シャバフキン

高校生と関わる仕事をしています。 高校生の生活を見て感じることを書いています。 フィク…

シャバフキン

高校生と関わる仕事をしています。 高校生の生活を見て感じることを書いています。 フィクション寄りのノンフィクションとノンフィクション寄りのフィクションです。

最近の記事

ヒップホップが日本の子どもに与える恩恵

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 高校生に勉強を教えていると、タメ口を使ってくる子どもたちに出会うことがある。 僕、いちおう、先生なんだけどな・・・。 そう思いながらも、子どものタメ口に対し、こちらは丁寧な言葉と、「さん」付けで返事を返す。 「〇〇さん、ここは1番じゃなくて2番の方がいいと思うんだけど、なんでかわかりますか?」 「ん?知らない」 子どもが大人に対してタメ口で話すのは、彼ら彼女らの防衛本能からくるもので、大人のこ

    • 学校で「日常会話」は教えるべきなのか

      <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 私たちは日常会話を習ったことがない。 おしゃべりの仕方とか、雑談の仕方とか、世間話の仕方とか、ナンパの仕方とか。 以前は「コミュニケーション」という言葉も日本にはなかったので、それも当然だったのだろうが、今では、「コミュニケーション能力」は社会でやっていく際に重要な能力の一つになっている。 コミュニケーション能力が大事になったのは、サービス業が全体に占める割合が増え、人とコミュニケーションを取る

      • 教育に「現場」があるかぎり、AIに取って代わられたりしない

        「君は、将来は弁護士になるんじゃないかな」と中学生の時に言われたことがある。 そうはならなかったけど。 「君は、哲学の道に進んだらどう?」と、大学生の時に言われたこともある。 これも、その道に進むことにはならなかった。 「弁護士」と言った人も「哲学の道」と言った人も、軽い気持ちで言ったんだろうけど、軽い気持ちにしてはその2つには差があるなぁと感じる。 弁護士は、世の中にまぁまぁ必要な職種だけど、哲学者は世の中にそんなにはいらない職業だ。 弁護士や教師のような「現場」があ

        • 森鴎外と父とのやり取り 明治の親子関係

          森鴎外の随筆に、幼い頃の森鴎外が、父にサフランについて尋ねる描写がある。 「お父っさん。サフラン、草の名としてありますが、どんな草ですか。」 なんとも健やかな話し方だと思う。 馴れ馴れしくもなく、厳しくもない。 「いいとこの子」だなと思わせる話しぶり。 父と子という関係だが、今でいうと、尊敬する先生(そんな人がいればだが)に対するくらいの距離が、そこにはある。 愛情がありつつも、精神の距離がある感じ。 ちょうど江戸が終わり、明治が始まった頃の、父と子の話。 父と子、それ

        ヒップホップが日本の子どもに与える恩恵

          子どもと信頼関係を構築していない「社会」が子どもを更生させることは、ほぼ不可能

          <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 万引きはしたことないが、万引きを捕まえる店側の立場にいたことはある。 万引きをした子どもの扱いは、困ることが多い。 (万引した大人はもうどうしようもないので、扱いに困ることはない) 自分が下手に教育的な視点を持っていたために、万引きした子どもを見逃してやったことも、学校に通報したことも、警察を呼んだことも、親を怒鳴りつけたことも、店を出禁にしたことも、反省文を書かせたこともあるが、正直、どれも手応

          子どもと信頼関係を構築していない「社会」が子どもを更生させることは、ほぼ不可能

          「定額読み放題サービス」のように、たくさんの本が安い料金で簡単に読めるようになった令和の時代において、昭和の児童書『モモ』の教えは、より貴重に聞こえる。

          <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 月額980円で対象の本がどれでも読み放題のサービスがある。 様々な種類の本があり、その中に、詩集もある。 詩集や歌集を読むことに喜びを覚える者として、本屋さんには並ばないようなマイナーな詩集や歌集が定額料金で読めることは、存外の喜びである。 だが、 ダウンロードし放題 感覚的には0円くらいの定額制 色んな本が次から次にサクサク読める そんな便利なサービスを利用しながら詩集を読んでいると、頭にも、目

          「定額読み放題サービス」のように、たくさんの本が安い料金で簡単に読めるようになった令和の時代において、昭和の児童書『モモ』の教えは、より貴重に聞こえる。

          日本人がいるところなら世界中のどこででも見られる祈り:「世界人類が平和でありますように」

          京都は祇園の八坂神社にいくと、南門を入った敷地内に杭が打ってある。 「世界人類が平和でありますように」 日本人がいるところなら世界中のどこででも見られるという、あの、おなじみの杭は、ある宗教法人が広めたとか、博報堂が関わっているとか、なにやら裏の話もあるようだが、杭に書かれている文言自体は、単純な祈りの文である。 「世界人類が平和でありますように」 祈りは「縁」を分け与える。 自分との「縁」があるから祈るのではなく、 祈ることで「縁」ができる。 「世界人類が平和であ

          日本人がいるところなら世界中のどこででも見られる祈り:「世界人類が平和でありますように」

          日本の部活動は部員に「感謝」ばかりさせているが、もっと「調子にのらせた」ほうがいい

          <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> まったく勉強をしていないし、成績も悪いのに、そのうち自分は東大にいけるんだと謎の自信を持ち、「勘違いしている子ども」がいる。 逆に、自分の成績を直視し、自分が行けるであろう堅実な大学を見据えて進路選択を考えている、「勘違いしていない子ども」もいる。 将来が決まっていないのが子どもであり、将来に開かれているのが子どもの特権みたいなものなのだから、子どもには、多少「勘違い」していてほしいなと思う。 し

          日本の部活動は部員に「感謝」ばかりさせているが、もっと「調子にのらせた」ほうがいい

          先生たちは、ブルシット・ジョブの波の中で溺れかけているが、子どもたちも、色々な大人から課されたブルシット・ワークの波の中で溺れかけている

          <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 人前でものを教えることを仕事にしているのに、漢字があまり書けない人が、世の中にはいる。 国語の先生でもないかぎり、漢字を書けないことは大したことではないとは思うが、漢字が書けないことを恥ずかしいと思っていることが、教壇から伝わってくる人もいて、見ていてかわいそうになる。 また、書いている漢字は合っていても、書き順が違う人というのも、まあまあいる。 だが、これは日本だけで注意を向けられる点で、欧米に行

          先生たちは、ブルシット・ジョブの波の中で溺れかけているが、子どもたちも、色々な大人から課されたブルシット・ワークの波の中で溺れかけている

          アメリカ政府は「一人の生徒も取り残さない」と言ったが、SDGsの人は「地球上の誰一人取り残さない」と言っている

          <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 巷では、「SDGs」が流行っている。 高校生が使う英語の教科書にも、単元ごとに「SDGs」のマークが記されており、その単元のトピックが、どう「SDGs」と関わっているのかが示されている。 高校の先生たちの中には、それが一体何を表しているのかよくわかっていない人もいるが、それは「エコ」みたいなもので、世の中全体が良しとしているものなのだから、今更、何なのか、何の意味があるのか、聞いてはいけない雰囲気

          アメリカ政府は「一人の生徒も取り残さない」と言ったが、SDGsの人は「地球上の誰一人取り残さない」と言っている

          ジェンダー的な視点から「赤ずきん」や「眠れる森の美女」を廃棄することについて

          <わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています> 数年前、スペインのある小学校で、ジェンダー的な視点から、 「赤ずきん」や「眠れる森の美女」を含む、 不適切な児童図書200点が廃棄されるというニュースがあった。 女性と男性の役割分担を間違って教えるような古い価値観の児童書は、 子どもたちに間違った性意識を植え付けるという理由から選別が行われたらしい。 子どもが本から受ける影響は多分にあるもので、 子どもに読ませる本を大人が選別する以上、 そこには

          ジェンダー的な視点から「赤ずきん」や「眠れる森の美女」を廃棄することについて

          SNSで推しへの愛を語っている今の子ども達と「机」や「下敷き」に好きな芸能人の名前を書いていたかつての子ども達の本質は変わっていない

          <わたしは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしているシャバフキン> 「音楽」の授業で歌った歌は今でも覚えているが、「国語」の授業で扱った小説は一つも覚えていない。 それは、国語の教科書に載っている小説がつまらないのではなく、教科書に載ることで小説がつまらなく感じてしまうからだろう。 どんなに良い小説でも詩でも短歌でも、国語の授業内で読むと、途端につまらなくなる。 勉強やスポーツを強制されるより自主的にやったほうが成績が伸びるように、本を読むことだって、強制されるより自

          SNSで推しへの愛を語っている今の子ども達と「机」や「下敷き」に好きな芸能人の名前を書いていたかつての子ども達の本質は変わっていない

          アメリカで車の免許取りに行ったら、魔女みたいな教官に当たった話

          免許の更新に「免許センター」へ行った。 前回の免許更新から何度か警察に捕まったので、 今回も、しっかり「違反者講習」も受けた。 これまで、「違反者講習会」を受けなかったことはないくらい毎回出席しているが、「違反者講習会」で見せられるビデオは、毎回違う。 何年間も、惰性で同じものを流し続けないところに、 免許更新センターの意気込みを感じる。 僕が毎回、交通違反をして、違反者講習を受けなければいけないのは、 たぶん、僕が、自動車学校に通ったことがないからだ。 若い時、外国でち

          アメリカで車の免許取りに行ったら、魔女みたいな教官に当たった話

          肌のきれいな人は化粧水をさぼってもきれいだし、 勉強のできる人は放っておいても勝手に勉強する

          「もっと丁寧にやって」 掃除のやり方で妻に怒られると、 普段、先生に怒られている子どもたちの気持ちがよくわかる。 「丁寧ってなにさ?」 そういう顔をして、無言で反抗する。 自閉症の子にはふわっとした指示ではなく、 なるべく具体的な指示をしなければ、 なにをどうしたらいいのか困惑してしまうと言われるが、 それは彼らに限ったことではない。 僕だってそうだ。 どこからが丁寧なのかは人によるのに、 丁寧な人は、より丁寧じゃない人に対し、 「丁寧にしろ」と言ってくる。 「こちと

          肌のきれいな人は化粧水をさぼってもきれいだし、 勉強のできる人は放っておいても勝手に勉強する

          子どもが陥る「有事」は、 そのほとんどが「個人的な有事」である

          先日、まったく話が噛み合わない人にあった。 その時話していたのは、教育の話だったが、 なんでこんなに話が噛み合わないのかなぁと考えてみると、 こちらが「有事」のことを考えているのに、 相手が「平時」を想定して話しているからだった。 前提が違うと、話も噛み合わない。 話の前提として当たり前にこちらが「有事」を想定している一方で、 当然のように、「平時」を基本にものごとを考える人がいる。 そこにはなんらかの理由があるのだろうが、 「有事」を想定する癖のある自分からすると、

          子どもが陥る「有事」は、 そのほとんどが「個人的な有事」である

          ねこ娘が八頭身になる時代にも、妖怪には果たすべき役割がある

          「おい、鬼太郎」 高校生たちが目玉の親父の声真似をしている。 その様子だと、「ゲゲゲの鬼太郎」はまだ、 ティーンネイジャーに受け入れられているらしい。 安堵。 この前、たとえ話で長嶋茂雄を挙げた時はキョトンとされたし、 ヒッピーの話をした時は、「それ、ゆるきゃらですか?」と言われ、 ヒッピーの画像を見せると、 「あぁ、Superflyのことですね」と返された。 高校生になにが伝わり何が伝わらないかは、 例え話をする時のためにも、把握しておく必要がある。 「ゲゲゲの鬼太郎」

          ねこ娘が八頭身になる時代にも、妖怪には果たすべき役割がある