて数か月の子供とずっといるのですから、子供と過ごすことの大変さを身に染みて感じることが出来ました。
ただ、その大変さを上回る子供の可愛さに打ちのめされたお陰?で、(可愛いさが全くないあの生意気な)大学生まで育てている(僕の)原動力にもなっているのかなと思います。あの可愛い時間がなかったら、あの一緒に過ごせた時間がなかったら、そんなに子供に興味を持つということもなかったかもしれません。

さて、1年後に就職活動を開始したのですが、やはりどうしても飲食店や小売店といった店舗接客に関わる仕事を中心に書類選考から面接と数十社を受け、数社内定を頂いていたのですが、それらの仕事に就くかを非常に悩みました。
カラオケ屋を辞めた理由の一つに『体がきつい』というのがあり、今後も店舗に立ち続けるということで体が持つのか、また定年までその仕事をずっとやれるのかというのがあったのでまた同じような仕事につくことに悩みがありました。
この時2004年。Windowsもだいぶ定着しインターネットサービスが盛り上がるんじゃないかと、つまりインターネットで儲かることが今後あるんじゃないのかと思い、妻が勤めていたベンチャー企業の社長(以前から親交はあった)に相談したところ『うちに来い』と。
その一言で、ITの世界へ飛び込むことになりました。
年収は前職と同じく560万でした。
この時、30歳。インターネットに縁もゆかりもない世界で過ごしてきた人間でして、本当Word(小説を書くのに使っていた)とエクセル(簡単な関数)しか使えない人間でした。

入社して1ヵ月後。。。K〇DI本社に(出向して)いました。
サイボーズ社製品のグループウェアシステムの運用管理(サーバー負荷や新規機能追加)を同じく出向した先輩とやっていました。
サーバーって何? CPUって何? と本当に右も左もわからない人間でしたので空いている時間にその先輩に指導してもらいながら、また出向時間が終わったら本社(出向元)に戻って、別会社の開発(当時はVB6やVB.net、ASP)をやっていました。18人くらいのベンチャー企業でしたので、一人がシステム構築やらSEやらデザインやらプログラマーと多岐にこなさないといけない環境でした。
そういう生活を3年ほど続けていたのですが、プログラムがまぁ~書けない書けない。同じ職場にいる妻の足元にも及びなかったです。。。

で、3年ほど経ったある日、会社に誘っていただいた社長に『プログラムが書けない、もう辞めます』と伝えたところ、『お前はもう書かなくていい、その代わりに営業とディレクションをやれ』と言われ、そこから外回りでの仕事獲得と要件定義書を作るという職種に就くことになりました。
またその社長に『うちの仕事は請負ばかり(大手独立法人系の仕事が大半)だから、請負先に何かあったときに食い扶持が困るから何か新規サービスを考えろ』というお題を頂きそこから新規サービスを構築するという仕事につくことになりました。

いや~つくりました、新規サービス。
経営的に日々の現金が欲しかったのでそこを中心にしたサービスを恐らく20個程は作ったかと思います。
・バスケットボールリーグ設立
→ストリートバスケットボールリーグを買い取ってその運営を行っていました。クラブを貸し切って、そこにコートを入れて、チケットを発券しお客さんを入れて、飲食やグッズ販売を行っていました。
・ストリートボールウェア販売サイト
→上記で作ったリーグのグッズやストリートボーラーが着そうなウェアを制作、販売していました。
・大人服海外ブランド販売(数サイト)
・子供服海外ブランド販売(数サイト)
→所謂、今でいう転売ヤーです。海外でしか売っていない店の商品を海外から買い付けをしてそれを自社ECサイトや他大手サイトで売るというサービス
・ハードコア音楽サイト
→こちらも海外(オランダとか)でしか売っていないCDやグッズを買い付けをしそれを自社ECサイトや他大手サイトで売るというサービス
・墨蹟販売サイト
→有名なお寺を回って住職に一筆いくらで書いてもらう立て付けにし、その注文をネットで受け付けするサービス
・美術品販売サービス
→ECサイトをつくる手段や方法を知らない老舗の美術商のところに行き、サイトを作成する代わりに、そこから売れたら10%を頂くサービス
・カラーコンタクト販売サービス
→韓国の工場と組んでカラコンを販売していました。個人輸入という立て付けにしてましたねw
・スポーツクラブサイト
→公式HPを持っていないクラブチームが安価にて作成できるようにCMS(コンテンツ管理システム)を構築。
・アダルトなおもちゃを扱うサイト
などなど。
本職はあくまでも大手会社からのシステム構築の請負ですが、違法すれすれやいかがわしい新規サービスもやっていました。

そういうのを精力的にやっていましたが、民主党が政権を握り事業仕分けもあり必ず相見積もりをとれということになり(なぁなぁで仕事がとれなくなった)本業がかなり厳しくなり、社員も40名くらいいたのですが首を
切っていく形になっていく中、そんなある日社長に『(俺は会長職になるから)お前が社長になれ』というお達しがあり、考えた末に取締役社長になることになりました。ただ既に数千万の借り入れがあったので代表権を持たないまま社長という立場で仕事を進めることになりました。
3年ほど所謂雇われ社長業を勤めていたのですが、2013年にドロドロの末(ここは割愛します)会社を畳むこととなりました。
自分達が作ったサービスは売ったり事業譲渡したりしたのですが、今でも数個稼働しているのを見ると嬉しくはなります。

その時、たしか39歳だったと思います。
会社がなくなる(なくす)という経験はしたのですが、やはり新規サービスは作りたいということで、会社の整理が終わったのを見届けた後に、「D」がつくアダルトも扱っている大手会社に転職しました。
新規サービスをたくさん今もつくる会社で、そこのある事業の新規構築・運営に携わることになりました。

主に2014年に入社してから2018年2月頃までは、ディレクターチーフ兼WEBプロデューサーとして全サービスのサイトリリース責任者として年間大小ひっくるめて600案件をリリースしていました。

2018年3月以降は、事業自体の副責任者という立場で
→ちなみにこの辺の給与は700万ほどでした、転職する際にめちゃ安いと言われましたねw
・事業計画立案策定
提供サービス別の継続拡大及びクローズまで視野に入れた事業部全体の年間計画を策定
→年間の目標、方針、計画、スケジュール策定
→提供サービス毎の利益計算
→市場ニーズ、規模、成長性の調査
→営業戦略見直し
→販売チャネル、物流計画見直し
→WEBマーケティング含めた広告費見直し
→年間人員計画見直し

・R&D部門立ち上げ
2018年6月に新規部門であるR&D部門設立するにあたり事業計画書を作成し提案~承認~構築
→主なツール:リーンキャンバス、MVP策定、ジャーニーマップ、トラクションチャネル、マンダラート、ポジショニングマップ、サービス施策マップなど
→商品開発に向けてSH〇RP等と商談。また、商品開発だけでなく販促に向けてC〇C・ヨド〇シカ〇ラ・ビ〇クカ〇ラ等と折衝。決済代行会社・配送会社との折衝。

・P/L予実管理、実行管理
各サービス部門マネージャーとPLを作成、予実管理を行い4半期毎に報告
・KPIツリー・KPI策定、実行管理
数字到達への手段を現場メンバーと共に行い、成果及びコストを月一で状況を確認、適宜修正等を行う
開発メンバーとPV、直帰、CPA、CVR等を確認しながら主にUI改修。
営業メンバーとは、CVを確認しながら主にアタックリスト修正(SPEEDA、HubSpot)
また、マーケティング部と広告予算の調整を行ってました、主な予算としては、WEB(リスティング、アフィリエイト、アドネットワーク等)・マス(看板・雑誌)

・メンバー管理、育成、評価(メンバー120名)
マネジメントでは主に1on1を軸にしたコーチングを行っていました。
評価管理に関しては、行動評価・成果評価の2軸で作成した記憶があります

1年ほどしかその立場はできなかったのですが色々とやらせて頂きました。
ですが、会社内での勢力争いや事業自体の今後の見通しがつきにくいこと、大人数で物事を進めることに自分自身が向いていないというのに気づいたこと、そしてこの事業自体に飽きたのとで43歳で転職し、現在の会社についております。
今の会社も大手でなかなか自由度がなく、新規でサービスを作りたいというところまでいけていないのでちょっとくすぶっているのですが居心地がいいのと給与が結構高いのでいますw

自戒を込めて
・きつい時は『逃げろ』
・やらなくていい回り道をしないならそのほうがいい


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