見出し画像

SNSで推しへの愛を語っている今の子ども達と「机」や「下敷き」に好きな芸能人の名前を書いていたかつての子ども達の本質は変わっていない

<わたしは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしているシャバフキン>

「音楽」の授業で歌った歌は今でも覚えているが、「国語」の授業で扱った小説は一つも覚えていない。

それは、国語の教科書に載っている小説がつまらないのではなく、教科書に載ることで小説がつまらなく感じてしまうからだろう。
どんなに良い小説でも詩でも短歌でも、国語の授業内で読むと、途端につまらなくなる。

勉強やスポーツを強制されるより自主的にやったほうが成績が伸びるように、本を読むことだって、強制されるより自主的に読んだほうが自分の中に入ってくるはずなのに、国語の授業は、なぜか、クラスの皆と歩調を合わせながら読まされる。

100メートルを6秒で走れる人が、9秒でしか走れない人たちと同列で並んで走らされたら、それは苦痛でしかない。
自分のペースじゃないのに、楽しいわけがない。

国語の授業で扱う小説や随筆や詩は、文学作品であり、芸術作品である。

「美術」の授業であれば、絵画や彫刻などの芸術作品を生徒に見せて、その作品をどう見るべきかという、「正解」の見方を生徒に押し付けるようなことはしない。
作品を見た時の感じ方は人ぞれぞれ。
感性は押し付けることができないと考える。

それなのに、国語の授業では、文学作品の正しい読み方があるかのような、細かい読み方の解説が続く。
小説に出てくる登場人物の振る舞い方に対する「感じ方」は読む人それぞれの感性による、とはならない。

ただ、問題は、「美術」に対する子どもたちの「好き・嫌い」は、学年が上がるにつれ悪くなることだ。
つまり、学年があがることに、「美術が嫌い」という子どもが増えていくのだ。
「感じ方は人それぞれ」という、子どもに「正解」を与えず、自分の中の「正解」を取り出させようとするアプローチは、だんだんと嫌われていく。
ここが、クラスで一斉授業をすることの難しさであろう。

クラス全員で足並みを揃えて作品を読もうとすると、「つまらない」と思う子がいて、それぞれの感じ方に委ねて作品を鑑賞しようとすると、どう感じてよいかわからずに嫌いになる子が増える。

得意な子にはのびのびと先に進ませ、不得意な人には丁寧にフォローする。
理想はそうだが、現実には困難さがつきまとう。
「言うはやすし・きよし」である。

10代が一番利用しているSNSはツイッターだという。

SNSの一日の利用時間の調査によると、
2位がインスタグラム、3位はLINEらしいが、
ツイッターにしてもインスタグラムにしても、
10代が、SNSの中にずっと滞在して、
その中で自己表現したい気持ちは、わからなくもない。

若者はいつの時代も、自分の言い分を誰かに聞いてもらいたいわけで、
SNSというツールがなかった時代も、
机や下敷きに、「〇〇LOVE」とか「〇〇命」と、彼らは書いていた。

「机」や「下敷き」がSNSに移行しただけで、
安定しないふわふわした自己をなんとか掴みたい中高生の本質は、
何も変わっていない。

大人に比べて、10代の子たちは振り返るほどの過去を持っていないが、
過去のない若者ほど、過去を振り返りたがる。

過去の蓄積であるSNSを利用しているのも、
自撮りで撮った写真をずっと眺めているのも、
一時期、プリクラを集めまくっていたのも若者たちで、
彼らは、すべて過ぎ去った過去の記録媒体を眺めながら、
曖昧な、自分の実態をなんとかつかもうとする。

しかし、どれだけ10代の若者が過去を振り返ろうとしても、
彼らには、確固たる過去がない。
「若者」とは、「経験が浅い」や「積み重ねがない」と同義みたいなものであり、
過去がないことで、大人は若者を、「子ども」扱いする。

大人が若者に対して寛容なのは、若者に「未来」があるからで、
未来ある若者は、失敗しても問題にならないし、
間違ったとしても、次がある。
まだ結果を求められていない若者たちは、
未来があるということだけで、大人から容赦して貰うことができる。

それなのに、
SNSのような過去の蓄積を可視化できるようなものに毎日触れていると、
SNSの中の、過去の積み重ねがそのまま=「自分」なのだと思ってしまう。
過去の中に自分を見てしまう。

SNSや写真のような記録媒体がない時代の子どもは、
記録された自分に触れることがなかった分、自分を過去の中に見ることはなかった。

自分とは、周りの人の目の中に映る自分のことで、
それは多分に世間的な自分であったかもしれないが、
少なくとも、その自分は「現在の自分」だった。

未来があるというのは、まだ「自分」のカタチが不確定ということで、
10代の子どもらの外見は、焼き物でいうと、まだ、粘土をこねているような状態。
これから手びねりやろくろで形を整えて、
素焼きして、筆で絵付けをし、釉薬を流しかけて、何度か窯に入れて、
ようやく形がキマり始める。

まだうまく形になっていない彼らの顔やからだ同様、
こころも、これからどんどん変わっていくもので、
それを、10代のうちから、過去の自分を自己参照して、
自分とはこういうものだと自分で自分を固定してしまったら、
もったいない。

それは女子高校生がばっちり化粧するようなもったいなさで、
大人になってからできることを若いうちにやるのは背伸びでしかないし、
そもそも似合っていない。

10代という、まだ手びねりで成形する前の段階に
過去の目や他人からの目を意識しすぎてしまうと、
世間的に「正しい形」や「美しい形」と乖離した現実の自分を認められなくなってしまう。
SNSの中の加工して修正した自分や
見栄えのいいことをしている自分だけを自分と思いたい気持ちになっても、
それは自分の一部でしかない。

化粧を覚えた大人が、化粧をしすぎることですっぴんが見せられなくなっていくように、
SNSで自分を取り繕いすぎていると、生の自分が見せられなくなっていく。

未来ある若者は、まだ自分のことを言い当てる言葉も見つけておらず、
どういう顔になるかもこれから決まっていくのだから、
人に見せるための自分を、SNSの中に積み重ねて、
その過去を自分だと思うのは止めたほうがいい。

若者は未来があるから若者なのだ。

過去なんてなくていい。
過去で自分を語れてしまったら、それはおじさんかおばさんだ。

ツイッターだろうがフェイスブックだろうが、
SNSはほどほどに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?