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子どもと信頼関係を構築していない「社会」が子どもを更生させることは、ほぼ不可能

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>


万引きはしたことないが、万引きを捕まえる店側の立場にいたことはある。

万引きをした子どもの扱いは、困ることが多い。
(万引した大人はもうどうしようもないので、扱いに困ることはない)

自分が下手に教育的な視点を持っていたために、万引きした子どもを見逃してやったことも、学校に通報したことも、警察を呼んだことも、親を怒鳴りつけたことも、店を出禁にしたことも、反省文を書かせたこともあるが、正直、どれも手応えがなかった。

そして、結局、店側として正しい対処は、警察を呼ぶか、学校の先生を呼ぶかだと思うに至った。


教育的には、子どもが非行に走った際、「社会的・法的に正しいこと」だけを教え、諭すだけが正しい対処法ではないと言われる。

しかし、社会(店側)ができることは、「法的に正しいこと」を教えることだけだったりする。

つまり、子どもに説教をしても、反省を促そうとしても、それまでその子どもと関係を築いていない「社会側」が子どもの心の奥底をひっつかんで、自分がやったことの愚かさを自覚させることは、ほぼ不可能なのだ。
できることといえば、「社会的に」警察を呼ぶことくらい。

それと同じように、学校という組織の中で先生たちができることも、「公教育的に」対処することだけだったりする。
だから、社会(店側)として、警察ではなく、学校の先生を呼ぶことはあるが、そこで先生が子どもにやっている表面的な叱責は、店側が子どもに与える表面的な叱責とほとんど差異がない。


「子どもが非行に走った際に、社会的・法的に正しいことを教え諭すだけが正しい対処法ではない」。
そう人々が感じるのは、子どもの非行にはなんらかのメッセージがある場合が多いからだ。

ハイチュウを万引きした子どもの喉が、心底、甘味を欲していることはないし、リップクリームを万引きした子どもの唇が、パリパリに乾いていたということはない。
子どもらは、モノが欲しくて万引きするのではない。


ただ、普段から信頼関係を築けていない社会(店側)や公教育側が子どもたちのメッセージに答えられない以上、そのメッセージを受け取れるのはほとんど親だけである。
しかし、もし、その親が、子ども同様、万引きをなんとも思ってない「ばか親」の場合、どうにも救いようがなくなる。


そして、学校の先生でも親でもなく、警察に渡したとしても、警察は、表面的に処理して「終わり」である。
稀なケースとして、何度も何度も万引きを繰り返すような子どもであれば、心理カウンセラーに相談できる機会が設けられ、その非行行為の裏に隠されたなんらかのメッセージが共有され、そのことをきっかけに、子どもが改心することもあるかもしれない。
しかし、多くの子どもは、特別な誰かと話す前に、「改心」のチャンスもないまま、大人になっていく。

万引きのような反社会的行為をきっかけに子どもが「変わる」ことはある。
しかし、そのためには、非行行為を、「社会的・法的に正しいことを教え諭すだけではない」レベルで話してくれる大人との関係が必要である。

だが、そうした関係を普段から構築している子どもは、そう多くはない。
子どもが日常的に接している大人は、親か学校の先生か塾の先生くらいである。
そこに「社会的・育児的な視線」以外で子どもを見ている人はいない。


そう考えて社会にいる大人を見回してみると、思春期に、そこまでワルになりきれず、中途半端に社会のルールやマナーに反抗し、狡い「万引き」だけをやってきたばかりに、自分を変えるチャンスを逃してきたのはないかと感じさせる人が、少なからずいる。
彼らは、「メッセージ」を誰にも受け取ってもらえなかったのだろう。
「社会的・育児的な視線」以外で子どもを見るような大人がいなかったばかりに「改心」するチャンスを失った彼らは、大人になっても、違う形で、「万引き」をし続けている。


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