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ヒップホップが日本の子どもに与える恩恵

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>


高校生に勉強を教えていると、タメ口を使ってくる子どもたちに出会うことがある。

僕、いちおう、先生なんだけどな・・・。


そう思いながらも、子どものタメ口に対し、こちらは丁寧な言葉と、「さん」付けで返事を返す。

「〇〇さん、ここは1番じゃなくて2番の方がいいと思うんだけど、なんでかわかりますか?」
「ん?知らない」


子どもが大人に対してタメ口で話すのは、彼ら彼女らの防衛本能からくるもので、大人のことが信用ならないからだ。
相手に対して丁寧な物言いをすることが、なんだか相手の軍門に下ったようで、我慢ならないのだ。

自分は相手より下ではない。
そう思い、タメ口で頑張る。

彼ら彼女らは、タメ口を「防波堤」に、ただただ自分を守っているだけなので、大人との間で次第に関係が深まり、信頼が醸成されるようになると、子どもたちの言葉遣いは次第に、丁寧になる。


丁寧な言葉や敬語を使うことが「負け」ではないことは、大人になればわかる。
それは、相手を敬うことが、自分を敬うことにつながるからだ。

相手になめられたくないと考える人間は、タメ口をきくことで、相手の上に立ちたいと思うものだが、相手をリスペクトしていない時点で自分もリスペクトされないし、それ以前に、自分自身のことを相手と自分との上・下関係のみで見ているような、自身に対するリスペクトの欠ける態度を取る人間を、相手は軽く扱う。


自分自身を敬う(=Respect myself)というのは欧米からやってきた考えだと思うが、その思想を最も打ち出している文化は、ヒップホップである。
ヒップホップの言葉の中で、この20年ほどの間に最も日本社会に浸透したものは、「ディスる(批判する)」と「レペゼン(ある集団を代表する)」の2つである。

だが、そうした言葉とは別に、最も日本人のためになるであろうヒップホップの思想が、「自分自身を敬う(Respect myself)」という考え方である。

子どもたちには「ディスる」ことを覚える前に、「自分をリスペクトする」ことを覚えてほしい。


ヒップホップには大別すると4つの分野があり、その一つであるラップに関わる人たちは、「日々のリアル」を歌うことを旨としている。

リアルを歌うことこそが「是」なので、ラップの内容は、地味でも、悲惨でも、パッとしなくてもよい。
リアルを歌えば、それだけでヒップホップ。

その考えの根底には、「自分自身を敬って」さえいれば、どんな最悪で最低なリアルでも受容可能だとする思想が流れている。


日本を代表するリリシストの一人、ZORNは、自身の楽曲の中で「洗濯物干すのもヒップホップ」と、有名なバースを残した。
ワル自慢だけがヒップホップではない。
洗濯物を干していても、子どもや親のオシメを換えていても、ヒップホップの精神がそこにあれば、それはヒップホップになる。


そうしたセルフ・リスペクトの精神は、欧米、少なくともアメリカでは、家庭教育の中に根付いているといえる。
彼らは、日常的に「リスペクト」と口にすることで、「Respect myself」の定着を目指す。

子どもに対しても親に対しても、彼らは「リスペクト」しているだけでなく、それを口にして相手に伝える。
言葉にすることで、彼らは意識的に、リスペクト精神を醸成していく。


日本はそのあたりの考え方を言語化することがないのだが、欧米の「Respect myself」に値する精神を、集団の中の慣習や役割、自然との関わりや人間関係など、言葉以外のものが肩代わりしてきたことで、自己への矜持を保ってきたと考えられる。
しかし、近年(というかこの数十年)、その機能が急速に失わてきたことで、多くの子どもが自身の存在の不確かさに戸惑っている。


成績や、親からの評価など、客観的なものさしでしか自分を測れず、そのものさしによって肯定され得なかった子どもたちは、自分の生を自身によって肯定できずにいる。

「自分自身を敬う(=Respect myself)」とは存在の肯定である。
そして、自分のことは自分のものさしで測ってもよいのだという肯定でもある。


自分の日常がどんなに相対的に惨めであっても、他人と比べて劣っているように見えたとしても、それが自分にとっての「リアル」である以上、自分は自分を肯定していい。
「Respect myself」は、そうした肯定精神であり、主体的であり絶対的な評価基準である。


新型コロナによる社会変動は、人々の接触を悪のように思わせてしまい、子どもに対しても「距離を取れ、距離を取れ」と責め立てるが、最も根源的な部分で人の存在を肯定するのは「接触」である。
養育者に抱かれて育たなかった赤ん坊が成長するにしたがって、心身的な問題を起こしやすいように、触れるということは根源的な肯定である。

それは子どもと親(や養育者)の間だけにいえることではなく、友達に触れることも、動物に触れることも、道端のなんだかよくわからない生き物に触れることも、自分と相手との「関係の構築」であり、それがひいては、他者を肯定し、自身を肯定することにつながる。


以前はまだ新型コロナが子どもの生活に少なからず影響していたため、接触を気にさせる対応も仕方なかったが、この状況が半ば日常化した今では、私たちが、「命」や「健康」や「イベント中止」の反対側の天秤に何を載せているのかを、しっかりと考えるべきだろう。
新型コロナによって健康を脅かされるのは「弱者」だが、その社会対応によって色々な経験を失っている子どもも、また「弱者」なのである。

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